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「まんが おやさま」を読み返す 2/48

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「リトルマガジン 天理少年」1983年5月号に掲載された、とみ新蔵さん作画の「まんが おやさま」の2回目。ちょうどNHKの連続テレビ小説で「おしん」が始まり、東京ディズニーランド開園のニュースが賑やかだった頃に私はこれを読んでいたのだな、ということを、Wikipediaの「1983年の日本」の項目を読んで、今さらのように再確認させられている。「天理少年」が手元に届く時にはいつも実際の日付より1ヶ月先の日付が表紙に書かれていたのを覚えているから、まさにこの号が出た頃を前後して、私は幼稚園に入園していたのだという計算になる。

この回が子ども心に割とショックに感じられたのを記憶しているのは、そんな時期に当たっていたことも関係しているのだろうか。家の中で大事にされていた子どもが、いろいろな人の集まる「社会」に出て、そしてそれまで「普通」だと思っていた感覚で振舞っていただけで、見知らぬ他者の怒りや反感にさらされる場面に直面する。しかも相手の側には自分に怒りを向けるだけの正当な理由も存在しているのだという「事実」もまた、突きつけられる。誰もがその人なりの仕方で一度は経験する「世の中との出会い方」というものだと思うが、それをまともに「受け止める」ことのできる子どもなんて、まあいないだろう。私はチヤホヤされていた「みきちゃん」の前に太吉という少年が登場してきた場面では、ただ「怖い」としか感じることができなかったのを覚えている。

それにも関わらず、自分と大して年の変わらない「みきちゃん」はそれを受け止めている。暴力まで受けているのに泣くこともせず、相手がいなくなった後にはその相手のために祈っている。どうしてそういうことができるのかは分からないが、そういうことができるこの子はスゴい、ひょっしたら太吉少年よりこの子の方が「強い」のかもしれない、という風に思わされたことだけは、確かだったように思う。

しかし今になって読み返してみると、「おまえは何で寺に拝みにくるんじゃ」という太吉少年の真っ直ぐな問いに「逆質問」で切り返しているみきちゃんの態度というのは、ちょっとそれはどうなん?と思わされてしまう感じが、しないでもない。総じてこの回の「まんが おやさま」では、やさしさと人間的苦悩を兼ね備えた太吉少年というキャラクターが非常にリアルに生き生きと描き出されている一方で、肝心のみきちゃんは今のところ何を考えているのかよく分からない女の子だという印象の方が強い気がする。もっとも、太吉少年の気持ちなら「よくわかる」けれど、子ども時代の中山みきという人がどんなことを考えていたのかはよく分からないというのは、この原稿を描いた時のとみ新蔵さん自身の偽らざる気持ちでもあったのかもしれない。

私自身は「天理教の人間」ではないけれど、天理教の中に尊敬すべき方々が多くいらっしゃることについては、子どもの頃から肌で感じてきている。そしてそういう人であればあるほど、「人助け」をしたいという自分の気持ちは高慢のあらわれではないだろうかといった葛藤や、また自分が何とか力になりたいと思っている相手から「拒絶」されるといった経験を、何度も積み重ねてきておられるものだと思う。兄である平田弘史さんと一緒に単独布教師の親のもとで育たれたという、このマンガの作者のとみ新蔵さんの中にも、幼い頃からそうした場面に何度となく触れてきた経験が蓄積されていて、それがこうした情景描写の中にこだましているのかもしれないな、といったようなことを感じさせられたりもする。その意味では、この回に描き出されているのは、中山みきという人の教えと出会い、自分も同じ道を歩みたいということを決意した人たちが、これから繰り返し出会ってゆくことになるだろう光景であるのかもしれない。といった風にも思う。

ちなみに、中山みきの小さい頃のことというのは実際にはほとんどよく分かっていないわけであり、「稿本教祖伝」にそのように書かれているからといって、彼女が本当に「チヤホヤされて」育った人だったのかといえば、必ずしもそうとは限らないわけである。じゃあ、虐待されて育ったのかといえば、そこまで極端な想像をめぐらす必要もないとも思うのだけど、そうでなかったと言える証拠も別にない。今の時点で大切なのは、何が「事実として明らかになっていること」で、何がそうでないことであるのかということを、読者の皆さんとも共有できる形で、ひとつひとつ厳密に検証してゆくことだろう。そのことの上で伝記作家に自由な空想の羽根を広げることが許されているのは、「事実として明らかになっていない部分」に限られているわけだ。このことを私は、わきまえておかねばならないと思っている。

その点について言うならば、当時「るい」と呼ばれていたはずの中山みきという人が「愛されて育った子ども」だったのかそうでなかったかは分からないとしておかねばならないとした上で、その生家にあたる前川家が周囲一円の藤堂藩領の村々を束ねる「大庄屋」をつとめていたことは「史実」として確認されていることであり、彼女が「衣食住に不自由しない環境で育った」ということは、少なくとも確かなのだろうと思われる。だから、太吉少年のような境遇におかれた同い年ぐらいの子どもたちから、「世の中にそんな不平等があることは許せない」という目を向けられても当然の立場にあったことは、押さえておかねばならない点だと言えるだろう。

さて、この第2回に関しては、中山みきという人が「信心深い家風の中に育った」という「稿本教祖伝」の記述を思い切り膨らませて、ほとんど全ページがとみ新蔵さんの自由な想像で描かれており、「まんが おやさま」全編の中でもこうした回は極めて珍しいと言っていい。その貴重な回にあって、幼い頃の彼女に「仏教(ここでは浄土宗)」が及ぼしたであろう影響がきちんと描かれていることは、立派な着眼点だと思う。いずれ詳しく触れるつもりでいるが、後になってからの彼女の思想は基本的に仏教思想の土台の上に構築されているものであり、神道の方面からの影響というものは、彼女が生きていた時代においては「ゼロ」だったと私は認識している。だから中山みきという人がその思想の形成期において「仏教」から何を学び、何を感じとってきたのかということをいろいろ想像してみることは、重要な意味を持っていると考えられる。

最後に考えておきたいのは、この回のラストで彼女が「拝んで」いる姿が描写されていることをどう捉えるか、ということである。「拝む」と「祈る」がどう違うのかと言うと、内面的な行為が「祈り」でそれが外に向かって表現された形が「拝み」になる、といった定義になるのかもしれないが、まあ両者は同じことだと思う。問題は後年、「神として生きる」ことを始めて以降の中山みきという人が、それを両方ともハッキリと「否定」していることである。人から「おやさま」と呼ばれるようになって以降、彼女は誰かのために「拝む」ことも「祈る」ことも、一切やっていない。

けれども、当時の寺請制度のもとで「普通の」宗教教育を受けた人であれば、誰だって子どもの頃から「拝む」ことも「祈る」ことも、当たり前のようにやっていたはずだと思う。だからこのマンガの最後のコマに描かれていることは、決して「おかしなこと」ではない。中山みきという人の中で「拝む」とか「祈る」とかいうことは、どういう意味を持った行為だったのか。それが彼女の中でどういう「転換」を経て、後年はそれを否定する道を選んでゆくことになったのか、それを私は「ちゃんと」知りたいと思っている。その具体的な考察については、別の機会に回したい。

「拝む」「祈る」をめぐって唐突に思い出したことがあるのだが、幼い頃に天理教本部に参拝しに行く時には、「まんまんちゃん、アンしに行く」という言葉が私の家では使われていた。「まんまんちゃん、アン」というのは、多分「幼児語」なのだろう。神殿に座ると「ハイ、まんまんちゃんアンし!アンし!」と母親にせかされ、おぼつかない手つきで手を合わせると、「はい、アンできました!」とホメてもらえる。ここから考え合わせるに、「まんまんちゃん」というのは「拝む対象」を指す名詞であり、「アンする」というのは「拝む行為」を指す動詞だったのだろうな、ということが推察される。

…しかし、「まんまんちゃん、アンしなさい」と言われて、当時の私は一体「何」をやっていたのだろうか。「まんまんちゃん、アン」とはそもそも「何」だったのだろうか。オトナになったアタマで改めて考えてみると全く分からないし、当時もやはり分からなかったことに気づく。

「まんが おやさま」の第2回を読み返して、中山みきという人も子どもの頃はやっぱり「まんまんちゃんアンしなさい」という言葉で「しつけ」を受けていたのだろうか、といったようなことをぼんやり考えていたのだったが、思い返してみると、「まんまんちゃんアン」という言葉は「天理教本部」の他に「神社」に行った時にも使われていたが、東大寺や法隆寺などの「寺」に行った時には使われていなかったような記憶もある。「まんまんちゃんアン」というのは一体どこでいつごろ成立した、どういう言葉なのだろう。何だか、気になりだしたら止まらなくなってきた。

誰か、詳しい方が読んでいらっしゃったら、教えてください。それでは次回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。