見出し画像

序論2 「神」とは何かについての現段階的考察

中山みきという人は、我々が犬を信じているのと同じような意味で、「神」というものを信じることができていた人だったのだろうな。

というのが自分が少年時代から抱いてきた、天理教で言うところの「おやさま」という人に対するイメージだったということを、私は前回書いた。このイメージはオトナになった今でも、基本的に変わっていない。中山みきという人にとって、世界に「神」というものがいる/あることは、世界に犬がいることと同じくらいに「当たり前なこと」であり、かつその存在を直接「感じる」こともできていた人だったのだろうな、という気がする。場合によってはその「姿」や「声」さえ、実際に見えたり聞こえたりしていたのかもしれない。彼女にまつわる伝承や、また彼女自身が「神の言葉」であるとして文字に残した「おふでさき」と呼ばれる文章に触れていると、どうもそうだったようにしか思われないフシがある。

とはいえ、「目に見えるものがそのまま真実ならば、科学は要らない」という言葉もある。中山みきという人の目によしんば「神」なるものの存在が実際に「見えて」いたとしても、それが本当に「神」だったのかどうか、客観的に証明できる手段はどこにもない。「この目で見たから信じる」というだけでは、論理的な考え方を旨とする立場の人たちからは、そんなのは「思い込み」であり「無知な人の信じ方」であるにすぎないとして、一笑に付されてしまいそうなキライもないではない。

こういう時によく引き合いに出されるのが、天動説と地動説のタトエである。この世界では太陽は毎日東から昇って西に沈むからということで、昔の人は「太陽が地球の周りを回ることによって世界には昼と夜が生まれる」と、「感覚的な知識」だけで「信じ込んで」いたわけだ。

…始めたばかりのタトエ話に自分で横槍を入れるようで恐縮なのだが、しかしここだけ聞く分には、「天動説」というものを思いついた人も充分に「スゴい」のではないかと、私には昔から思えてならない。太陽は昼にはあるけれど、夜になったらなくなる、ぐらいのことは、コドモの頃の私でも確かに「分かって」いた。しかし、その太陽が見えなくなっている夜の間、実は太陽は「いなくなった」わけではなく、自分の足元の地面の下をグルーっと反対側に向かって移動し続けているのだなんて、そんな想像は自分の力だけでは、何年人間をやっていても絶対生まれて来なかったことだろう。だから天動説というものを生まれて初めて聞かされた時の昔の人たちの驚きや感動というものを、私なんかは思わずにいられないのである。

けれども結論から言って、それは「間違い」だったわけなのだ。太陽を含めた他の天体がみんな地球を中心にして回転しているのだと仮定してみると、火星や金星などの他の惑星の実際の動き方と照らし合わせてみて、どうも計算に合わないところが生じてくる。それで天動説の「発見」から千数百年も経った16世紀になって、ポーランドのコペルニクスという人が「実は地球が太陽の周りを回っていると考えた方が正しいのではないか」という仮説をまとめあげ、それが望遠鏡をはじめとした観測技術の発達によって実際に目に見える形で確認されたことで、今では天動説に代わってこの「地動説」を、誰もが「信じる」のが当たり前の世の中になっているわけである。「正しさ」というのはこのように、科学的な見地からすれば常に絶え間なくアップデートされているものなのだ。

…ここでまた私は自分で話の腰を折ってしまうのだけど、このようなことがあったからといって、ちょっと頭のいい人が何かというと自分のことをコペルニクスになぞらえたがるような風潮があることを、私は昔から苦々しく感じている。オウム真理教の事件があったのは私が高校生の時だったのだが、テレビの中で自分より少し年上の信者の人たちが、「コペルニクスも最初は世界の誰からも信用されていなかったんです。私たちの教団が正しかったことはいずれ歴史が証明するでしょう」みたいなことを語って恬然としているのを見るにつけ、ムラムラと腹が立ってきたことを昨日のことのようによく覚えている。コペルニクスは、確かに偉かっただろうさ。しかしあんたらはコペルニクスと同じように、「自分の頭で考える」ということを、本当にしたのだろうか。「太陽は地球の周りを回っている」という、今の常識からしたら「間違った考え方」にさえ、「自分の力でたどり着く」ようなことが、あんたらにはできていたというのだろうか。あんたらは結局、麻原彰晃という「他の誰か」の言ったことをあたかも「自分の考えたこと」であるかのように口にしているだけで、あんたらが本当に「自分で考えたこと」など、聞いていたらひとつも出てこないではないか。

そしてそれと同じような苛立ちを、小さい頃から自分の周りにいた「バリ天」--「バリバリの天理教」--の人たちに対しても、感じ続けていたものだった。ということもこの際ついでに正直に、書いておくことにしよう。とはいえそれは飽くまで余談である。

ここまでの文章で私が何を言いたかったのかというと、人間の感性はしばしば人間を欺くものであり、いっけん本当に思えるようなモノやコトでも、「本当にそうなのだろうか」といったん疑ってかかる手順を踏んでこそ、「真理」に到達しうる道は開けてくるものだ、というのが、「科学の方法」である。ということである。そして実際、これは「理」にかなったやり方であると私も思う。

ところで、私自身オトナになってから調べてみて意外に思ったのだが、中山みきという人もまた、こうした「科学の方法」というものを、べつだん否定はしていない。それどころか、「納得できるまで自分の頭で考えろ」ということを、口を酸っぱくして自分の弟子たちに求めている。

わかるよふむねのうちよりしやんせよ
ひとたすけたらわがみたすかる
分かるよう胸の内より思案せよ
人助けたら我が身助かる

「おふでさき」3-40

これが、中山みきという人の一貫した姿勢だった。上述の「おふでさき」を全文検索してみると、「なにをゆうてもうたがふな(何を言っても疑うな)」みたいな言葉も1回だけ出てくるのだが、「しやんせよ(思案せよ=自分の頭で考えろ)」という言葉は実に17回も登場している。「何を言っても疑うな」と言っている部分に関しても、「うたがう」という日本語に英語由来の「Question」という意味合いが入ってくるのは彼女の時代より後になってからの話なので、「私の言うことをウソだと思うな」ということは言っていても、「私の言うことに疑問を持つな」と言っているわけではない。「思案せよ」というのはむしろ「納得できないことには大いに疑問を持て」という「教え」であるわけで、中山みきという人の「思想」はここに凝縮されていると言っても過言ではないと私は受けとめている。

それならば、物事を徹底的に疑ってかかるこの「科学の方法」に照らしたならば、「神の問題」にも果たして何らかの「答え」が見えてくるものなのだろうか。「神の問題」といっても漠然としているけれど、ここでの問題はまず「神」というのは「ある」のか「ない」のかということ、そして「ある」「ない」以前にそもそも「神」とは「何」なのかということ、大きくはこの二つに整理することが可能だと思う。

その点、キリスト教の伝統の中から発展してきた西洋哲学の歴史というものは、正にこの問題に答えを出すことを、ある時期までは究極のテーマとしてきた。「神」を「疑う」ことが「罪」であるとまでされた時代のただ中から、ヨーロッパの先人たちはどのようにこの問題と向き合おうとしてきたのか。やや回り道になるかもしれないが、その足取りをたどってみることも決して無駄にはならないだろう。

「物事を疑ってかかるやり方」に「方法的懐疑」という名前をつけたのは、フランス生まれの17世紀の哲学者、デカルトだった。この人はこの方法を用いて、あらゆる物事を疑いつくした。自分の目に見えているのは石ころでなく貝殻なのかもしれない。自分の周りにあるのは現実ではなく夢なのかもしれない。自分が正しいと思っている数学の法則は、「悪意を持った神」が自分をダマすために見せているウソの幻影なのかもしれない。云々。しかしそうやって何から何までを疑いつくしたその挙句、「疑っている自分自身」の存在だけは、どんなに疑おうとしても疑いえないことに彼氏は気づく。そこから生まれたのが、「我思うゆえに我あり」という有名なテーゼだった。

「思考する自分」の存在だけは疑いえないというこの確信を新たな出発点に、デカルトは今度はそこからいろんなことを「逆証明」してゆく。「思考する自分」は「人間」であり、有限で不完全な存在である。このことは明らかだ。ところが有限で不完全な存在であるはずの人間が、無限で完全な存在、すなわち「神」を想像しうるのはなぜなのだろうか。この「力」は「人間の外側」からもたらされたものに違いないとデカルトは考えた。

ゆえに「神」というものを「ない」と考えることは「おかしい」とデカルトは結論づけている。やや、肩透かしを食わされたような印象ではある。

それならば、有限な人間に備わった、無限なものを想像しうる能力、すなわち「理性」とは、一体どこからやって来たどういう「力」なのだろうか。「神」というものが「ある」として、人間にその存在を認識することはどこまで可能なのだろうか。このことを突きつめて考えたのが、現ロシア領のケーニヒスベルク出身のドイツ人哲学者、カントだった。彼が有名なのは、人間が物事を認識する際には「認識が対象に従う」のではなく「対象が認識に従う」構造が存在していることを指摘して、それまでの認識論に「コペルニクス的転回」をもたらしたことによっている。

どういうことかというと、「山がある」から「山があると思う」のではなく、見る人間が「山があると思う」ことによって初めて、見ている対象は「山になる」のだということである。「山」は飽くまでタトエなので、この部分に入る言葉は「海」でも「空」でも「サバの缶詰」でも何でも構わない。物事に対する「認識」は、認識する人の知識や経験にもとづいて、いくらでも深めてゆくことができる。「あれは山だ」「山は山でも生駒山だ」「奈良と大阪の境界だ」「断層の活動によって形成された地形だ」云々。しかしながら人間が認識する対象は、どこまで行っても人間にのみ固有なあらわれ方をする「現象」でしかありえず、物それ自体の本来のあり方=「物自体」は、人間には決して認識することができないとカントは結論づけた。

人間の認識能力をこえたところにあるにも関わらず、それが存在していることは絶対に否定することのできない「物自体」。それを思ってみると、目の前の石ころひとつにさえ「神秘」を感じずにいられない気持ちになってくる。カントの考察から浮かび上がってくるのは、無限なものを無限に探求し続けて行くことを運命づけられている存在であるところの人間の姿である。しかして、その探求が「真理」に到達することは、決してありえない。「真理」は飽くまでも、人間の認識の及ばない「彼岸」に横たわっている。人間が「神」と呼んできたのは、あるいはその「真理」のことであったのかもしれない。

物事の原因を、原因の原因の原因まで突きつめて、「一番最初の本当の原因」というものを探ろうとしてみると、必ず「神」というものを想定しなければ何も「説明」がつかなくなってしまう地点に行きつく。宇宙より大きいものを、原子より小さいものを、それぞれ無限に想像してみようとすれば、やはりそこには「神」というもの以外のどんなものをも想像しえなくなってしまうような地点が待っている。けれども、そんな風にして人間が「彼岸」に見出す「神」の姿というものは、人間の理性の働きが作り出す「先験的仮象」すなわち「幻想」にすぎないとカントは言う。彼氏はただ、人間に「神」が「必要」となる「仕組み」について語っただけであり、「神」というものが「何」であるかについては、「物自体」と同様に人知を超えた問題であると考えていたからだろうか、ほとんど具体的なことを語っていない。

とはいえカント自身は「神」を信じていなかったのかといえば、そういうことでもなかったらしい。人間はいかに生きるべきかという問いに対し、彼氏は「内なる道徳律に従え」と答えている。「理性がそう命ずるからだ」ということで、この「道徳律」や「理性」がどこから来るのかということについては、「神」から来るのだということをカントは文字通り、「信じて」いたのだと思われる。彼は敬虔なプロテスタントだった両親から受け継いだ信仰を終生守りぬき、1804年に自らの生まれた街で生涯を終えた。最期の言葉は「Es ist Gut (これでよし)」だったと伝えられている。

「人間」と「神」との間には、そんな風に「越えられない溝」があるのだということを指摘したのがカントだったとすれば、その「人間」と「神」とをもう一度「くっつける」方向に思索を展開して行ったのが、彼より一世代遅れて生まれてきた同じドイツの哲学者、ヘーゲルだったと言うことができるかもしれない。デカルトにしてもカントにしても、「思考する自分自身」を出発点にしていることに変わりはないわけだが、ヘーゲルはその「思考する自分」の「意識」とは「何」なのかということについて考察を深めてゆく中で、人間の「自己意識」は「自己自身であると同時に他者である」という構造を持っていることに着目するのである。

「自分」の中には「他者」がいる。そんな風に指摘されてみると、「我思うゆえに我あり」の「我」とは何だったのだという話に、今さらながらなってしまうし、カントが「人間の力では絶対に認識できない」と考えた「物自体」は、実は「自分の中」にあったのだという話になる。けれどもそう思ってみると、我々は「物を考える」たびごとに「何かと対話している」ような感覚を味わっていることに、改めて気づく。そして「自分の意識」というものが「自己自身であると同時に他者である」という構造を持っているからこそ、我々は「主観的」にも「客観的」にも、その両方で「物を考える」ことができるようになっているわけである。

ヘーゲルが鋭かったのは、「他者」の存在なくして「人間」は何ものでもありえない、という問題を徹底的に突きつめて考えている点だと私は思う。このことは、個人レベルの問題からしてその通りなのである。イルカさんの歌の文句を借りるなら、「ひとりで生まれたけどひとりじゃ生きられない」のが「人間」という存在であるわけだ。「自己」は「他者から承認されること」を通して初めて「自己」になるのだとヘーゲルは指摘している。「承認欲求」という昔はあまり聞かなかった言葉が、最近では「ワガママ」という言葉の言い換えのようにして使われている風潮があるわけだが、言うなればそれは一人一人のどんな人間の中にも存在している「自分は自分として生きたい」という原初的な「叫び」に他ならないわけであり、「自分」が「自分」であることを誰からも認めてもらえない世界で生きなければならないとしたら「世界」はどれだけ「地獄」であるか、ヘーゲルからそんなにややこしい言い回しで教えてもらわなくとも、我々は自分の感覚を通じて、誰もがそのことを知っているはずであると思う。

ヘーゲルはこの関係を、「概念」としての「人間」にまで拡張してみせる。人間は他者の存在をいわば「鏡」とすることを通してしか、自分が何ものであるかを知ることができない。それと同様に「総体」としての「人間」もまた、自らの存在を鏡のように映し出す「他者」の存在を通じて、初めて「自分たち」人間が「何」であるのかを「知る」ことができる。ヘーゲルの論理に従うならば、この「人間を人間として承認してくれる他者」がすなわち「神」であり、「神」に認められることで初めて人間は自らを人間として知ることができるという関係が成立している。とはいえ、この関係は「神」の側でもまた成立しているわけである。つまり「神」の方では「神」の方で、人間の側から自分のことを「神」として認知してもらわないことには、自分が「神」であることを誰に向かっても証明できなくなってしまう。「神が人間を生み出し、人間が神を生み出す」という関係性が、こうして成立する。

人間と神、自己と他者、主観と客観、個別と普遍、いっけん正反対に分裂しているように思われるこうした概念は、実は上に例示したような関係を通じて「ひとつのもの」になっているのだとヘーゲルは言う。そしてこれらの「対立しあうカテゴリー」は、現実においても「ひとつ」になってゆく必然性を有しているものなのだという。互いに対立し否定しあっているように見える「ふたつ」のものがどうして「ひとつ」になりうるのかといえば、それは「弁証法」という「運動」を通して「ひとつ」になるのである。

花が咲けばつぼみが消えるから、蕾は花によって否定されたと言うこともできよう。同様に、果実により、花は植物のあり方としては、いまだにせであったことが宣告され、植物の真理として花にかわって果実が現れる。植物のこれらの諸形態は、それぞれ異なっているばかりでなく、たがいに両立しないものとして排斥しあっている。しかし同時に、その流動的な本性によって、諸形態は有機的統一の諸契機となっており、この統一においては、それらはたがいに争わないばかりでなく、どの一つも他と同じく必然的である。そして、同じく必然的であるというこのことが、全体としての生命を成り立たせているのである。

ヘーゲル「精神現象学」

両立しない二つの存在が、どちらか一方がもう片方に「否定」されることを通して「統一」されてゆくこの「運動」を、ヘーゲルは「弁証法」と呼んでいる。そしてヘーゲルに言わせるならば、人間の集団と人間の集団が殺し合う戦争のような「矛盾」さえ、人間という存在がより「完全」な統一体として自らを産み直してゆくための「運動」の一環であるということになるのである。ヘーゲルはこのようなものとして「歴史」を捉えている。彼の説に従うなら、世界の歴史とはすなわち、存在するものすべてを包む巨大な精神としてある「絶対精神」が自己自身を現実の中に具体化し、「自己実現」を果たしてゆく壮大な過程に他ならない。「絶対精神」とはヘーゲルの作った言葉であるのだが、それを「神の意思」と言い換えても比喩としては間違いにならないだろう。この「神の意思」を実現する過程として歴史は展開され、その最終地点で「人間」と「神」の対立関係は解消されて両者は「ひとつ」になるだろうということが、上に引用した彼の著書では示唆されている。ただしその場合、「人間」が「神」によって「否定」される形で両者は「ひとつ」になるわけであり、「人間」の存在は「神」にとって結局のところ、「自己実現の手段」みたいなものであるにすぎないことになる。

…ヘーゲルという人は近代哲学を「完成」させた人だと言われているが、彼の築きあげた哲学の体系は、あまり人間を元気にさせてくれるものではない。デカルトからカントを経てヘーゲルに至るまで、かれらが「神」についてあれこれ考え続けてきたのは、結局「人間とは何か」という問題に答えを出すためだったわけである。それで出てきた答えが、「人間は神の意思を実現するためのコマとして存在しているにすぎない」みたいな内容だったとしたら、私だったら人間をやめたくなると思う。だがヘーゲルの展開した論理は、「人間」と「神」とが「同じメダルの裏表」でありうる可能性を示唆するものだったわけであり、話がここまで来たなら、「神は人間であり、人間は神である」という叫びを上げる新たな哲学者が現れることは、もはや時間の問題だった。そして実際にその声を上げたのが、ヘーゲルの生前にその生徒として学んでいたこともある、フォイエルバッハというこれまたドイツの哲学者だった。

もともと神学を学ぶために大学に入ったフォイエルバッハは、ヘーゲルの死後、「神の秘密は人間の秘密であり、神学の真の意味は人間学である」と宣言して、キリスト教から訣別する。彼は「人間」が「他者」=「対象」の存在なくしては何ものでもありえないという師匠の見解を受け入れつつ、「神」とは結局のところ、人間が自分の本質を「疎外」することを通して自ら生み出した自分の対立物にすぎないと指摘し、その「神」から人間が自分の本質を「取り戻す」ことを通して、初めて人間は人間として「解放」されることになる、と主張した。フォイエルバッハはこの立場から、「神」という「他者」と向き合うように「世界」と向き合うのではなく、直接「自己自身」と向き合うように「世界」と向き合う視点を提示する。私は彼の書いた「キリスト教の本質」という本を若い頃に初めて読んだ時、その文章にえらく感動させられたことを覚えている。何と言うか、彼の視点に立つと、世界が美しく思えてくるのを感じたのである。

太陽は諸々の遊星の共通な客体である。しかし、太陽が地球にとって対象であるのは、水星・金星・土星・天王星にとって対象であると同じ仕方においてではない。各々の遊星は自分自身の太陽を持っているのである。天王星を光らせたり暖めたりするところのその太陽は、地球に対しては何らの物理的定有を持たず、ただ天文学的科学的定有を持っているだけである。そして、単に太陽が天王星上においては地球上においてとは違って現れるだけではなくて、天王星上における太陽は実際また地球上における太陽とは別の太陽であるのである。それゆえに、太陽に対する地球の関係は同時に、地球の自己自身に対する関係、または地球自身の本質に対する地球の関係なのである。なぜなら、太陽が地球にとって対象である際の尺度としての、大きさと光の強さとの尺度は、地球の特有な性質を基礎付ける尺度としての距離の尺度であるからである。それゆえに各々の遊星は自己の太陽において自分自身の本質の鏡を持っているのである。

フォイエルバッハ「キリスト教の本質」

…このような仕方で、人間は対象において自己自身を意識する。そしてこのことは、単に精神的な対象について当てはまるだけはなく、感性的な対象についても当てはまるのだとフォイエルバッハは言う。この見地に立てば、人間にとって最もかけ離れている対象でさえもが、それらが人間にとって対象であるがゆえに、そして人間にとって対象である限り、人間の本質の顕示なのである。

月も太陽も星も、人間に「汝自身を知れ!」と呼びかけている。人間が月や太陽や星を見るということ、および人間がそれらのものを、正にかれがそれらのものを見ているような仕方で見ているということ、このことは、それらのものが人間自身の本質であることを証拠立てているのである。

前掲書

「神」の偉大さや素晴らしさとして語られてきたことは、このようにして見ると実は人間自身の偉大さであり、素晴らしさであったのだと、フォイエルバッハは語る。西洋哲学の歴史は、「神」の問題に答えを出すことを「ある時期まで」究極のテーマとしてきたと上段で私は書いたわけだが、このフォイエルバッハに至って、「神」の問題は実質的に「人間」の問題に解消されてしまったわけである。とはいえ哲学上のこの問題に最終的に「決着」をつけたのは、やはりフォイエルバッハから少しだけ遅れて登場した、「共産党宣言」の執筆者として知られるカール・マルクスその人だったと言うことができるだろう。

「人間が宗教を生み出したのであり、宗教が人間を生み出したのではない」というフォイエルバッハの視点に、マルクスは熱烈に共鳴した。しかしながらフォイエルバッハが、「物の見方を変えるだけで世界はこんなにも美しくなる」という自分の結論に自足し、現実世界に存在する悲惨や矛盾に目を向けようとしなかったことは、マルクスにとって受け入れ難いことだった。マルクスは結局27歳の時、「フォイエルバッハに関するテーゼ」と題した自分のノートの切れ端に

哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。
大切なのは、それを変えることである。

と書き残して「哲学者」であることをやめ、「活動家」として残りの人生を生きることを選択してゆくことになる。マルクスについてまで語り始めると、中山みきという人の伝記を書くための序論として書き始めたこの文章の本筋から大きく外れてしまうことになるのでもうこれ以上は書かないが、彼氏が中山みきより20年遅く生まれ、4年早くに亡くなった「19世紀の同時代人」であったということは、ここに書いておく値打ちのあることだと思う。

さてここまで、ヨーロッパの先人たちが「神」をめぐる問題とどのように格闘してきたのかを駆け足で概括してきたわけだが、それを踏まえて今の私が「神」というものをどのように考えているのかということを改めて問われたならば、やはりフォイエルバッハからマルクスに引き継がれた「神の秘密は人間の秘密である」という視点が、自分にとっては一番しっくり来るように思われる。と答えておきたい。「神」という観念が、人間の「自己疎外」を通じて生み出されたものであり、その「神」に人間が多くのものを捧げれば捧げるほど、人間自身はそれに反比例して貧しく惨めな存在になってゆく、というマルクスの見解は、慧眼と言う他にないものだと思う。同じ敬意を払うなら、「神」に対して敬意を払うのではなく、「人間」に対して敬意を払って生きて行く生き方を選びたい、というのが私の立場である。

けれども人間が「他者」の存在を「鏡」にしてしか「自分」が何ものであるかを知ることのできない存在であるということを考え合わせるなら、中山みきという人が「神」というものを「ひながた」にして「人間の生き方」を教えたことは、理に外れたことではなかったと思っている。彼女が人々に教えた「神」とは、

ない人間、ない世界をはじめかけた、元始まりの神

だったと伝えられている。こうした「神」のイメージを、彼女はカントの言うところの「理性の構成的適用」を通じて自分の力で導き出したのか、あるいは「神」というものがあるならばそれはこうしたものであるはずだ、という「推論」を通してそのイメージにたどり着いたのか、それとも場合によっては「神」という「他者」が彼女とは別のところに本当にいて、その「他者」から直接教えられることを通して彼女はその考えを自分のものにしたのか、今のところ私には「わからない」としか言いようがない。

ただ、「推論」で「神」を語るなら「自分はこう思う」という言い方にしかならないはずだし、「他者」から聞かされた話をそのまま語るのであれば「自分はこう聞いた」という言い方を必ずするはずである。けれども中山みきという人が「神の言葉」として後世に伝えている様々な言葉は、明らかに「中山みき自身の言葉」として語られている。このことは中山みきという人がハッキリと「自分が神である」という「自覚」を持って、人々に「神の教え」を伝えていたのだという事実を物語っていると言えるだろう。この「事実」とどう向き合えばいいのか。そのことはこれから彼女の「通った」人生の道すがらを検証してゆく作業の過程で、繰り返し我々の前に立ち現れてくる問題になると思われる。

そのことの上で、現代にまで伝えられている彼女が残した言葉の端々に触れていると、ヘーゲルが自分の頭で考えたぐらいのことは中山みきという人には全部「わかって」いたのだろうし、それを自分の感覚を通して「知って」もいたのだろうな、ということに気付かされる場面が実にしばしば訪れる。たとえば「おふでさき」の中には

たん/\となに事にてもこのよふは
神のからだやしやんしてみよ
段々と何事にてもこの世ぉは
神の身体や思案してみよ

3-40/135

という歌があるのだが、ここには「絶対精神」の「自己実現」の過程として世界史が形成されるというヘーゲルの学説と寸分違わぬイメージが、「だんだんと」という副詞の使い方一つで鮮やかに描き出されていることに、驚嘆せずにいられない気持ちになる。何しろ、私がヘーゲルの著書を初めて手にしてから、そこに書いてあることがおぼろげながら「理解」できたような気持ちになるまでにかかった時間は、5年や10年では効かなかったのである。しかも、いずれ詳しく触れることもあるだろうが、彼女が語ったとされる「元はじまりの話 (世界創生の説話)」においては、聖書や記紀神話に描かれているような形で「完成された世界がいきなり登場する」のではなく、進化論を踏まえたような形でゆっくりと時間をかけて生成されてゆく世界のイメージが描写されている。ダーウィンはマルクスと同じく中山みきという人の同時代人だったとはいえ、かれらの最新の学説が当時の日本の奈良県の片田舎にまで直接「届いて」いたとは到底考えられない。中山みきという人を「思想家」としてとらえるなら、とんでもない「天才」が自分の地元にはいたものだという事実に、気が遠くなるような感覚を私はおぼえてしまうのである。

さらに、「神」とはそんな風に「この世界のすべて」を「自らの身体」とする存在であるというイメージが提示されたことの上で、彼女が教えている「神の心」の中身というものは、ヘーゲルの言う「絶対精神」のように小難しくかつ恐ろしげなものでは全くない。彼女はただ、「神」とはこの世に生きる人間すべてを生み出した「元の親」であると教え、「自分の子である人間」に向けられた「親である神」の思いというものは、人間の親が自分の子に対して持つ「親心」と全く変わらない気持ちなのだ、とだけ説いている。「本当にそうなのか」と「疑う」ことは依然可能ではあるだろうが、人の親となった人間が自分の子どもに対して「親心」を感じることが一般的な「真理」であることは、この世に生きるほとんどの人が自分の感覚を通して「知って」いるはずの事実である。そんな風に「誰にでも理解できる平易な言葉」を通して、彼女は自分の教えを説いている。難解な用語を書き散らして「思想家」とか「哲学者」とか言われている象牙の塔の住人たちより、それはよっぽど立派な態度であると私は感じる。

世界中の人間が「親である神」の「親心」を理解したときには、「世界中の心」が「澄み切る」ことだろう。そうなったら「むほん=戦争」も「たかびく=差別」もなくなって、人間は「陽気づくめ」の世界で「115歳の定命」を楽しみながら暮らしてゆくことができるようになるだろう。「親神」はそんな日が来ることを心から願い、そのために「子である人間」たちの「せゑぢん=成人」を待ち続けている。というのが、中山みきという人がその生前、人々に伝えていた教えの骨子である。

「神の子」が「成人」したら、「何」になるのだろうか。

理屈から言えば「神」になると考えるのが当然なのではないかと私は思う。

「神」と「人間」とが「同じメダルの裏表」であることを、中山みきという人はおそらくヘーゲルより遥かに深いレベルで「理解」していた。そして彼女はその人生において、自分が「神の子」であることを「自覚」させられる契機、さらにそれが「成人」を経て「神」そのものになったのだということを「自覚」させられる契機を、それぞれ何らかの形で「経験」し、その「経験」にもとづいて、上記のような教えを人々に語っていたのだと思われる。これは飽くまで私の推論である。

そして中山みきという人は、「神の子」として生まれてきた人間たちの中には、誰にでも同じように「神」へと「成人」を果たすことのできる契機が存在しているものなのだということを、何らかの形で「理解」していたのではないかと思われる。だからこそ中山みきという人は、自分がまず率先して「神」となり、「成人」へと至る道の「ひながた」を自ら身をもって示そうとしたのではないか、と考えられる。それが中山みきという人の「選んだ」生き方だったのだと、私は理解している。

一言で言うなら、中山みきという人が説いたのは「人間が神になるための教え」だったのではないかというのが、現時点における私の理解である。この捉え方は、天理教という宗教が「教祖おやさまの教え」として説いているところの現在の教義からは、大きく逸脱するものであるという誹りを免れないことだろう。だが私という人間にとっては、そもそも人間という存在にとっては、そう考えることを通してしか中山みきという人を「理解」することは絶対にできないのではないか、と思われてならないのである。

「人間が神になる」という言葉の意味するところは、「人間」という存在が「神」からの「自立」を果たすということだ。フォイエルバッハからマルクスへと引き継がれた「人間の人間としての解放」というスローガンと、それは同質のことを呼びかけている思想であると理解していいと思う。中山みきという人の「思想」は、そんな風に世界史の中に正当に位置付けられて然るべき質と内容を備えたものだと私は思っている。

吾々は人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ」「人間に光あれ」と呼びかける水平社宣言が、同じ奈良県の片隅から世界に向けて起草されたのは、中山みきという人がこの世を去ってから35年後のことだった。そこには世界史が激動を迎えていた19世紀から20世紀にかけての時代精神が反映されていると同時に、中山みきという人が生涯をつらぬいて訴え続けた「同じ思想」がこだましているということを、私は感じずにいられない。中山みきという人の伝記を書くことを通して私が描き出したいと思っているのは、そんな時代に私の郷里を席巻していた「熱い息吹」の正体そのものである。その作業の中で私や私につながる人々の歴史は、どのような意味を持って我々の前に再び浮かび上がってくることになるのか。そのことは全てを書き終えたときにのみ、明らかになることだと思っている。

中山みきという人が「神」そのものであったとしたならば、その「伝記」を書くことは私には永遠にできない。けれども彼女が「神として生きること」を「自分の意思」で選んだ「人」であったとしたならば、何か書けそうな糸口が浮かんでくるように思える。今のところはそれが唯一の手がかりであると思う。本稿のタイトルを「神として生きた女性ひと」とさせていただいた所以である。

さて前置きが長くなった。

次回からはいよいよ、中山みきという人が「どういう人」であったのかということを、読者の皆さんと共に再検証してゆく作業に入って行くことにしたい。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。