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II. 鬼がいる

仏教の創始者である「インド人の釈迦」は、「生きる苦しみ」を論理的に捉えて「人の生き方」に哲学的な解釈をして「偶像崇拝を強く否定した極端な現実主義者」で、

「中国仏教を経由して入ってきた日本の仏教」で語られるあの世の話は、釈迦の死後、信者たちが長い年月をかけて分派しながら作り上げていった偶像だって事は、もちろん知ってる。


キリスト教とイスラム教は、ざっくりといえば、ユダヤ教の分派で、

「古事記」が「日本人1000年の歴史をファンタジーで描いた歴史小説」であるのと同様に、

聖書(キリスト教で言う"旧約"聖書)も単なる空想話ではなく、古代ユダヤ人1000年分の歴史をベースに書かれた「ユダヤ教の経典」だし、

「イエス・キリストはユダヤ人」で、仏教と同様に、キリストの死後、信者たちが"新約"聖書を作って偶像崇拝をするようになり、

キリストの亡くなった600年後に誕生したイスラム教は、ユダヤ教と同様に偶像崇拝を禁止しているって流れからすると、

「その土地その土地の風土に影響を受けた人々によって解釈が変わっていくのが宗教だ」って事も知ってる。


「日本神話とギリシャ神話はよく似ている」って事からしても、

世界は僕らが想像する以上の昔から小さくて、現代と同様に影響を受け合ってきたことも知ってる。


「人間の心の奥底にある深層心理を言葉にして、表面に引っ張り出したのが宗教」ではあるんだけど、

人々の「心の奥底にある価値観」を共有するのが「文化」だから、宗教も「文化という枠の中」にある。


「心理的に譲れない価値観」だからこそ、人々を救うためにあるはずの宗教から、本来は対極にあるはずの殺し合いが起きて、

「人を助けるために人を殺す」という矛盾が、「正義」として成り立つようになる。


「宗教は文化」だから、「他人の考える価値観」の一点に目を向けてもあまり意味はないんだけど、

ウキペディアの「三途川」には鬼がいるんだよ。


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wikipedia 三途川


僕の人生最終レースの会場には鬼がいて、鬼が審判を務めている。

最終レースで失格を取られちゃったら、あっちに渡れないじゃないか。

「結果じゃない」と言っても、そりゃ困る。

先手を打たなきゃ、自分のレースをさせてもらえない。


produced by yamato bear. 2019.05.02

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