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中山みきが教えた「かぐらづとめ」について


はじめに

私が天理教の家で生まれたこと。物心ついた時から、中山みきの教えたとされる「みかぐらうた」と「おつとめ」に親しんで育ってきたこと。中学生の時に、天理教本部では一般の信者が教えられているのとは違う「かぐらづとめ」と呼ばれる「おつとめ」が「秘密の儀式」として継承されているらしいことを知り、衝撃を受けたこと。それを「秘密」にしておくのは教祖の教えに反しているとして、中山みきが教えたとおりの「かぐらづとめ」を復元し、誰でも参加できるものとして公開している「櫟本分署跡保存会」の方々に出会ったこと。そして私も初めて、それを体験させてもらったこと。以上の顛末は、上にリンクを貼らせていただいた二編の記事の中に、くだくだしく書かせてもらった通りである。

その「かぐらづとめ」が、私のそれまで知っていた「おつとめ」とはどう違ったものだったのか。できるだけきちんと書いておきたいと思うのだが、私自身は中山みきという人に対して個人的な尊敬の念は感じていても、いわゆる「天理教の信仰」を持っている人間ではない。従って中山みきや天理教のことを「人に教える」ことのできる立場に、自分はないと思っている。書けることは「保存会」で教えて頂いた「かぐらづとめ」の具体的な内容と、それに対する自分自身の立場からの感想に限られることになると思うので、読む方にはそのことを念頭に入れておかれたい。

そのことの上で、至る所に出てくる宗教的な専門用語にいちいち「注釈」をつけることなどはさすがにできないので、この記事は実質的には、天理教のことをある程度「知って」いる人、現役の信者の方々や、私のようなその二世·三世の人間を対象としたものとならざるを得ないと思う。もちろん、「一般の方」が読んで感想を寄せてくださっても、そのことは全然かまわないのだが。

何しろ今回の記事には、天理教本部が教団の創設以来「秘儀」扱いしてきた内容が多く含まれており、ネットの世界を見渡してみても、それについていろいろな憶測をめぐらせた記事は出てくるものの、具体的なことを書いた記事はほぼ見つからない。天理教の信者の方々、またその周辺で育ってきた人々で、「かぐらづとめとは一体どういうものなのだろう」ということを「ちゃんと」知りたいと思ったことのない方は、いないのではないかと思う。櫟本分署跡保存会の方々は、「ここで見聞きしたことは何でも公開してくれてかまわない」と言って下さったので、以下はそれを受けての私のレポートである。そういうものとして読んでいただければ、幸いに思う。

「かんろだい」について

上の写真は、櫟本分署跡保存会に再現されている「かんろだい」。高さ8尺2寸(約2m50cm)。六角形の石を 13段積み重ねて築かれる形となっている。(写真のものはステンレスで再現)。中山みきが教えた「おつとめ」は、現在座ってつとめられているものや、教会で「めどうの鏡」に向かってつとめられているものまで含め、元々はすべてこの「かんろだい」を囲んでつとめることを想定して作られたものである。

「かんろだい」の形状は、中山みきが「天然自然の理」を説く際、「男種と女種が対等に協力しあうことを通して初めて生命は生まれてくる」ということを説明するのに例えとして人々に示していた「かぼちゃの花のめしべ」の形をモチーフにしている。同時に、下二段は女性器、上十一段は男性器の形状をそのままかたどっており、それが結合している様が示されている。つまり「かんろだい」とは、「ここから生命が生まれてくること」「人間が生まれてくること」を象徴して立てられた、ひとつの「オブジェ」である。


上の画像はかつて「天理時報」に連載されていた「教祖絵伝」で、平田弘史氏が再現された草創期における「かぐらづとめ」の様子であるが、「お屋敷」に「かんろだい」が築かれる以前の時代においては、「男五分の理」「女五分の理」を象徴する役割を果たす二名が「つとめ人衆」で作る輪の内側に入り、「おつとめ」の手を振ることで、「かんろだい」に代わる役割を果たしていた。「かんろだい」が築かれた現在においては、本部においても保存会においても、この二名は「輪の外側」で「おつとめ」に参加する形をとっている。

※ ただし、「お屋敷」に「石のかんろだい」を建てる試みは官憲の妨害によって挫折しており、中山みきの在世中は飯降伊蔵が作った木製の「かんろだいのひながた」が使われていた。
※ なお、平田弘史氏の「教祖絵伝」は、中山みきの実像を正しく伝えようとしない本部と同氏との関係が決裂したことにより、連載が中断されたままになっている。

中山みきが生きた幕末から「明治」にかけては、日本人の平均身長が最も低かった時代だと言われており、大体5尺(150cm)しかなかったという話なのだが、それぐらいの身長の人々が「かんろだい」を囲むとちょうど上図のような「球形のイメージ」ができあがる。この「球形」が広がったり縮まったりすることで、「おつとめ」では「脈動する生命のイメージ」が表現されている。と私は聞かされたし私もそう感じた。(なお、本部でつとめられる「かぐらづとめ」の際には、つとめ人衆と「かんろだい」の間に神饌台が置かれているため、人衆どうしの間隔が広がってしまっており、上図のような「球形のイメージ」は生まれない。また「すまして」の手を振る時にも、本来できるはずの「輪」ができない。神道の形式を割り込ませた結果として、中山みきの教えが歪められた形であるといえる)。

「つとめ人衆」の役割分担について


やや文字が読みにくいが、上図が「天然自然の理」のひとつひとつの役割を象徴する「つとめ人衆」の配置と、その呼び名である。(「男五分の理」が「中心」に書かれているのは、「かんろだい」の上の部分が「男」で土台の部分が「女」であることを立体的に示しているのだと思われるが、この図の書き方だとあまり男女が対等である感じがしない。むしろ中心の六角形の内側に左右対象の形で「男五分」「女五分」と書いた方がいいのではと個人的には思う)。現在の天理教本部が出している教典では、この「つとめ人衆」の「役割」に対し、それぞれ

すいき(水気)=くにとこたちのみこと
ぬくみ=をもたりのみこと
皮つなぎ=くにさづちのみこと
骨つっぱり=月よみのみこと
飲み食い出入り=くもよみのみこと
息吹き分け=かしこねのみこと
切る=たいしょく天のみこと
引き出し=をふとのべのみこと
男種=いざなぎのみこと
女苗代=いざなみのみこと

という「神名」がつけられており、さらに大昔の天理教の本には

くにとこたちのみこと
お姿は頭ひとつ、尾ひとつの大龍。男神。天にあっては月。裏守護は釈迦如来。
をもたりのみこと
お姿は頭十二、尾三つの大蛇。女神。天にあっては日。裏守護は阿弥陀如来。
くにさづちのみこと
お姿は亀。女神。天にあっては源助星。裏守護は弁財天。
月よみのみこと
お姿はしゃち。男神。天にあっては短軍星。裏守護は八幡/聖徳太子
くもよみのみこと
お姿はうなぎ。女神。天にあっては明けの明星。裏守護は薬師如来。
かしこねのみこと
お姿はかれい。天にあっては未申の星々。裏守護は大日如来。
たいしょく天のみこと
お姿はふぐ。女神。天にあっては丑寅の星々。裏守護は鬼子母神。
をふとのべのみこと
お姿は黒蛇。男神。天にあっては宵の明星。裏守護は不動明王。
(いざなぎ/いざなみは別格)

といったような細かい「属性の設定」までが施されているのだが、これらはいずれも後述する中山みきの長男秀司が、みきを慕ってやって来る人々の信仰心から収入を得ることを当て込んで、みきの意思とは無関係に自分名義で「教団」をデッチあげた際、ブレーンとして彼についていた神職の関係者や真言宗の坊さんが様々にこじつけて作りあげた「後づけの設定」であるにすぎず、「天然自然の理」だけを説いた中山みきの当初の教えとは、全く関係のないものである。(下の画像は「秀司の教団」が「お屋敷」の「つとめ場所」に祀りこんでいた「天輪王明神」の「御神体」。櫟本分署跡保存会にて)

ただし、「秀司の教団」が「力」を持って来ると、それに逆規定されるような事態も生じてきたのだろう。「おふでさき」の中には中山みき自身が「たいしょく天」や「をもたり」といった名前に言及している箇所も散見されるから、それが「中山みき自身の教え」であるかのように錯覚されてきたのだと思われる。「秀司の教団」で「ありがたいご利益を与えてくれる神様の話」を先に聞いてきた人々が、「国常立尊とはどのような神様でありますか」「月読尊とはどのような神様でありますか」という質問をぶつけて来ることに対し、中山みきはひとつひとつ、「ていねいに」対応しなければならなかったのだろう。

ただし「おふでさき」の中で言及されている「いざなぎ」や「かしこね」といった天皇の祖先神に由来する「名前」からは、それが「神名」であることを示す「みこと」という言葉が全て、取り除かれている。「明治政府」の宗教政策のもとではそれが「不敬罪」にあたる行為であることを承知の上で、中山みきはあえてそうしたのである。そのことを通してそれらが「役割の名前」にすぎないことを教え、また「つとめ」に参加することを通して人間は世間で「おそろしいもの」として祀られているそうした神々と「対等の存在」になるのだということを示したのが、保存会の方々の説明だった。

なお、「みかぐらうた」や「つとめの手」のひとつひとつは「中山みきが自分で考えて作ったもの」だと保存会の方々は強調していたし、私もそのように書くわけだが、「ひとりで作ったもの」ではなかったのではないかとも、個人的には考えている。中山みきの思想を最もよく理解し、よき相談者としての役割をつとめたとされる五女のこかんさんをはじめ、辻忠作や飯降伊蔵夫婦といった最も初期の信者の人たちと、「こうすればどうか」「ああすればどうか」と話し合い相談する中から生まれ形成されていったのが「つとめの手」のひとつひとつだったのではないかということが想像されるし、そう考えた方が私は好きである。

「つとめ人衆」の装束について

中山みきの在世時、「つとめ人衆」の人々は背中に教祖から頂いた「十二弁の菊の紋」を着けて「つとめ」にのぞみ、また教祖から頂いた赤衣を重ねて着ることもあった。(辻忠作氏は、教祖から頂いた赤衣を羽織っておさづけをとりついだということが伝えられている)。保存会でもそれが再現されている。

このあかいきものをなんとをもている
なかに月日がこもりいるそや
 (6-63)

と「おふでさき」にはある。「月日」とは中山みきが「神」と呼んできた「助けたいという心だけで何も望まずに人間に恵みを与えてくれる存在」のことを象徴する言葉であり、天皇制政府が「神」という言葉を独占するようになって以降、代わりに彼女が使うようになったのが「をや」「月日」という言葉だったことは、以前のノートで触れた通りである。その「赤衣」を「つとめ人衆」の一人一人が身につけるということには、そのことを通して「つとめ人衆」の一人一人が 「神の社」「月日の社」としての役割をつとめてゆくという「決意」が示されている。現在、天理教本部に「帰参」した人々に希望に応じて渡される「証拠守り」も、元々はそうした意味を持ったものだったという。

「十二弁の菊の紋」は「天皇家の紋」であるとして、「明治」になってから庶民による使用が禁止されたものだが、中山みきがあえてその紋章を使ったのは、その措置への「対抗」だったという。即ち、「天皇も百姓も同じ人間」であり、「誰が使ってもいい紋章」だということを示すために、目立つ赤布でその紋章を作って「つとめ人衆」の背中に貼りつけた。中山みきが後年、警察に弾圧されて命を縮めることになったのは、直接にはその「菊紋」が「不敬罪の証拠」として押収されたことをきっかけとしている。

「明治政府」が成立した当初は、天皇制というものにどのように「権威」を持たせてゆくかということがいまだ「手探り」の状態で進められていた時期だったし、それに対抗して「人間は平等である」ということを説こうとした中山みきのような人たちの側でもまた、「手探り」でそれを表現する手段を模索していた時期だったのではないかと思う。そういった中で「菊紋の使用禁止」という「横暴な措置」に対して「庶民の側が堂々とそれを使う」ということは、「抵抗」として「意味のあること」だったに違いない。だが時代が今のように移り変わった中でも敢えて「十二弁の菊の紋」を使っていたのでは、「天皇制を支持する人たち」や「天皇になりたい人たち」がやっている宗教であると誤解されても仕方がないのではないかという気が、私自身は、する。歴史は歴史として踏まえた上で、そうした「天皇制とのつながりを連想させる表象」については、使用をやめるのが望ましいのではないかと個人的には思っている。「菊紋」や「日の丸」がアジアをはじめ世界中の人々にとって「絶対に許せない軍国主義の象徴」に変わったのは、中山みきが死んでからのことだった。そして彼女の死後の天理教団は、その軍国主義に抵抗しようとするどころか、むしろ積極的に協力する態度を取り続けてきたのである。

ところで、「おつとめ」の「三下り目」と「四下り目」においては「日の丸の扇」を二本手に持って踊ることが現在の天理教では行なわれているのだが、その扇も本来使われていたのは上図のような「月日の扇」であり、さらに当初は太陽の部分は金、月の部分は銀と、色使いも異なっていた。この扇を両手に持って

よるひるどんちやんつとめする

の手を振ると、「よる」の部分では月のマークが前に出て、「ひる」の部分で太陽のマークが前に来るという形になる。そういう意味を持った振り付けだったのだということは、現在行なわれている「つとめ」の形態からは、わからない。(なお、扇を持つ際には、上の写真のごとく、左手に日の紋、右手に月の紋がこちらを向いているような形で持つのだとのこと。これを左右に並べると「明」という字になる)。

子どもの頃は何とも思っていなかったが、思春期以降、とりわけ日本という国家が戦争で何をやってきたかを学んで以降は、「日の丸」の扇を振り回す天理教の行事というものが、私はイヤでイヤで仕方なかった。なのでその扇が元々は上図のような「月日の扇」だったことを知ったのは、私にとっては「ホッとするようないいニュース」だった。とはいえその「月日の紋」も、そのモチーフとなったのは戊辰戦争の際に掲げられた「錦の御旗」の図柄であるとのことであり、「天皇家との関係」はここでもやはり意識されている。もとより中山みきの意識の中では、それは「対抗」としての関係性の表現だったのだろうけれど。

こうして見てくると、中山みきに「政治主張」というものがあったとすれば、「みんなが天皇になればいい」というのがその内容だったのではないかということが、おぼろげながら浮かんでくる感じがする。これに対して私の主張は「天皇なんていなくなるべきだ」というものである。とにかく天皇制に関する表象は「見るのもイヤ」だと思う。朝鮮半島や旧「満洲」地域には、かつての歴史的経緯から現在でもたくさんの天理教信者の方々が存在しているそうであり、「本当の信仰」を求めて櫟本分署跡を訪れる人々も多いと聞いているのだけれど、その人たちは私なんかよりもっと、そう思っているに違いない。そう感じたことは、正直に書いておいた方がいいように思う。

「おつとめ」の順序について

現在天理教本部で行なわれている月次祭においては、一般信者の家や教会で「すわりづとめ」として行なわれている

・「あしきをはろうてたすけたまえ」のつとめ
・「ちよとはなし」のつとめ
・「かんろだい」のつとめ

が「かぐらづとめ」としてまず行なわれ、その後、「つとめ人衆」は神楽面を外し、

・よろづよ八首
・十二下り

が「立ちづとめ」として行なわれる。これに対して櫟本分署跡保存会で再現されている「教祖在世時のつとめ」においては、「よろづよ」と「十二下り」が「かんろだい」を囲んでまず行なわれ、最後に「つとめ人衆」が神楽面をつけて、「かぐらづとめ」が行なわれる。この際、「あしきをはろうてたすけたまえ」の「つとめ」は、教祖の教えに反して後から付け加えられた「拝み祈祷の文句」だからということで、保存会ではつとめられていない。

また、「よろづよ」と「十二下り」の最後で唱えられる「なむてんりおうのみこと」という「神名」も、教祖が教えた「神名」ではなかったからということで、歌われていない。代わりに (ではなく「もともと」か)

なむてんりんおう よーしよし

というフレーズが歌われている。「なむてんりおうのみこと」が「らードードーレドらそみそ そーそーそー」というメロディになっているとすれば、「なむてんりんおう」は「らードードーレドらそみ、そーそそそー」みたいな感じである。なお、「ちよとはなし」の後の「なむてんりおうのみこと」は、「よおしよし (らーそーらーそーらー)」だけになっている。

「なむてんりおうのみこと」ではなく「なむてんりんおう」になるのは、「おつとめ」というものはそもそも「天理王命という神様」に「お願いする」ためのものではなく、「つとめ」に参加した一人一人が「転輪王」というインドの説話に登場する神の心を身につけて、人助けに生きるという「心定め」をするために行なわれるものであり、そのように作られたものだったからである。

「明治」以前の時代において天皇家や将軍家の代替わりの際に行なわれてきた「輪王灌頂」と呼ばれる儀式は、新しく支配者となる人間が上述の「転輪王」の故事にならい、「立派で公平な支配者になる」ということを世に示すために行なわれるものであったのだという。その「輪王灌頂」の儀式を、支配者たちの手から庶民のもとへと「奪還」し、誰もが「神」となって互いを尊敬しあえるような世の中を築き上げてゆく土台にしよう、といった発想が、「つとめ」を作りあげた時の中山みきの中には、あったのではないかと想像される。

神楽面について

中山みきの在世時においては、「おつとめ」といえば神楽面をつけて「かんろだい」を囲んで行なうものだったし、それ以外の形で「つとめ」が行なわれたのは、単にそれができる条件がなかった場合にすぎない。山名大教会を作った人たちは、中山みきの公認のもとで地元静岡の地に「かんろだい」を立て、自前で神楽面を作って「おつとめ」を行なっていた。上はその当時に使われていたという「山名面」の写真である。

郡山大教会でも兵神大教会でも、教会が建設された際には「お披露目」で自前の神楽面を使おうと準備までしていたのだが、中山みきの死後、「本席」としてその位置を継いだ飯降伊蔵の「おさしづ」により「ぢば」以外での面の使用は禁止され、既に神楽面を作っていた各教会はそれを返納したという経緯があったのだという。

飯降伊蔵が「ぢば」以外での面の使用を禁じたことには、当時東京に教団の本部を作って国家から活動の公認を得ようとしていた人々が、彼の目の届かないところで教祖の教えをゆがめて伝えようとしていたことを懸念したという、当時なりの理由があった。(なお櫟本分署跡保存会の方々は、中山みきの教えと同様、飯降伊蔵の「おさしづ」についても「神が乗り移って言わせた言葉」ではなく、彼が教祖の教えに照らして「自分の頭で考えて」語った言葉であるという立場をとっておられる)。だが、伊蔵のとったその措置は、教団内で国策迎合路線を進めていた部分によって彼の死後、「本部の権威づけ」のために利用され、結果、「かぐらづとめ」は現在そうなっているごとく、「一般信者が窺い知ることのできない秘儀」に変えられてしまったのだという。

櫟本分署跡保存会の方々は、古い写真や教祖百年祭の際に公開された資料をもとに、高名な飛騨の面打ちの人の協力を得て自前で再現した神楽面を、現在の「おつとめ」に使用している。特別に、ではなく実にあっさりとその撮影を許可してくださったので、以下にその写真を紹介しておきたい。

左: 「男五分の理」を象徴する「いざなぎ」
右: 「すいきの理」を象徴する「くにとこたち」

左: 「ぬくみの理」を象徴する「をもたり」
右: 「女五分の理」を象徴する「いざなみ」




右: 「つっぱりの理」を象徴する「つきよみ」。左はその担当者が背中に背負う「しゃち」。


左: 「つなぎの理」を象徴する「くにさづち」。右はその担当者が背中に背負う「かめ」。

左: 「息吹き分けの理」を象徴する「かしこね」
右: 「引き出しの理」を象徴する「をふとのべ」 

左: 「飲み食い出入りの理」を象徴する「くもよみ」
右: 「切る理」を象徴する「たいしよくてん」

天理から自動車で一時間ほどのところにある明日香村の飛鳥坐神社では、私は見たことがないのだけれど、「夫婦和合の情景」が極めてリアルに再現されて観客が異様に盛りあがることで有名な「おんだ祭り」と呼ばれるお祭りが、古代から伝えられている。その際に使われる「天狗」と「おかめ」のお面は、写真で見る限り上掲の「つきよみ」「くにさづち」と全く同じものである。お面だけではまだ足りないとばかりに男性が背中に背負う「しゃち」には「屹立する気概」が、女性が背負う「亀」には「踏ん張りぬく気概」が、それぞれ表現されているのであろう。そうした表像が使われていることから考えても、教祖在世時の「つとめ」というものは決して神妙な顔をして行なわれていたものではなく、むしろ時には笑いがあふれるぐらい、文字通り「陽気」なものとして行なわれていたのではないかということが想像される。

ところでこれらの神楽面が「くにとこたち」「をもたり」といった「神名」で呼ばれるようになった経緯(と思われるもの)については上述した通りなのだが、こうした「神名」を「教団の教え」に導入した中山秀司という人は、伝えられている以上に「ひどい人」だったらしい。現在の教典などに伝えられている限りでも「不肖の息子」であったことは伝わってくるのだが、そもそも「立教」の後、中山家が家屋敷を全部手放すまでに「貧に落ちきって」しまったのは、教祖が「貧しい人に施した」からではなく、この秀司が放蕩のあげく米相場に手を出して借金まみれになったのが原因だったのだという。

それからというもの秀司は妹のこかん夫婦の働きでようやく「食わせてもらっている」状態だったのだが、みきとこかんの二人三脚の活動で「お道の教え」は西へ東へと伸びてゆき、やがて集まってきた信者の人々が力を合わせることによって、「お屋敷」には立派な「つとめ場所」が建設された。今の本部の北側に、「記念建物」として残されているものである。そしてこの「つとめ場所」の当初の名義人は、こかんになっていた。

ところが「明治」になって法律が変わり、「戸長」としての地位を手にした秀司は、それをタテにとってみきとこかんを綿倉に押し込めてしまい、広い「つとめ場所」を「自分のもの」として、乗っ取ってしまった。「信者」みたいな顔をして利権目当てに接近してくる悪い人々がいたらしく、そうした部分におだてられた上で「操り人形」として利用されていたのが秀司の実像であったらしい。乗っ取った「つとめ場所」に、秀司は近在の竹之内村にある「十二神社」の祭神をそのまま祀りこみ、それを「天輪王明神」と名づけて、売り出した。現在の教典に伝えられている「十柱の神名」が天皇家の祖先神の名前になっているのは、その事実に由来している。

そうした秀司の「悪事」をもはや許しておけないという決意を込めて、みきが1873年に書いたのが「おふでさき」の第一号だったのだという。十七号まで書かれている「おふでさき」は、どれもみなそのように「そばなもの」の「心得違い」をただす目的をもって書かれたもので、「人を叱るような言葉」が並んでいるのはそのためである。従ってそこに書かれているのは「教理」ではない。天理教のそもそもの「教理」の全ては、「みかぐらうた」の中に表現されているというのが保存会の方々の説明だった。

早世したみきの長男の秀司や、初代真柱となった孫の真之亮、そしてそれを取り巻いていた「そばなもの」達の「悪事」の中で、私が最も衝撃を受けたのは、これらの人々は教祖中山みきが自分たちの意に沿わぬ行動をとった場合には、「警察に売り渡すこと」さえ平気でやっていたらしい、という事実だった。信じ難い話だが、記録が残っている。つまり、そもそもからして中山みきの意に反して形成された天理教団は、「弾圧に屈服した」どころか初めから「警察とグルになって」中山みきの教えに敵対していたのだということになる。軍国主義に協力する教団になっていったのも、当然のことだったと言えるだろう。そうした「内なる敵」に囲まれて晩年を送る中、みきが最後に弾圧され拘留された櫟本分署から釈放された際、迎えに来た人々に語ったという

一時とび出たところ、善悪わけに、世界の人百人、たとえば九十九人まで悪、一人だけ善、一人の善が強いか悪が強いか、世界少し見えかけてある。

という言葉には、重い決意と信念が込められていたのだということが改めて伝わってくるように感じられる。さらに詳しいことを知りたい方は、絶版となっている本ではあるけれど、故·八島英雄氏の著書ならびに、保存会のウェブサイトで公開されている同氏による「櫟本分署跡講座」の録音テープの音源を参照されたい。

「みかぐらうた」の文言について

櫟本分署跡で再現されている「教祖在世時のつとめ」では、「みかぐらうた」の文言が現在公式に伝えられているものとは違っている部分が、何ヶ所かある。以下、メモ的にまとめておきたい。

一下り目

  • 現在「四つ よのなか」と歌われている部分が、保存会では「よんなか」と歌われている。中山みき在世時の大和方言では、「よんなか」とは「豊年」を意味する言葉だったのだという。奈良県人だけど、聞いたことがなかった。

三下り目

  • 現在「三つ みなせかいがよりあうて でけたちきたるがこれふしぎ」と歌われている部分が、保存会では「せかいからよりあうて」と歌われている。かつてはより「寄り合ってくる人たち自身の意思」が強調された言い方になっていたわけである。

九下り目

  • 現在「二つ ふじゆうなきやうにしてやろう」と歌われている部分が、保存会では「ふじゆうなきよに」と歌われている。「不自由のないように」ではなく「不自由のない世界に」という意味である。

  • やまのなかでもあちこちと てんりわうのつとめする」は「てんりんおうのつとめする」である。なお、「おう」の部分で「仰向いて額の前に輪を描く手」をする時、各人は「かんろだいの上端」に目線を向けることが想定されている。

十下り目

  • 現在「一つ ひとのこころとゆうものは ちよとにわからんものなるぞ」と歌われている部分が、保存会では「ものなりし」と過去形で歌われている。「今まではそうだったが、これからはそうではない」という意味である。

  • 一下り目の「五つ りをふく」という箇所では、「五つ」で両手を合わせて斜め前に出し、「りをふく」で「腹の前に両指で平らに円を描く動き」の手が振られているが、この「両手を合わせて斜め前に出す手」は、もともとその角度を自分の前の「かんろだい」の左側の辺の角度に合わせて差し出すことが想定されている。そして「りをふく」の部分では「円」ではなく、目の前の「かんろだい」の六角形を「右に三十度回転させた形の六角形」を描くのである。(文字で書くと非常にややこしいが、そうすると「かんろだい」の六角形の各辺の中心を頂点にして、「新しい六角形」が花びらのように「かんろだい」の周囲に描き出される。「かんろだいの理」が六方へ、世界へと広がってゆくことをあらわした手振りである)。

「かぐらづとめ」の手振りについて

2020年8月現在、世の中の人が「かぐらづとめ」とはどういうものであるかということをインターネットを通じて知ろうと試みた場合、唯一「具体的な資料」として公開されているのは、9年前の2011年に正体不明の人がYouTubeにアップロードした上掲の「謎の動画」だけである。動画の紹介コメントにも「世界を助ける、お勤めと言われているものです」と客観的な言葉が書かれているだけで、どういう人がどういう意図をもってこの動画を公開したのかは全くわからない。

そしてこの動画には、現役の天理教信者の人々からと思われる「怒りのコメント」が多数寄せられている。いわく「異端である」。いわく「おつとめの手が違う」。確かに天理教という宗教の「オドロオドロしいイメージ」だけを掻きたてるこうした「説明抜きの公開の仕方」には、問題があると言えるだろう。とはいえ、中山みき在世時の「おみち」に立ち返るなら、「異端」であるのはむしろ現在の本部で教えている「つとめ」であるわけだし、「かぐらづとめ」の手は本部においても、一般の信者が「すわりづとめ」で振る手とは違っているのである。

櫟本分署跡保存会の方々にこの動画を見せたところ、ここで振られているのは確かに歴史に忠実に再現された「つとめの手」になっているが、どういう人たちが公開した動画なのかを特定することは難しいとのことだった。この人たちは自分たちが何者であるかを特定されるのを避けるために、自分たちが歌っているはずの地歌の音声を消して、市販されている三代目真柱歌唱の音源にすり替えている。しかしながらそうするとお手振りが歌に合わなくなるものだから、映像そのものにレコードの音飛びみたいな「無理な編集」が加えられている。出すなら堂々と出せばいいのであって、こんな形で出すべきではない。というのが保存会の方々の意見だった。

それなら保存会の方で「堂々とちゃんとした動画」を公開してみたらいいのではないですか、と提起してみたところ、「そうしたいのは山々だが、しっかりしたものを公開するにはそれなりの準備が必要なので、今すぐというわけには行かない」という返事だった。「秘密にすべきだ」というのではなく「公開すべきだ」というのが保存会の方々の原則的態度である以上、「ちゃんとした動画」はいずれ必ず公開されるものと考えている。それを紹介できれば一番話は早いわけだが、その条件がいまだ整っていない以上、極めて不充分で分かりにくい形になるとは思うが、私が教わった「かぐらづとめ」の手の振り方を「文字にして」書き留めておくことで、「目で見て確かめることのできる資料」が公開されるまでの、「つなぎ」にしておきたいと思う。検索しても上の動画しか見つからなかった今までの現状よりは、マシだろう。

とはいえ「興味本位」ではなく真剣な気持ちから中山みきという人の生き方や教えに触れたいと思っている人は、ネットの情報だけで何かを「わかったつもり」になるのではなく、直接自分の足で「櫟本分署跡保存会」を訪ねてみればいいのである。「かぐらづとめ」のことはいつでも教えてもらえるし、そうやって足を運ぶに値する場所であることは、実際に行ってみた自分自身の感想として、明記しておくことにしたい。

「ちよとはなし」の手について

  • 基本的に「すわりづとめ」と同じなのだが、「これはこのよのはじめだし」の「はじめだし」の部分では、「子どもが出てくる姿をあらわす手」として、下腹部の前で両手を下向きにパッパッと二回開く。正直な感想として、ちょっと恥ずかしい感じのする手振りだった。

「かんろだい」の手について

  • あしきをはろうて たすけせきこむ」までは、「すわりづとめ」と同じ。

  • いちれつすまして」では、「かんろだい」の下から五段目の石の線の高さに合わせて「すまして」の手を開く。そうすると「かんろだい」を囲んできれいな輪ができる。

  • かん、ろお、だい」のところで、左足から二歩下がりつつ、十人がそれぞれの担当している「理」に合わせて一斉に違った手を振る。細かく表現すると「かん」のところでは全員が「オサエの手」を振り、「ろお、だい」が各自の独自な手となる。以下、「ろお、だい」部分の手の振り方を、それぞれ①②と番号を振って、記述することにしたい。

すいき

  1. 両手の平を上に向け、頭の上まで持ち上げる。

  2. 持ち上げた両手を返し、頭の上でバスケットのシュートをするように、両の手首を前に振る。

…「雲を湧きあがらせ、雨を降らせる手」である。

ぬくみ

  1. 押さえた手を内向きに返して「平らに揃える手」

  2. 上に向けた両手の平を、「Come on」という感じで手前に振って、10本の指を立てる。

…「大地から炎が燃えあがる手」である。

つっぱり

  1. 右手で左肩の後ろに背負った「しゃち」に触れる動き。(実際には届かないので、左肩に触れるだけでいい)

  2. 「しゃち」に触れた右手を返し、対面にいる「つなぎ」の人に向けて何かを送り出すように、少し前に出す。

つなぎ

  1. 右手で左肩の後ろに背負った「亀」に触れる動き。(実際には届かないので、左肩に触れるだけでいい)

  2. 「亀」に触れた右手を返し、対面にいる「つっぱり」の人から何かを受け取るように、少し上にあげる。

…「つなぎ」と「つっぱり」は似た手になるが、「送り出す動き」と「受け取る動き」になるので、右手の上げ方が若干変わる。

飲み食い出入り

  1. 押さえた手を返して、指先を下に向け手のひらを前に向ける。

  2. 指先を下に向けたまま、手のひらを前に向けて押し出す。

…これも対面にいる「引き伸ばし」の人に向けて「受け取れ」という感じで押し出す。

引き伸ばし

  1. 両手を前に出して、ものを抱えるようにする。

  2. 抱えた両手を腹の方へ引き寄せる。

…十二下りの中に出てくる「よく」の手。これも気持ちとしては対面の人から「受け取る」感じ。

息吹き分け

  1. 両手の平を右に向け、左に向かって動かす。

  2. 左に振った手を右上に向かって回転させながら、対面の人に「風を送り出す」イメージで両手を少し前に出す。

…風の動きを表現しているため、ダイナミックな動きである。「息吹き分け」には「言葉や知恵の発達」の「理」も含まれる。

切る

  1. 両手を腹の前に出して、物をつまむ動き。

  2. つまんだ両手を左右に引いて「切る」動き。

…十二下りの中に出てくる「切る」そのままの動き。「切る理」には人間の「分離独立」も表現されている。

男五分

  • 手は「すいき」と同じだが、手が意味するところが違ってくる。すなわち対面の「女五分」の人に「子種を注ぐ」動きになる。

女五分

  • 手は「ぬくみ」と同じだが、手が意味するところが違ってくる。すなわち対面の「男五分」の人から「子種を受け取る」動きになる。




…以上、文字による表現で果たしてどこまで伝わるものなのか非常に心もとないが、「かぐらづとめ」の具体的な内容をめぐって、書くべきことは大体書き尽くせたのではないかと思う。私が個人的な立場から付け加えるべき言葉は、特にない。いろいろな人たちの参考になれば幸いである。

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