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厠グラフィティ〜三度目のPERFECT DAYS

スポーツニッポンの校閲を辞め、登山家のエヴェレスト遠征に同行して帰国したあと、まだ文章でお金をもらうことに自信が持てなかった。職を探すなかで応募したのがトイレ清掃のアルバイト。34歳。

ネットで応募すると採用担当者から電話。「高齢の方がやる仕事なので申し訳ありません」。わざわざ電話をくれて丁寧な断りだったが、必要とされていないことに落ち込んだ。そのあと会社員ライターになり、物書きとして独立した今もトイレ清掃員はまぶしい仕事だ。

映画『PERFECT DAYS』を3回観た。どれもTOHOシネマズ新宿で朝9時の回。平山の通う浅草の福ちゃんの味が毎日違うように、一つとして同じ鑑賞はない。流れる映像は同じでも体験は変わる。

この映画に答えはない。そもそも映画に正解はない。むしろ誤解することが正解だ。友人は平山と妹の関係を「あれは妹ではなく元妻だ」と言い切る。それでいいのだ。設定を捻じ曲げるくらいの気概がなければ監督や脚本家を超えられない。映画を自分のものにできない。

過去に幼い子どもを喪失した平山は、毎朝アパートで小さな草木に水をやる。過去にできなかった育児。平山は身の回りに物を置かないかわりに未練を背負う。毎朝ご近所さんが掃くホウキ、歯磨き、髭剃り、トイレ清掃、コインランドリーの洗濯、銭湯で身体を洗う。この映画はとにかく清めのシーンが多い。日々の中で人生を浄化する、漂白する、純化する。

青い作業服をまとい、青い車で仕事場に向かう平山は「蒼の時代」を生きている。青春より少しディープでほろ苦い。青よりも蒼い。タカシ曰く変人度で10のうち9。残りの1で平山は世界と接着する。

毎朝、甘いBOSSのカフェオレを飲む。ブラックコーヒーではない。そのマイルドに平山がタカシのようなダメ人間を受け入れるマイルドさが表れている。それを映画は説明しない。だからキャッチボールはできなくても心の握手ができる。

10分の銭湯、お釣りが出ないようにお金を用意周到、電話は要件を伝えてさっさと切る。せっかちな性格なのに、わざわざ古いカメラで写真を現像する。すぐに答えが出ないものを愛する。人生に答えなどいらない。だから曲の途中でカセットテープを止めるし野球中継も途中で切り上げる。多くを語らない。アヤが涙を流しても何かを諭すわけではなく、ただ話を聞いてあげる。うなずいてあげる。だからアヤも言葉ではなくキスで御礼を表現する。言葉を交わさなくとも気持ちは通じる。そんなとき、平山は笑顔になる。

昼にサンドイッチを食べるのは、木漏れ日の柔らかい光と無音を壊したくないからだ。隣で死んだ眼をして同じサンドイッチを食べるOL。互いに話しかけるわけでもない。代わりに○✖️ゲームで触れ合う。誰が対戦相手か互いに気づかないが、見えない交流を重ねている。

平山の日常は清流のように、川の流れを見つめるように見ているこっちが心穏やかになる。同じ瞬間はない。常に流れている。『PERFECT DAYS』のパーフェクトは「完璧」や「完全」ではなく「無欠」

光も影も、音も沈黙も、過去も未来も、どれも人生の中で欠けているものはない。最初から人生はパーフェクトなのだ。それを人間は生きる中で削り落とす。この映画は朝日の映像で始まり日の出で終わった。平山が見る夢の映像はモノクロ、光がない。たとえどんな影が訪れようと、日はまた昇る。遠慮がちに妹をやさしく抱擁したように、悲しみに暮れるイヴのママを抱きしめに行く。それは他でもない、平山の青春を救う旅立ちである。

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