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役に立つかどうかという問いの、役に立たなさ。

2019年6月12日(水)、先月に続いてハブチンさんとアリエッティさんのTwitterラジオに出させてもらいました。テーマは「伝統芸能」。

私だけでなく、歌舞伎がお好きな原美和子さんも。楽しいひとときでした。音源は上記のアカウントにアップされてるので、ご興味の向きはご笑聴くださいませ。

さて、21時半くらいに発信おわって、そのあともzoomでしばらく(2時間弱w)いろいろ談義をしてました。そのなかで、私みたいな経営学史や経営学原理っていう地味もきわまる研究領域の人間が、なぜか実践の方々から目をかけてもらえることの不思議さについて談ずるいっときがありました。

すると、翌昼、こんなツイートが。

ほぼ間違いなく自意識過剰でしかないけど、自分のことを言うてもろてるような気がしました。

正味、経営学史や経営学原理って直接何かの役に立つような研究アプローチでは、ない。けれども、だからこそ根源的(radical)な問いが大事になるときには、かなりの底力を発揮しうるのも特徴です。

役に立つのか立たんのかって言われたら、役に立つし、役に立たんって返答できます。

もちろん、きわめて短期的に目標が定まっている場合、どのアプローチや方法が有効であるのか(=役に立つのか)という議論はありえます。ただ、その場合も、かくかくしかじかの条件の場合という限定はつきます。

そういった局限的な役立ち具合を根源から捉え返すのが、経営学史であり経営学原理なのです。当然、いきおい哲学的な色彩を濃厚に帯びることになります。

こういったradicalな問いをとことんまでやったうえで、「この方法は、この条件のもとで役に立つのかどうか」を問うならば、それは意義のあることです。しかし、それをすっ飛ばして「役に立つのか、立たんのか」っていう問いを立てるのは、愚でしかありません。

これは学問だけにとどまらず、実践においても同様でしょう。だからこそ、今、「なぜ」をはじめとして自己のありようを問い返すことが重視されてるのだと思います。

そういったradicalな問いを抜きにして、アイデア勝負に打って出たりするほど、命知らずな(←もちろん、ネガティブな意味で言うてます)ことはありません。昨日、こんなnoteを書いたのも、同じ問題意識に立脚してます。

こういうradicalな議論を、日常のようにゼミとかで議論できるようになると楽しいやろなぁって夢想します。

一人でも二人でも、そういうメンバーが出てきてくれたらなぁ、なんて、そんなことを日々願っているのです。

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