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強靱な身体運用こそが、美を現出させる:梅若万三郎『半蔀』(2018年4月14日、篠山春日能)

篠山春日能に参じるのは2度目。今年は梅若万三郎『半蔀』、茂山あきら『寝音曲』、そして大槻文藏『鉄輪』。今回は天気がすぐれず、途中から雨風が強くなった。それゆえ、茂山あきら『寝音曲』と大槻文藏『鉄輪』については雨風を気にしながら観ることになったため、ここで書くのは控えておきたい。

さて、万三郎の『半蔀』、予想を上回る成果だった。

名ノリ笛でワキ(福王茂十郎)登場。取り立てて何事もないけれども、やわらかい趣はただよう。アシライ囃子となって、前シテの出。屋外舞台ゆえのことか、あるいは足腰のいくばくの衰えゆえのことか、ハコビの足は小さめの歩幅。ただ、一ノ松に立って、正先を眺めやる立ち姿の美しさは尋常ではない。

この日のこの舞台、深々とした謡はもちろんだが、しなやかに勁く美しい姿勢が、何よりも面の表情としてはっきりと現れていた。腰から背筋にかけての揺るぎなさ(もちろん、硬直とは全く異なる)ゆえに、詞章に示されている心情の変化が面はもちろんのこと、全身から滲み出る。僅かな時間しかない前場でも、それが濃厚。

間狂言(丸石やすし)のあと、ワキの謡があって一声の囃子で後シテの出。白地長絹に褪せた色の緋大口。その姿の決まり具合も素晴らしいのだが、クセで「隣を聞けば三吉野や、御嶽精進の御声にて」と正中あたりで右ウケ聴く姿、そして「そぞろに濡るゝ袂かな」とシオル姿の法悦感など、定式の所作から濃密な情趣が溢れていた。

続く序ノ舞でもその情趣は持続。途中で雨が降り出して、見所は雨合羽を羽織る音に満ちたけれども、そんなことは関係ないほどの充実。終曲まで、80分あまりがあっという間だった。

そもそも『半蔀』という曲は、『夕顔』に比べてよく舞台にはかけられるけれども、構成や内容という点では表層的で、私は今ひとつ好きになれない。この日の万三郎の『半蔀』もそこに何かの狙いがあったとかいうような感覚ではない。ただ、そういった表層的な演劇性に拘泥せず、身体表現から匂い立つ趣の現出に徹しきったことで、かえって深い美しさを示しえていた。とにもかくにも、これ以外の身体の定まりようなど考えられないくらいの強靭な美なのだ。

屋外の舞台ゆえ、いろいろ割り引いて考えなければならない点はあるのかもしれない。しかし、そんなことはさて措いても、圧倒的に勁く美しかった。

来週(4月26日)には国立で『西行桜』もある。ますます楽しみになってきた。

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