2018年の観能ふりかえり

今年も慌ただしくて、なかなか能を数多く観るという機会には恵まれませんでした。それでも、何とかかんとかやりくりして、観に行くことができました。ほんとは11月から12月にかけて観た大槻文藏『夕顔 山ノ端之出』(11月9日:銕仙会)、塩津哲生『夕顔 山之端之出』(11月25日:喜多流自主公演)、大槻文藏『芭蕉』(12月5日:国立能楽堂定例公演)は、どれもすばらしく、個別に書き置くべき舞台です。もし時間を取れるようなことがあれば、あらためて詳細に書きたいと思いますが、まずは2018年の振り返りのなかで記録にとどめておきます。

2018年、記憶に残った舞台

日時順に記載します。
(1)塩津哲生『頼政』(2月7日:国立能楽堂定例公演)
(2)梅若万三郎『西行櫻』(4月26日:国立能楽堂企画公演)
(3)塩津哲生・梅若万三郎『小原御幸』(5月13日:清能会)
(4)梅若万三郎・塩津哲生『大原御幸』(6月16日:大槻能楽堂自主公演)
(5)野村四郎『盛久』(8月18日:大槻能楽堂自主公演)
(6)野村四郎『景清』(9月17日:彦根城能)
(7)塩津哲生『半蔀 立花』(10月6日:清能会)
(8)梅若万三郎『姨捨』(10月20日:橘香会)
(9)大槻文藏『夕顔 山ノ端之出』(11月9日:銕仙会)
(10)塩津哲生『夕顔 山之端之出』(11月25日:喜多流自主公演)
(11)大槻文藏『芭蕉』(12月5日:国立能楽堂定例公演)

役者に偏りがあることはご容赦ください。

このなかで、特に特に厳選となると(2)と(11)となりましょうか。(4)(8)(9)(10)なども捨てがたいのですが、あえて上半期と下半期で一つずつとなると、こうなりそうです。

今年もこれらの役者にきわまったかという印象。ここ数年は、この4名ばかりを観ているような気もします。万三郎さんの『西行櫻』は上半期で最上の舞台。清能会における『小原御幸』での法皇、大槻能楽堂における『大原御幸』建礼門院もこれに匹敵するものでしたし、篠山春日能でみた『半蔀』も野外でかつ途中降雨という悪条件のなかでも、柔らかな、しかし強烈な磁力で時間と空間を惹きつける舞台でした。

そのなかでも、『西行櫻』は抜群にすばらしかった。シテとして桜の精たる老翁の姿を描き出しながら、その周りの世界をも豊かに、そして鮮やかに描き出して、その時間と空間の全体性を余すところなく表現するというのは、そうそうできることではありません。局所だけを取り出すのは危ういですが、とりわけクセが済んで太鼓(小寺佐七)が打ち出し、大小前でワキに向き佇立するシテが絶妙の間で「すはや数添ふ時の鼓」と謡う一瞬に〈時の流れ行くさま〉が鮮やかに現れていました。今まで、このことをこれほどまでに意識させられたことはありませんでした。だからこそ、「あら名残惜しの夜遊やな」以下が深い意味を持ってくるのだと思います。時間は流れていくということ、そのなかで幸福な一瞬の永続を人間は希求してしまうこと。その如何ともしがたい美しい矛盾が、序之舞に凝縮されていました。しかも、そんなことを演じている万三郎さん自身は、まったく狙っていないかのように映りました。一切の無駄は削ぎ落とされて、舞台上での所作は定式どおりなのです。「万能を一心にて綰ぐ感力」(『花鏡』)とは、まさにこれを言うのかな、と。舞い上げて以降も、その感覚は持続し、「白むは花の影なりけり」と作リ物の花を見遣り、正に直して右袖を巻き上げて常座で立ったまま「夢は覚めにけり」。この謡も深々として、時間が過ぎゆくのをあらためて実感させるものでした。そして、地が引き取ってシテはワキに向き、「嵐も雪も散り敷くや」と右にサシ回スように身体を捻りながら(やや下方向を見遣るように)幕を向いて橋掛かりに進み、そのまま幕へ。ワキは立って一足出てシテを見送ったあと、正先を見遣ってトメ。一曲全体を通じて、梅若万三郎という役者を強力な磁場として、同時に梅若実が率いる地謡、宝生欣哉の西行、殿田謙吉以下の花見男、そして松田弘之、鵜澤洋太郎、亀井忠雄の囃子、茂山七五三の能力それぞれも磁力を発揮しつつ、全体として濃密な時空間が具象化されていたことを、今も鮮明に記憶しています。

このような表現は、10月の『姨捨』においても同様にみられました。これについては、ともかくも書きとめてあります。足腰の弱りは顕著になりつつありますが、2019年10月には『芭蕉』を舞われると仄聞しています。これは、今から楽しみです。

そして、下半期に超絶的に引き締まった舞台を見せてくれたのが、文藏さんでした。正直、『夕顔』と『芭蕉』に優劣をつけろと言われても、困ってしまいます。それくらい、充実して、濃密な舞台でした。『夕顔』の前場での床几にかかる姿の端正さと可憐さは比類なく、甫閑作の増の面は表層的な表情ではなく、内側から滲み出てくるような趣として、舞台で活きていました。後場もこの充実は続き、序之舞を軸に法悦的な成就が生じていくような昂揚感は尋常ではありませんでした。『夕顔』の魅力は、この法悦的な成就とエロスとが絶妙に混交しているところにこそあると、私は考えています。だからこそ、舞い上げて、「今のお僧の」と大ノリ謡になり、シテとワキが向かい合って合掌するというかたち、そしてキリに向かっていく解放感が意味を持ってくるのだと思います。この日の『夕顔』は、そういったこの曲の趣が遺憾なく具現化されていた舞台でありました。

一方の『芭蕉』は、これを上回る充実。「あやめ女」というちょっと変わった面(臈長けた趣と色気とが相交じるような貌立ち)で、背筋の徹った姿は端麗そのもの。一般的には紅なしで中年女性として描かれるわけですが、伝書によっては、この女人は李夫人の化身としても解釈される由。たしかに、僧のところへずかっと入り込んでくるわけですから、そこに色気があったとしてもおかしくはありません。前場でのシテとワキ(福王茂十郎)との掛合では、経文読誦をともにすることで、やはり法悦的な成就が滲み出ていました。そのあとを承ける地謡(地頭:梅若実)の二ノ同での情景描写もすばらしく、まことに豊かな時空間が立ち現われていました。「成仏の国土ぞ」とシテとワキが向かい合う姿に、両者の心が通じ合うかのような濃密な感覚があったことは、まことに印象的でした。ロンギの後、「恥ずかしや」と立ち、「道さやかにも」と右ウケ、ゆっくりと見わたし「野はさながら」と幕方向に向いていくあたり、月を見る心というか、月に照らされるかのような趣がありました。口跡明瞭で、これまた趣深い間語リ(茂山七五三)があって、後場。緑色(山藍色?)の長絹に浅葱の大口をつけた後シテが登場。一ノ松で正を向き、一足出て一セイの謡。以下、謡も姿も文句ない充実で、詳細は省略しますが、こんなに『芭蕉』という曲をおもしろいとおもったことはかつてなかったくらいの充実でした。序之舞から、終曲に至る所作の連続する場面も、一つひとつが流麗かつ強靭で、抽象性の極みといわれるこの曲をその曲趣のあるべき姿のままに、まさに具象のうちに抽象を現前化するような感がありました。

来年下半期は、大槻能楽堂が改修工事とのこと、寄付勧進など、いろいろと懸念の種も尽きないことと推察しますが、重要無形文化財各個指定(人間国宝)に加えて、文化功労者にも認定された今、どうか身体を大事にされつつ、2019年もすばらしい舞台を見せてほしいものと願わずにはいられません。

足の具合は必ずしも芳しくない塩津哲生さんも2月の『頼政』や11月の『夕顔』など、充実した舞台があったのは何よりでした。ことに、11月の『夕顔』では、いつもながらのやわらかく暢びやかな謡と、内側からぐっと締め上げるような身体(腰から背筋)の整いが、わずかな所作に曲としての深みをもたらしていました。喜多流の場合、「優婆塞が」の一首をシテとワキ(宝生欣哉)が連吟しますが、今回はここの効果を強く感じました。ワキは僧侶であって光源氏ではありません。が、経文読誦によって夕顔を法楽・法悦へと導く役割を担っています。ここでの連吟によって、両者の心が合致して序之舞へと進んでいく流れが生まれます。実際、この日の序之舞は、段を重ねるごとに内側からふくらみを増していくかのような感覚があって、ことさら印象的でした。そして、舞い上げてシテとワキが向かい合って合掌。ここで成就が得られたという趣がありました。ここまでくると、キリに向かう一連は広がりをもってきます。

11月は文藏さんと塩津さん、お二人のすばらしい『夕顔』を観れたのが、何より至福でした。

四郎さんの『盛久』『景清』も老齢こそ感じましたが、何よりも四郎さんのダンディズムが滲み出て、印象的でしたし、今回は挙げていませんが、他の役者さんでも印象に残る舞台はありました。

2018年は、どうしても私自身が俗事に追われて、なかなか数多くの舞台に接することが叶いませんでした。けれども、限られた数の舞台が、それぞれに素晴らしいものであったことは幸いでした。

2019年もすばらしい舞台に出逢えることを楽しみにしつつ。

#観能記
#2018年ふりかえり


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