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ライター・編集者、出版サポーター。基本的に「文字で伝えたいこと」をお手伝いする。出版社…

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ライター・編集者、出版サポーター。基本的に「文字で伝えたいこと」をお手伝いする。出版社の下請けから、自費出版のプロデュースまでが守備範囲。昨今はインタビューして本を制作し、流通までつなぐ仕事が増えている。「原稿は書けないが本は残したい」という人がメインのお客様である。

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「雑誌を作っていたころ」アップを始めます。

自伝「雑誌を作っていたころ」について自分の出版人生のうち、前半は雑誌編集者だった。 後半は書籍編集者、ライターの仕事が多くなり、それでも少しは雑誌の仕事をしていた。 最近はというと、商業誌の仕事はほぼなくなり、広報誌の仕事が少しあるくらいだ。 それでも、やはり雑誌づくりはおもしろい。なんといっても「雑」なのだから、なんでもありの部分が楽しくて仕方がない。 そんなわけで、自分の半生を雑誌づくりの面から眺めてみた。 本稿はもともとmixi日記として書き始めたものだが、その後あ

    • 雑誌を作っていたころ079

      アスキーで働く アスキーという会社は、その黎明期からぼくの視界の中でチラチラしていた。パソコン誌「RAM」のお手伝いをアルバイトでしていたときはライバル誌の会社だったし、青人社が曲がり角にさしかかったときには、流出した編集者たちの受け皿になってくれた。  中でも最も大規模だったのは、「ドリブ」3代目編集長の渡邉直樹さんが扶桑社の「SPA!」「PANJA」を経てアスキーに移籍し、「週刊アスキー」を創刊したときだろう。たくさんの元青人社編集部員がアスキーに移籍し、一部の人は今も

      • 雑誌を作っていたころ078

        新谷のり子さんのインタビュー ぼくらの年代の人なら、「新谷のり子」という名前を聞けば、「あ、『フランシーヌの場合』の人ね」とすぐピンとくるはずだ。80万枚の大ヒットを記録した「フランシーヌの場合」は彼女のデビュー曲。1969年3月30日、ベトナム戦争に抗議してパリで焼身自殺をしたフランシーヌ・ルコントのことを歌った反戦歌である。温熱療法の会報誌で、ぼくはこの人をインタビューすることになった。  新谷のり子さんは北海道函館市生まれ。小さいころから歌うことが大好きで、小学校5年

        • 雑誌を作っていたころ077

          仲代達矢氏のインタビュー 運命の女神は完全にぼくを見捨てたわけではなかったらしく、ひとつが切られたら、まるで埋め合わせをするようにほかのPR誌の仕事が舞い込んできた。民間療法である温熱健康法の団体が出している雑誌だ。ぼくはこの雑誌の、おもに巻頭インタビューを担当することになった。  この雑誌ではいろいろな人を取材したが、印象に残っている人が何人かいる。その筆頭は、俳優の仲代達矢氏だ。ちょうど舞台「ドン・キホーテ」の7カ月にわたる全国公演の最中で、全133ステージというハード

        • 固定された記事

        「雑誌を作っていたころ」アップを始めます。

          雑誌を作っていたころ076

          大失態 仕事にも「類は友を呼ぶ」という法則があるらしい。日本エイサーのPR誌を一生懸命にやっていたら、別のPR誌から声がかかった。友人のWebデザイナーからの紹介で、さるISOの認証機関が発行している機関誌の制作をお手伝いすることになったのだ。  ぼくに与えられた仕事は、ユーザーを訪問しての事例取材と、認証機関の専門家を取材しての記事づくりだ。前にPHP研究所でISO関連の書籍を作ったことがあったので、この分野はまったくの素人というわけではなかったが、それでも初めて知ること

          雑誌を作っていたころ076

          雑誌を作っていたころ075

          ユーザー事例の取材「tell acer」の誌面構成は、最初の4ページが新製品トピックスや発表会イベント、次の2ページが業界著名人のインタビュー、その次の2〜4ページがエイサー製品の導入事例、そして小さなニュースや次号予告という感じで推移していた。  ほとんどの取材先はエイサー側が決めてくれるので、ぼくら取材班はスケジュールを合わせて行動するだけだった。導入事例では地方取材が多く、官公庁や学校、企業がまとめてエイサー製品を導入した経緯を取材した。北海道から沖縄まで、ほぼ全国を

          雑誌を作っていたころ075

          雑誌を作っていたころ074

          ネットブック、ブームになる 2008年7月10日、台湾での発表から約1カ月遅れて、日本市場向けのネットブック、「アスパイア・ワン」が発表された。すでにIT系のメディアでは新コンセプトのパソコンであるネットブックについて、「使える」「使えない」といった議論が白熱していた。  発表の舞台になったのは、六本木の東京ミッドタウン。5台のテレビカメラをはじめ、報道陣がカメラの砲列を敷く中、日本エイサー社長のボブ・セン氏の挨拶で発表会は幕を開けた。メインゲストは「ブログの女王」こと人気

          雑誌を作っていたころ074

          雑誌を作っていたころ073

          ネットブックの激震 エイサーのPR誌「tell acer(テル・エイサー)」創刊号では、「コンピュテックス台北2008」で発表されるエイサーの戦略商品「アスパイア・ワン」を大々的に取り上げることになった。アスパイア・ワンは小型軽量・低価格が売りのノートパソコンで、エイサーではこれを「ネットブック」という新カテゴリーの商品として売りだそうとしていた。  そのために、ぼくら取材班は台北に取材に行くことになった。ぼくは今まで国際的な展示会というとパリ・サロンなどの自動車関連しか取

          雑誌を作っていたころ073

          雑誌を作っていたころ072

          PR誌作りに参加する 月刊「ドリブ」の編集スタッフだったころ、デザイナーの池田枝郎さんに誘われて、あるパソコン誌の編集部に遊びに行ったことがあった。廣済堂出版が出していた「月刊RAM(ラム)」という雑誌である。当時はパソコンの黎明期で、インターネットはおろか、フロッピーディスクもまだ普及していなかったから、パソコンの知識を得るのは紙媒体が中心だった。  NECのPC8001、8801、シャープのMZ80B、日立のベーシックマスターレベル3、富士通のMicro 8、沖電気のi

          雑誌を作っていたころ072

          雑誌を作っていたころ071

          「ネットショップ&アフィリ」 自分で雑誌を作ることはなくなったが、他人が作っている雑誌のお手伝いはその後も続いた。中でも一番思い出深いのはサイビズの「ネットショップ&アフィリ」だ。  この雑誌は、同社の看板雑誌であった月刊「サイビズ」の臨時増刊としてスタートした「SOHOコンピューティング」がルーツである。その後「SOHOドメイン」と誌名が変わり、さらに「ネットショップ&アフィリ」に変わった。 「SOHOコンピューティング」を初めて見たときには、かーっと頭に血が上った。「

          雑誌を作っていたころ071

          雑誌を作っていたころ070

          捨てる神あれば 話は少し前後するのだが、「開業マガジン」が大詰めを迎えようとしているとき、ぼくの周りには単行本編集の話が続けて舞い込んできた。  ぼくは雑誌編集者だが、青人社時代に単行本は何冊か作ったことがある。福富太郎氏、邱永漢氏などの新書サイズの本だ。「ドリブ」の連載をまとめただけなのだが、それでも経験がないよりマシだと思っていた。  だがそれは、その後のぼくと悠々社の運命を考えると、大きな違いだった。青人社時代の経験がなければ、技術評論社やゴマブックスから話があ

          雑誌を作っていたころ070

          雑誌を作っていたころ069

          「開業マガジン」の落日 会社の倒産が決定する瞬間とは、経営者が「もうダメだ」と思ったときだという。 「開業マガジン」の廃刊も、ぼくが「潮時だな」と思った瞬間に決まったといえる。  これが大手や中堅の出版社だと、編集部に営業部、広告部がそれぞれの意見と利害をぶつけ合って、ごたごたの末に結論が出るのだと思うが、こちらは零細出版社だから独裁でことが決まる。その点は楽だともいえるが、誰に責任を押しつけるわけにもいかない辛さはあった。 「潮時だ」と思った理由は、このジャンルのベス

          雑誌を作っていたころ069

          雑誌を作っていたころ068

          多田さんの最期 2001年の半ばごろ、多田さんが突然、悠々社を出て行ってしまった。なかなか進まない「コールセンタージャーナル」の発刊に嫌気がさしたのかもしれない。性格的にひとつのところにいると飽きてしまうというのもあったのかもしれない。とにかく、三浦海岸の家に引っ込んでしまい、九段に出てこなくなったのだ。  ぼくの信条として、「去る者は追わず」というのがある。後ろを向いてしまった人には、いくら声をかけても無駄だ。縁があれば、また一緒に仕事をすることもあるだろう。そう思って、

          雑誌を作っていたころ068

          雑誌を作っていたころ067

          アメリカ出張 多田さんの鞄持ちとして、2000年と2001年にアメリカに出張した。東京電力に依頼されたレポート作成の仕事だったと記憶している。ぼくはそれまでヨーロッパには何度か出張していたが、アメリカ本土はこれが初めてだった。リコーのデジカメで張り切って写真を撮りまくったのだが、残念なことに帰国後しばらくしてコンピューターのトラブルと勘違いによるミスでほとんどの写真が失われてしまった。  2000年の出張では、シカゴ→ボストン→フィラデルフィア→ダラス→オースチン→ロサンゼ

          雑誌を作っていたころ067

          雑誌を作っていたころ066

          コールセンタージャーナル 多田さんとの「コールセンターの専門誌を作ろう」という構想は、資金とスタッフの両面で行き詰まっていた。ほかの分野でも同じだが、メインのスポンサーになってくれそうなところはどこも大企業なので、まだ影も形もない雑誌には「広告を出す」と言ってくれない。ある程度定着して、部数が安定してからでないと無理なのだ。  しかし大手出版社ならテスト版の雑誌を何回も作ることが可能だが、零細企業の悠々社ではとうてい無理である。しびれを切らした多田さんは、「とりあえずメルマ

          雑誌を作っていたころ066

          雑誌を作っていたころ065

          コールセンターの世界悠々社にはいろいろな「社友」がいたが、コールセンター界の大御所・多田正行氏もその1人だった。そもそも「開業マガジン」第1号の座談会に出席してもらった縁で知り合ったのだが、やがて多田さんは悠々社に居着いてしまった。それまで居候をしていたコールセンターの会社に飽きたようで、ちょうど悠々社を辞めた高田さんという女性の席が空いていたので、そこを使ってもらった。 多田さんには「開業マガジン」で連載を執筆してもらうほか、いろいろなアイデアを出してもらった。たとえば国

          雑誌を作っていたころ065