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「まんが おやさま」を読み直す 1/48

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前回の記事で予告した通り、今回からは1983年春から1987年の初旬にかけて、天理教少年会の機関誌「リトルマガジン 天理少年」に連載されていた、とみ新蔵さん作画の「まんが おやさま」を読み返すことを通して、中山みきという人が通った「道すがら」を再検証してゆく作業に入って行くことにしたい。

今回紹介させて頂いた第1回が「天理少年」に掲載されたのは私が4歳だった時のことで、これを読んだ時のことは、割と鮮明に覚えている。幼い頃の私の実家にはマンガの本というものが一冊もなかったもので、天理教の教会の会長さんが月に一回母の実家に置いて行ってくれる「天理少年」は、当時の私が「マンガ」というものに触れることのできた唯一の媒体だった。だからそれを私は物心のついた時分からムサボるように読みふけっていたのだったが、このマンガが私にとって特別に感じられたのは、それが私が生まれて初めて出会った「昔の時代の自分の周りの世界(奈良県)」を舞台とした文芸作品であったこと、そして「自分と同じ年頃の女の子を主人公とした作品」だったことによっていたと思う。ちなみに「マンガ」というものは飽くまでも「文芸作品」であると、私は確信してやまない。

私の前に初めて現れた中山みきという人が、そのように「自分と同じ年頃の(しかもとみ新蔵先生が持てる限りの技量を尽くして可愛らしく描きあげた)女の子」の姿をしていたことは、その後の私の中山みき観に大きな影響を及ぼしている。この時の印象が残っているから、私の中の中山みきという人は必ずしも「白髪のおばあさん」の姿をとっておらず、むしろこの人はいつまでも「自分と同い年の女の子」であって、それが自分と一緒に成長し続けてくれているといったような感覚が、今でも何となく、あるのである。幼い頃にいろいろなものと出会っておくことは、大切なことだと思う。

今になって読み返してみると、このマンガもやはり前回触れた「稿本教祖伝」を下敷きにして描かれているものであり、だから、と言っては語弊があるだろうが、この第一回目の時点で既に今では史実と異なることが明らかになっている描写が、いくつか登場している。「教祖が誕生した時、前川家の上空の雲が五色に輝いた」というのがホントかウソかなど、もとより確かめる術もないわけだが、例えば誕生日の日付からして、前川家の戸籍では彼女が生まれたのは「4月4日」とされており、なぜ「4月18日」という伝承が生まれたのかということの方が、今となっては分からない。もとより江戸時代の話で、戸籍に記載された誕生日の日付と実際に生まれた日が違っていた人などいくらでもいたことだろうが、ざっくり「4月」でも太陽暦に直すと今の6月ぐらいになってしまうので、桜が咲いている今の暦の4月18日に「教祖誕生祭」をやっている天理教本部の姿は、私なんかにはやはり奇妙に思える。

また、中山みきという人の幼い頃の呼び名は「みき」ではなく「るい」だったということが、伝わっている。だとしたら「るい」と呼ばれていた女の子が、いつからどうして「みき」と呼ばれるようになったのか、そのあたりの事情も気になるが、手がかりとなるような資料には、今のところ私も出会えていない。

中山みきの父親にあたる前川半七正信という人が、西三昧田の領主だった藤堂家から「一代限りの無足人」として苗字帯刀を許されたというのは、事実である。だが、それはみきという人が中山家に嫁に入って長男が生まれた後にあたる文政10年(1827年 みきは数えで28歳)になってからのことで、彼女が生まれた時から前川家は苗字帯刀を許されていたと考えると、誤解になる。「小さな違い」と言えば小さな違いなのだが、別の人たちが書いた「教祖伝」ではこの誤解が割合に大きな意味を持ってしまっている例も散見される。そのことについては別な機会に詳しく述べたい。

だが、今はまだ細かい話にまで踏み込む必要はないだろう。

6ページ目以降の、年号で言うと享和ぐらいの時期の世相を描写した部分は、「稿本教祖伝」の記述から離れ、とみ新蔵さんが独自の想像をめぐらしておられるパートなのだが、後年貧しい人々と共に歩む生き方を選択してゆく中山みきという人の思想がどのように形成されていったのかということについて、真摯な考察がなされている点に、とても共感を覚える。他人に衣食を乞うことでしか生きてゆくことのできない立場におかれていた人たちのことを、その人たちを差別する人間たちと同じ言葉使いで「乞食」と呼び捨てにしている点には抵抗を感じるが、しかし「天理教」の生成と切っても切り離せなかったはずのそうした人たちの存在と正面から向き合おうとしている作者の方の姿勢は、誠実なものだと思う。

中山みきという人が生まれた天理市三昧田町には、奈良盆地の東縁部を南北に貫く国道169号線(通称「天理街道」)が通っており、私自身、子どもの頃からしょっちゅう行き来している場所である。昔は一面田んぼと農家の建物しか見えなかった風景の中にも、今ではずいぶん近代的な建造物の姿が目につくようになってしまっているが、時々道端でこうした広々とした景色に出くわすと、中山みきという人が子どもだった頃と今でもこの辺りはそう変わっていないのだろうな、という気持ちになる。

というわけで次回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。