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生活世界の構想としての意味のイノベーション:価値循環フレームワークとともに

以下の小論は、2019年7月22日に開催される下記のイベントでのLTのために書き起こされた試論です。

はじめに

ようやく、というべきか、企業を含む〈価値創造〉における〈意味〉の重要性に光が当たるようになった。もちろん、組織における意味生成や意味共有、さらに意味のダイナミクスについては、すでに1930年代から議論が始まっていた(註1)。

(註1)経営学史でよく知られたところでは、バーナードによる“道徳の創造”を嚆矢として位置づけることができるほか、それに先んじるかほぼ同時期に、ドイツではマックス・ヴェーバーや弟のアルフレート・ヴェーバーなどによる工業労働の精神物理学的調査・分析(1900〜1910年代)、そこから発展した経営社会学において、職場でのエートスや風土などに関する研究(1920〜1930年代)がなされていた。ドイツにおける経営現象への心理学的アプローチはナチスによって閉ざされ、そのアプローチを採る研究者たちはアメリカに逃れた。レヴィンなどが、その代表である。

ただ、本格的な議論の進展は、やはりカール・ワイクによって実現された。ワイクが“センスメイキング”という概念を提唱したことで、意味創造といった概念が日本においても注目されるようになった。

その一方で、例えばベルガンティによる“意味のイノベーション”は、組織内部に焦点を当てるのではなく、イノベーションの文脈で、より厳密に言えば顧客の生活における価値判断基準としての“意味”に光を当てている。

さらに、マスビアウのセンスメイキングをめぐる言説も、いくぶんワイクまでの議論史から離れたところで展開されている。

それらの学説の相違に焦点を当てて議論することも必要ではあるが、ここでのねらいはそこにはない。いったん、経営学において展開され、構築されてきた意味生成・共有・創造などの〈意味のダイナミクス〉と呼ぶべき議論の歴史と、最近の“意味のイノベーション”などの議論とのあいだには、いくばくの隔たりがあることを認識しておけば、さしあたっては、よい(註2)。

(註2)ここで気になるのが、Stratiなどによる組織美学をめぐる考察や、Manziniの組織とデザインをめぐる議論である。このあたりについては、また別途に考察したい。

では、この隔たりを架橋することは可能か。この点について考えてみたい。

主観的価値概念とS-Dロジック

さて、〈意味〉とは何か。ここでは、真善美も含めて、その主体が何を大事とするかにかかわる判断基準と捉えておく。この〈意味〉は、その主体が関係をもつさまざまな共同体によって生成され、主体に滲み透っていく。と同時に、主体もまた関係を持つ共同体において共有されている〈意味〉に影響を与える。ここに〈意味のダイナミクス〉が生じる。

この〈意味〉によって、さまざまな対象は当該主体にとって〈価値〉をもたらしうる存在となる。その対象が潜勢的にもつ価値をもたらしうる多様な可能性を“アフォーダンス”と呼んでよい。

ここでS-Dロジックを想起したい。S-Dロジックにあっては、価値は作り手によって創出されるのではなく、受け手が作り手による提案を用いる=生活に摂り込むことによって初めて生じる。“価値共創”という概念を重視するのも、このような考え方に立っているからである。

S-Dロジックは、自らを主観的価値概念に立脚しているとは言わない。が、学説史的にみれば、オーストリア学派経済学、とりわけその始祖であるメンガーの価値概念に源流を認めることができる。なぜなら、メンガーの主観的価値概念は、主体と対象(客体)との関係性において価値が生じるという考え方に立っているからである。社会学では、ジンメルなどと近い。

オーストリア学派経済学が想定するのは、単純な一対一の交換図式である。分析的・還元的に考える際には、このアプローチも有効である。しかし、現実の社会経済においては、さまざまな主体が複雑に関係しあっている。S-Dロジックは、この点に目を向けている。

S-Dロジックにおいては、これまでのような主体ごとに機能分化した状態を想定するのは難しい。ここがポイントになる。となると、これまでの主流的な経営学(マーケティングなども含む)の視座では説明しきれない部分が出てくる。

ここで参照したいのが、価値循環概念である。

生活を価値循環として捉える。

価値循環という概念は、ドイツの経営学者ニックリッシュによって提唱された。この概念は、第一次世界大戦における協同意識の向上の流れのなかで生まれ、ヴァイマル期の労資協調という基本姿勢において確立された。

ここで注目すべきは、ニックリッシュが経営学(経営経済学)の対象を企業に限定していない点である。「目的志向的で、そのための設備を備えた個人と共同体」をBetrieb=経営と呼び、家政であれ、企業であれ、それぞれに価値循環を有しているという点に目を向けた(註3)。

(註3)ただ、実際のところ、ニックリッシュが考察したのは企業であって、家政ではない。もちろん、家政 / 家計が労働力を再生産しえなければ、また購買力を維持できなければ、企業も存在しえないという観点から、次期以降の貢献を獲得できるように従業員に対して分配する必要があることを、理論的に証明しようとした。成功したとは言いがたいが。

ここにいう価値循環は、内部価値循環と外部価値循環からなる。内部価値循環は、Betrieb内部での価値の流れをさす。企業であれば、調達した資源を他者に効用をもたらす提案へと転態していくプロセスがこれにあたる。家計であれば、獲得した収入をさまざまな支出へと分配し、そこから他者のための活動としての労働サービスの創出を含め、さまざまな活動を展開していく営みが該当する。一方、外部価値循環とは、Betriebどうしのあいだでの経済的なやり取り=交換 / 取引をさす(註4)。

(註4)なお、ニックリッシュの生きていた当時は、もちろんのことS-Dロジックなど存在しない。彼はオーストリア学派経済学に立脚していたわけだが、その際、技術的価値と経済的価値という概念枠組で説明しようとしていた。前者は製品なりサービスなりがどれだけ欲望を充たすのかという技術的適性の問題、後者は製品やサービスの在り高を含めて、経済的なやり取り=交換において生じる価値をさす。ドイツ語ではWertでしか表現できないが、前者はworthとして、後者はvalueとして位置づけることができる。ただ、作り手によって生み出された製品やサービスが経済的なやり取り=交換を通じて、受け手へと届けられ、その製品やサービスが受け手において技術的価値をもたらすという発想は、G-Dロジックを超える萌芽を示している。

内部価値循環や外部価値循環という表現そのものは、シェーンプルークによって提唱されたようであるが、内容としてはニックリッシュ自身によって打ち出されている。ニックリッシュは、経営学(経営経済学)の対象は経済活動単位=Betriebの生活(Leben)であると述べている。このLebenとは、まさに上に述べた内部価値循環であり、そこには必ず外部価値循環がくっついてくることを考えれば、まさに価値循環の総体がBetriebのLebenであるといえる(註5)。

(註5)ちなみに、このような価値循環の総体のことをニックリッシュは「経済における価値諸関係の網」という表現で示している。ネットワークなどという言葉がなかった当時において、このような概念を示しているのは興味深い。

この視座は、もちろん経営学において主流となることはなかった。しかし、価値が循環する場としてのBetriebという概念を、actorという概念に置き換えてみると、S-Dロジック、サービスエコシステムあるいはサービスデザインの議論との距離が急激に近まる。

価値循環思考とS-Dロジック

価値循環思考は100年前に提唱されたものである。それゆえ、そのまま現代に適用しようとしても、当然ながら現実状況が大きく異なる。しかし、ニックリッシュがLebenという概念を重視していたことを考えれば、問題意識としてさほど遠くない位置にあるといっても、それほど誤りではないだろう。

S-Dロジックそれ自体について学史的な評価をするにはまだ早すぎるが、その最大の功績の一つは、時代の変化とともに不明瞭になってきた機能分化型モデルを超克するための手がかりを与えてくれる点にある。

もう少し具体的に言おう。今までは、生産や販売、流通、消費といった経済活動における機能とそれを担う主体とが分業的に合致していた。ステイクホルダーの具体的名称に即してみてみれば、よくわかる。出資者、生産企業、従業員、原材料業者、流通業者、消費者など。他にももちろんある。ただ、ステイクホルダーというとき、長らく社会経済においていかなる機能を担うのかという観点から分類されてきたのはたしかだ。

ところが、近年になって、その機能分化があいまいになってきた。消費者であっても生産を担うこともあるし、生産そのものが単独の企業によってではなく、複数の主体とのやり取りや協働のなかでなされるケースも増えてきた。

S-Dロジックは、このような事態を描出するのに、重要なフレームワークを提示してくれている。ただ、S-Dロジックにおいては、なぜか貨幣的な側面があまりおもてに出てこない。これは、現実のビジネス事象を考えるとき、やや物足りなさを覚える。それゆえにこそ、評価(Bewertung)の問題を重視し、そのうえで価値循環の全体像を示そうとしたニックリッシュの試みが重要になってくるのである。

サービスデザインとは、価値循環を構想し、形成してゆくことである。

いきなりこんなことを言うたら各所から怒られそうであるが(笑)、私個人としては、ひとまずこのように言挙げしてみたい。なお、ここにいうサービスとは、製品(Product)の対概念ではない。むしろ、ドイツ語に言う給付(Leistung)という広めの意味合いで用いている。もともとleistenという動詞は「もたらす」という意味を持つ。つまり、他者に対して何がしかの効果をもたらす営みをleistenと呼び、それを名詞化したものをLeistungと称するわけである。

ここ10年くらいのあいだに、製品サービスシステム(Product-Service-System;PSS)という概念が登場した。最近になって、ふたたび採り上げられつつあるようにも見受けられる。これなどは、まさにProductをServiceの流れのうえで捉えるための重要な枠組である。

その際に気をつけなければならないのは、やり取りされるのが“提案”であり、またその対価だという点である。これらそれ自体は、価値をもたらす可能性、ポテンシャルのやり取りにすぎない。なぜなら、価値そのものは主体内部によって対象との関係性において規定されるからである。Wittmann, W.[1956]が〈価値〉を「ある主体と客体との関係であり、その客体は主体にとって〈願望の光:Lichte der Lust〉のなかで映し出される」(S. 63)と概念規定しているのも、この点にかかわっている。

アリストテレスに戻るまでもなく、われわれが共同生活を送っていく最大の理由の一つは、それぞれが提供できるモノやコトに違いがあること、そしてそれぞれが求めているモノやコトにも違いがあること、それゆえに評価もまた異なること、このあたりにある。つまり、それぞれの求めることが連鎖的に、さらにはネットワーク的にやり取りされていく結果として、エコシステムが生まれ出てくるんだろうと思う。このエコシステムを動的に構想し、形成していくなかで発生するのが価値循環なのである。

となると、協働を通じた価値創造を実現していくことが、サービスデザインの重要な課題の一つであることは、容易に想像がつく。このあたりについては、以下の文献に依拠している。

サービスデザインをめぐる研究や実践において、価値循環という言葉が使われているわけではない。循環という言葉は、たまにみるが。

ではなぜ、わざわざ100年前のドイツ経営経済学の概念を“墓場”から引っ張り出してきたのか(←私は死んだとは思っていないが、一般的には“過去帳”入りした概念という認識であろう)。

それは、ニックリッシュの学説が、(1)生活という人間が生きていくことそれ自体に焦点を当てているからであり、かつ(2)生活をモノやコト、カネなどの動きの記述・把捉から入って、その根源を探ろうとしているから、である。

サービスデザイン(という名称にはそれほどこだわらないが)において、バリュー・ストリーム・マップや顧客価値連鎖分析(CVCA)などの手法を用いて、内部価値循環としての価値創造過程や、外部価値循環としての価値交換関係の連鎖を描出しようとするのは、まさにエコシステムとして現象する価値循環をデザインするために他ならない。

この点において、近年のサービスデザインをめぐるさまざまな実践には、単に企業の収益獲得問題(註6)にとどまらず、多様なステイクホルダーとの協働を考慮しない価値創造が困難になってきたという事態が反映されている。

(註6)しばしば、“営利”という言葉あるいは発想への疑問が、潜在的 / 顕在的に示される。おそらく、ここでの“営利”は他者を顧みない無際限な収益獲得姿勢をさしているものと思われる。ただ、営利という言葉の原語であるprofitとは「出資者に分配される利益」という意味合いである。したがって、協同組合をはじめとするNPOは収益を得てはいけないのではない。このあたりの議論は、ここで展開する余裕がないので、また別途考察しよう。ここでもニックリッシュの議論が参考になる。

しかし、いかなる生命体もどこかから自らの生命を維持するための“栄養”を獲得しなければならない。“栄養”を摂取して、それをエネルギーに変え、活動がなされると、必ず排泄が生じる。藤原辰史[2019]『分解の哲学』は、その点に目を向けようとした労作である。

サービスデザインと称される思索ならびに実践領域においては、この点から逃れることはできない。上記の投稿でも書いたが、排泄そして分解というプロセスまで視野に入れた循環を考えることが、今や避けられなくなってきている。マイクロプラスティック問題などは、その典型であろう。

こういった、いわば一般に「汚い」とも目されるプロセス局面をも視野に入れた価値循環のデザインが求められている。これを考えるうえで、創出・生産局面におけるサービスの原価管理とともに、静脈プロセスを視野に入れたマテリアルフローコスト計算をサービスデザインに包摂していくことが重要になってくる。

価値循環 / エコシステムの存立根拠としての〈意味〉

価値循環といい、エコシステムといい、ここで重要になってくるのが「複数のアクターが相互にやり取りをしあうことで存立している」という点である。いうまでもなく、それぞれのアクターは独自の生活を営んでいる。独自のというのは、孤立しているという意味ではない。他者と関係性を持ちながらも、自律的に生活を営んでいるということである。その基底にあるのが〈意味〉である。すでに述べたように、ここでは〈意味〉を「その主体が何を大事とするかにかかわる判断基準」と規定する。

この〈意味〉がどのようなものであるのかによって、主体の活動や行動は規定される。たとえば、どうしても観に行きたい舞台があったとしよう。その舞台は連続公演ではなく、一回限りである。しかも、再演の予定は特にない。となると、その人にとって、この舞台を観るということは、きわめて重要な意味をもっているわけである。そうなると、たとえば仕事をやりくりして、そこの時間を確保する、そのための資金を確保するなどの行為が現れる。その舞台に、さほど興味のない人にとってみれば、「なぜ、わざわざそこまでして」という思いが生じよう。

ここに〈意味〉が存在する。意味は、主体によって異なりうるし、また重なり合うこともある。イタリア語では意味をsensoと呼ぶという。英語でいうsense、ドイツ語でいうSinnと同根である。カントは、趣味判断が個々の主体に属するものであると同時に、共通感官(Gemeinsinn)によって共有できる可能性があることをも論じた。

この趣味判断の共有可能性というアイデアが、ここでは重要になる。というのも、それぞれに異なる〈意味〉を抱き持つ主体が協働して価値を創造しようとするとき、そこでそれぞれがどのような〈意味〉を持っているのか、そしていかなる〈意味〉を共有しようと願うのかが重要になるからである。

経営学におけるセンスメイキングの議論は、組織内部における意味の生成や共有、創造に焦点を当ててきたことについては、すでに触れた。

今や、異なる主体のあいだでの意味の生成や共有、創造が重要になってきている。サービスデザイン、ソーシャルデザイン、デザイン×経営 / 経営×デザイン、いずれにおいてもこの問題が浮上する。なぜなら、〈意味〉が生活のありよう、価値循環のありようを基礎づけ、方向づけるからである。

ニックリッシュは、「経済の部屋の底板がはがされなければならない」と述べた。そこに何があるか、ニックリッシュは述べていない。おそらく、Lebenという答えがそこにはあったであろう。私は、さらに進んで〈意味〉という礎石があるとみたい。

そう考えるならば、〈意味〉の生成、共有、創造こそが、生活そして価値の循環をかたちづくっていくことがわかるであろう。

いつもいろいろと実践的示唆をたくさんいただいている木村石鹸工業株式会社の木村祥一郎社長が、近畿大学で講演してくださった際のテーマが〈ブランディング〉であった。

その折の話を伺いながら、「ブランディングとは、顧客をはじめとするステイクホルダーとの意味の共有、さらには共創」というフレーズが頭をよぎった。これは、特段、何かの文献にもとづいて浮かんできたわけではない(もしかしたら、すでにこういうことを指摘しておられる方はいらっしゃるかもしれない)。

木村社長も〈意味のイノベーション〉には関心を持ってくださったので、そこらあたりが念頭にあったようにも感じるが、まだそのあたりは直接うかがっていない。とはいえ、木村石鹸のさまざまな試みは、多様なステイクホルダーとのあいだでの意味の生成や共有、創造という観点から考えると、根底において一貫しているようにも思われる。

おまけみたいな言及で恐縮だが、マザーハウスの取り組みもまた、意味の生成、共有、創造という観点から描いてみると、価値の流れのデザインや共同体的思考がなめらかに説明できる。

このあたり、日本デザイン学会第66回春季研究発表大会で報告させてもらったので、いずれ活字化したい。

意味のイノベーションと“生活世界”の構想

ここまで、〈意味のイノベーション〉という言葉はほとんど用いていないが、意味を生成、共有、創造することが新しい、さらには「よりよい」生活をデザインしていくことにつながることを論じてきた(註7)。

(註7)ここで「よりよい」という言葉を用いたが、何をもって「よりよい」とするのかについては、それぞれの状況に応じて突っ込んだ議論が必要である。ベルガンティが〈批判〉というプロセスを重視したように、根源にまで立ち返った=radicalな思索が欠かせない。それによって、われわれは独りよがりな結論に陥ることから逃れうる。ややもすると、こういった〈意味〉はめぐる実践は独善的全体主義に陥りやすいことを、われわれは十分に念頭に置いておかなければならない。

その際に、ついわれわれは「意味あるもの」と「意味のないもの」というふうに切り分けて考えてしまいがちである。たしかに、そういった切り分けが必要な局面もある。

しかし、留意しなければならない。

安易に「無意味」と断ずることによって、われわれは恣意的に排除の論理を用いて、耳障りのいい、心地よさそうなものだけに囲まれたパラダイスを想起し、かつ現実化してしまおうとする傾向があるということを。

だからこそ、さまざまな角度から〈意味〉の光を当て、一見〈無意味〉にみえてしまうモノやコトなどについても、まずはその存在を捉え、酌み取らねばならない。なぜ、それらがそこに、そのようなありようで存在するのかを考えること、その蓄積こそが〈意味のイノベーション〉の源泉である(註8)。

(註8)この意味があるともないとも知れない混沌とした領域を〈意味の中有〉と呼んでもいいかもしれない。

〈意味の中有〉に遊びつつ、そこからいかなる“生活世界”を構想するのか、それこそが意味のイノベーションであろう。安西洋之さんがよく紹介してくださるブルネロ・クチネッリの姿勢、あるいは眺望(perspective)は、まさに「世界を構想する」という表現がふさわしい。

〈構想力〉という言葉は、三木清以来、折々注目されてきた概念である。最近でも、経営学の文脈において提唱されている。経営学における構想形成というのは、それほど新しい話ではない。むしろ、経営学にとって当然の問題領域である(註9)。

(註9)最後の最後に事例を出すのは、論考としてよろしくない展開であるが、この点を明らかに意識して事業を展開したのが、阪急電鉄の創始者・小林一三である。もちろん、彼は理想的な生活世界の構想だけで事業を展開したのではない。もっと経済合理的な判断もあった。しかし、同時に「あるべき生活像」「ありたい生活像」を描き出すという点において、きわめて優れていたのも事実である。サービスデザインの事例として、小林一三が採り上げられるのも、十分にうなずける。

ここで考えなければならないのは、経営という価値創造実践において、いかなる状態を望ましいありようとして描き出すのかという点である。となれば、そこに登場するそれぞれの主体がいかなる生活を営むのか、そこには具体的にどんな価値循環が生じているのかを描き出さなければならない。

その点で、〈意味のイノベーション〉とは、生活世界そのものを構想するための姿勢であり、方法論であると位置づけることができよう。

おわりに

以上、緻密な文献考証をすっ飛ばして、取り急ぎ考えているところをまとめてみました。〈意味のイノベーション〉の問題圏は、経営学にとってみてもきわめて興味深い領域であるといえます。

その際、もちろん〈意味〉という観念的な(←これは否定的な意味合いではありません)概念を観念的に議論しても差し支えはないわけですが、経営学である以上、やはり経済的な側面とも突き合わせて考えることが有益であろうと思います。経済的といっても、ただちに収益獲得活動に結びつけようとするのではありません。むしろ、〈生活〉に即して考えようということなのです。

その手掛かりとなればいいなと思って、雑駁ながらまとめてみた次第です。



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