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さらっと、濃い。大槻文藏『夕顔 山ノ端之出・法味之伝』(2019年5月18日)

今年は、例年よりも能を観ることができてません。が、今日は何としても行きたい舞台。

昨年11月、銕仙会の定期公演で同じ『夕顔』を舞われた大槻文藏さんが、今回はホームの大槻能楽堂で〈山ノ端之出〉に加えて〈法味之伝〉の小書もつけて再演されました。

観世流で『夕顔』が出るときは、けっこう〈法味之伝〉の小書も多いです。普通は序之舞なのですが、〈法味之伝〉になると一セイの「優婆塞が行ふ道をしるべにて」の前にイロエが入り、「来ん世も深き契り絶えすな」のあとの序之舞が抜かれるという演出です。

『夕顔』の序之舞については、暗い雰囲気からなぜ序之舞に移っていくのかが自然に感じられないということもあってか、この小書ができたとのことです。私自身は、以下にも書きましたが、宗教的恍惚(法悦)と性的恍惚(エロス)が「優婆塞が」の和歌によって一体化しているところに、この曲での序之舞の意義があるように感じています。その意味で、喜多流で「優婆塞が」の一首の上の句をシテとワキが連吟するのは示唆的であると思います。もちろん、観世流のようにシテが独吟するのも、当時のことを思い出しているととれば、十分に舞へとつながります。

今回も〈山ノ端之出〉の小書だったので、藁屋の作リ物が大小前に出されます。藁屋の内から女(夕顔)の歌う声が聞こえてくるという点で、小書に合った演出です。ただ、ワキの僧は「五條あたりの破屋(あばらや)の」と言ってて、かつ作リ物も夕顔を柱に巻きつかせてそれを再現しているのに、シテとワキの問答で「ここはどこか」とワキの僧に訊ねられて、「何某の院」(←六条河原院を想定)と答えているのは、ちょっとズレがあるようにも感じます。そこまで気にしなくてもいいのかもですが。

さて、そんなことは置いておいても、今回も昨秋に匹敵する素晴らしい舞台でした。

何と言って目に立つようなことはしていないのに、身体とコトバによって現わされているその姿は、紛れもなく夕顔その人であるのです。前後を通じて、増の面。この面は、どちらかというと冷ややかさというか、気高さを感じさせるのですが、美しいけれどもつかみどころのない、繊細だけれども脆弱ではない、何ならむしろ内に勁いものを秘めているような、そんな人物形象として映りました。それは、やはり鍛え抜かれた身体(床几にかかっている姿の素晴らしさは、ほんとに息を呑みます)と謡や詞の底強さから出てくるものでありましょう。

昨秋はクリの「理 浅きに似たりといへども」で床几を立ち、正中に進んで下ニ居ルという手順でしたが、今回はサシ「たゞ休らひの玉鉾の」で立って正中に進んで下ニ居ルという手順。クセのうちの「宵の間過ぐる」と下居のままで右を見遣り、「古里の松の響きも恐ろしく」の聴き眺め遣る姿を見せ、その直後の上端謡「風に瞬く燈火の」の一句はブルッと震えがくるようなもの凄まじさ。そのあと立って、中入までの一連の所作もほぼ定型どおりながら、「息消えて」と一足ギクッと退ったのが印象的。中入直前、常座に戻るまで、やや姿勢を前傾に保っていたのも、まさに“気疎い”までの恐ろしさをあらわしているかのようでした。

間狂言のあと、やわらかみのある待謡があって、後シテの出。前場と同じ増の面に、白地長絹(露紐は朱色)に浅葱の色大口。いつものことなので、これを賞讃してもしょうがないのですが、幕が上がって出てきて、橋掛かりを歩む姿の整った美しさといったら。これだけでも眼福です(笑)

以下も「跡よく弔ひ給へとよ」とワキに向いて扇を指し、そのあとヒラク姿、「見給へ此処も自ずから。気疎き秋の野良となりて」と少しカカリ気味に謡ってその様子を現すところ、「また鳴き騒ぐ鳥の嗄声」と右ウケ聴く姿など、それぞれが連綿と繋がって、十全の叙景になっていました。

そして、「心の水は濁江に。引かれてかゝる身となれども」と正に向き、拍子を一つ踏んでイロエ。こちらのほうが曲の流れに合致しているという説もあります。ただ、今までこのイロエが曲全体のなかでどういう位置づけにあるのか、今ひとつ腑に落ちていないところがありました。そもそも、そんな理窟立てて観るべきじゃないというご意見もありましょうけど(笑)

それが、今日の舞台では「濁江に引かれて」という闇に引きずられていきそうな気配から、大小前まで一巡するなかで、「優婆塞が」の一セイの謡で一つの光明に到るかのような趣がありました(イロエの最初はじっくりとした足取りで始まって、角取リ大きく回るところで次第に足取りが滑らかになっていくかのように見えました)。そして、地の「来ん世も深き契り絶えすな」のうちに常座に進んで、ワキは下に向かって合掌。ここでシテは佇立し(大小鼓がアシラウ)、さながら僧の弔いを受けているかのような姿から、ワキに向いて下ニ居、合掌。この姿の深々とした趣は、ほんとに素晴らしい。

以下、終曲までの一連も、まさに夜が明け白んでいくなかで、夕顔の霊が成仏していくさまが自然と立ち現れてくるかのようでした。最後は橋掛かり二ノ松で袖を被いて下ニ居、さらに囃子のうちに立ってトメ。

約1時間20分、まことに充実した時間でした。

『夕顔』という曲は、もともとがしどころの少ない能で、詞章に応じてあれやこれやできるという曲ではなさそうです。となると、僅かな所作や動かない姿といった身体、そして謡や詞などのコトバといった、能役者にとっての根幹が問われる演目なのかもしれません。しかも、基本は序之舞ものとはいえ、その解釈も難しいとなると、なかなか厄介。舞台にかかる頻度がそれほど多くないのも、わからないではありません。イロエにするという〈法味之伝〉も、こういった点を乗り越えるためであると言えましょう。その意味で、この小書は夕顔という女性の救済に焦点を当てていると見ることができます。それのほうが、すっきりと理解できる側面があるのかもしれません。今日の舞台も、この線上での上演であったように思います。

その一方で、光源氏と夕顔は契りを交わしているわけです。「優婆塞が」の一首も、二人の逢瀬のなかでのもの。それを踏まえると、『夕顔』は恋のうちに命を落とした女性の成仏と、その最後の夜に交わした契りの永遠への希求とを重ね合わせている、そして、それをワキ僧の法華読誦によって昇華させていると捉えうると思うのです。そう考えると、序之舞を入れるやり方もまた、『夕顔』という曲の一つの理解であるといえましょう。

半年の間に、三度も『夕顔』を異なる演出で観れた、しかもそのうち二度は同じ演者の別演出で観れたことで、この曲についてあらためて考える機会を得ました。7月にも梅若万三郎さんが同曲を演じられるので、ものすごく楽しみです。

それにしても、文藏さんが当代随一の能役者であることもあらためて深く感じました。

ほんとに素晴らしい舞台でした。

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