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なんもしないことで、なにかしている。母国語を話せなくなった帰国子女のレンタル物語。


「 なんもしない人(ぼく)を貸し出します。 」


突然ですが、皆さんはレンタルなんもしない人という人物をご存知でしょうか?

名前の通り、「なんもしない」ということを生業にされているお方です。

この度は、人には言えない悩みを抱えていた帰国子女が、レンタルなんもしない人に出会って感じたことをまとめさせていただきました。


きっかけ

ある日、ぼくのタイムラインに不思議なツイートが表示されました。

おそらく、フォローしていた誰かがリツイートしたのでしょう。

何気なく目に入った内容が気になり、ぼくはレンタルなんもしない人のプロフィールへ飛びました。

彼の過去のツイートを読み返すにつれて「レンタルなんもしない人」という存在もさることながら、そのサービスに集う多種多様な人々が抱える絶妙な機微に心を動かされました。


世界で最も高い人口密度を誇る東京という街で、人知れず悩んでいる個々人の物語。

その一つ一つがどれも興味深くて、ついつい読み漁ってしまったのでした。

そして、ぼくは「レンタルなんもしない人になら、これまで誰にも打ち明けられなかった悩みを相談できる」と思い立ち、DMを送りました。


依頼内容

レンタルなんもしない人にお送りした原文をそのまま、公開します。

中学生までの日々をアメリカで過ごした自分にとっては、英語が第一言語であり、今こうして使っている日本語が第二言語でした。

それがいつしか、母国である日本に帰国してからは逆転しました。

下手くそだった日本語という第二言語の上達は楽しかったものの、第一言語として使いこなしていた英語に詰まる感覚を抱いてから、英語を使うことに苦手意識が生まれてしまいました。


「 傍から見れば、英語が苦手には思えない。 」

「 むしろ、流暢で羨ましい。 」


だからこそ、辛かった。

周囲が自分に抱く「帰国子女」や「ニューヨーカー」といったイメージ、その期待に応え続けることがしんどかった。

だから、ぼくは英語が一切分からない(つまりは自分の微妙な訛りや単語の詰まりに気が付かない)レンタルなんもしない人に一方的に話したかったのです。


当日の様子

自分のいびつな依頼(過去の依頼者たちと比べれば平凡)をご快諾いただき、ぼくらは渋谷で合流しました。

そして、約束通り、一方的に英語で語りかけようとするも、どうもスイッチが入らない。


よくよく冷静になって考えると、ぼくは今まで一度も「英語が分からない」と分かっている相手にあえて英語で話しかけたことがありません。

誤って、英語が分からない人に英語を使ってしまったことはあります。

しかし、当たり前かもしれませんが、意図的に理解されない言語でコミュニケーションを図った経験はなかったのです。


はじめの一言が出てくるまではひどく時間がかかったものの、脳みその中に響く言語が日本語から英語に切り替わってからはスラスラと言葉が溢れました。


今の仕事の話。

これから挑戦したいこと。

ずっと一人で抱えていた不安や苦悩。


真剣な眼差しで聞いてくださる、レンタルなんもしない人。

相槌の打ち方から「これは英語が通じているのではないだろうか」と思って確認するも、本当に何も理解されていないとのことでした。

そんな二人の不思議な対話から、人間の記憶に関する気付きを得ました。


気づき

心ゆくまで英語で話すことで、まずは幼少期の記憶が蘇る感覚がありました。

例えるなら、英語を使わなければ開くことのできない記憶の収納棚を、久しぶりにこじ開けたようなイメージです。

日本語には日本語に紐づく記憶の引き出しがあり、ぼくの場合は英語と日本語の二つのメモリー箪笥が存在することに気が付きました。


少しずつ英語を話さなくなることで、アメリカで暮らしていた頃の記憶が薄れる恐怖感は『千と千尋の神隠し』で主人公の千尋が「千」と名乗り続けることで自分の本当の名前を思い出せなくなるような状態にも似ているのかもしれません。

千尋が最終的に名前を取り戻し、現実世界に帰ることができたように、ぼくも英語という自分自身のアイデンティティを忘れないための努力が必要であることを痛感しました。

ぼくにとっての「ハク」は何にあたるのだろう、など想像は膨らむばかりです。


反響

そんな些細な気付きをレンタルなんもしない人がツイッターで発信したところ、たくさんの反響をいただいたので、いくつか紹介させていただきます。

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日本語という言語の中で話をするなら、方言の使い分けも近い現象を生むかと思います。

ぼく自身、関西弁と標準語を使い分けますが、そのときに思考パターンが若干変化する感覚(例えば関西弁のときはオチをつけるよう努める)はあります。

しかしながら、やはり英語と日本語といった言語の行き来は、根本的な文法や文化的背景の違いがあるため、もはや別人格と呼んでもいいレベルで脳みそが切り替わっている気がします。

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むしろ、ぼくが「国分寺駅からの交通費」「飲食代」「謝礼」を支払うことで積年の悩みを解消できたとも捉えられます。

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どれだけ人に褒められようとも、いつしか英語をわざわざ話そうとは思えなくなっていました。

ある人には「英語という武器を捨てて戦えるほど、社会は甘くない」と言われ、実際に現実はそうでした。

これまで自分を勝たせてくれていた武器を、ぼくは自ら放棄していたわけなので当たり前の結果だったのかもしれません。

それは例えるなら、せっかく手に入れた勇者の剣をあえて捨てて、道端に落ちていた木の棒で冒険に出かけるような無謀な挑戦でした。

しかし、今回の経験をきっかけに、ぼくはプライドを捨てて、もう一度きちんと英語を磨き続ける日々に戻ろうと決心しました。

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言語は、水泳に似ている気がします。

過去にどれだけ泳げたとしても、長いブランクがあると筋力も衰えて、昔ほど速やかに泳げなくなる。

でも、きちんとトレーニングを続けさえすれば、記録の維持どころか自己ベストの更新すらも夢ではない。

大切なのは、毎日の継続であることを痛感します。

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冒頭でも申し上げた通り、ぼくにとって日本語は努力で習得した第二言語であります。

英語は気がついたら話せるようになっていたことに対し、日本語は漫画やアニメ、国語辞典とにらめっこしながら学習しました。

なので、ある意味では英語を褒められるよりも、日本語を評価していただけたときの方が何倍も嬉しいです。

優しい言葉をかけていただき、誠にありがとうございます。

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お褒めの言葉をいただき、ありがたい限りではありますが、同時に「perfect English」なんてものは存在しないようにも感じています。

世界中で英語が話されるようになった今、何を「完璧」と定義するのか、特にアメリカやイギリスの英語を「良い」と高く評価する風潮には疑問があります。

英語も一つの言語であり、手段である以上、究極的には相手に気持ちや意思がきちんと伝わること。

「perfect English」はそれ以上でも、それ以下でもない気がしています。

誰しもが自信を持って、堂々と英語を話せる世界をともに実現しましょう。

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おっしゃる通り、もはや「上手い/下手」といった次元ではなく、言語ごとに個別の人格が完成している感覚が強いです。

なので、言語を失う(下手になることで話さなくなる)ことは、ぼくにとって一つの人格を殺すような感覚であり、とても切ない気持ちになります。

だからこそ、花に水をやるように、定期的に言語のメンテナンスを行うことの重要性を噛み締めている次第です。

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ぼくと同様の悩みを持っていらっしゃる方は少なからず、この世に存在しているかと存じます。

深く知らないからこそ、話せる。

過剰に気を使わなくていいからこそ、自分らしくいれる。

ふと、なにもしない誰かを求めたとき、レンタルなんもしない人が令和時代のアンパンマンのような存在になっているのかもしれません。


最後に

なんもしないことで、なにかしている。

誰かの無益が、また別の誰かの有益であるように、世界は不思議な均衡を保ちながら今日も回る。

なんてね。やで。


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追伸


「 自分にとっては当たり前のように使っていた英語が、

誰かのお役に立てるなら。 」


レンタルなんもしない人との出会いもあり、英語を使う機会を増やそうと決めました。

これまでは英語を使った仕事から距離を置いていたものの、誰かの力になれるのなら、自分の持ち合わせている武器を全力で使いまくる気でいます。

英語教育や通訳・翻訳業のみならず、幅広く(洋楽の歌い方講座やディベート番組の監修など)お仕事しておりますので、気になった方はお気軽にご連絡くださいませ。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。



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サポートいただき、誠にありがとうございます! こころ着火マンとして、これからも人々の心に火を灯せるよう邁進します。 『いつ死んでも後悔のない生き方を』 「普通」という呪縛が支配する母国・日本で奮闘する、七転び八起きの帰国子女の物語。 今後とも何卒よろしくお願いします!!