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ナイトホークスの気分

昨日の夜から、うっかりLINEのボタンを押してしまった間違い電話が4件、見ず知らずの人からの番号間違いの電話が1件かかってきた。
普段、間違い電話なんてめったにないのに、この24時間で何が起きているのだろうか。
若干の恐怖を感じながらも、まあ、こういう不思議な日ってあるよなあと思う。理屈じゃ説明できない、めぐりあわせや偶然が積み重なって、印象深い一日となる。
 


エドワードホッパーが大好きだ。
 
彼の描くアメリカの日常は、私にアメリカで過ごした数週間をつぶさに思い出させる。彼の作品を見ていると、瞬く間に当時にタイムスリップしてしまう。どんな場面を描いていたとしても、彼の絵画はアメリカにしかなりえない。例え彼が外国の風景を描いていたとしても、そこにはアメリカの空気が充満しているはずだ。
 
その感覚が好きで、アメリカの空気が吸いたい時に、彼の作品が載った本を眺める。コーンフレークと食洗器の洗剤の香りや、芝や、甘い香水のにおいを思い出す。絵画は空気の缶詰にもなるんだなあと思う。
 
ホッパーの、ナイトホークスという作品がある。深夜のバーに集う人々を、緑がかった蛍光灯の明りが照らしてる。少し顔色が悪い、疲れた人々がそれぞれの時間を過ごしている。
 
この作品が描かれたのは、アメリカに蛍光灯が普及し始めたころ。ガス灯の温もりのある明りや、ロウソクのゆらめく光ではなく、なにもかもはっきりと照らしすぎてしまう蛍光灯。
一昔前までは闇にまぎれることが許されていた、人との距離の遠さや孤独感が、つまびらかに明らかになる。深夜、このバーに集う人々は、まぎれもなく独りぼっちだ。
 
気づきたくなかった事に気付いてしまった時の、心のどこかが永遠に損なわれてしまったような感覚。そんな気分の時に、ナイトホークスの世界に入ってしまいたくなる。
少なくとも、この街角、このバーの中には私の仲間がいる。えぐられた心を隠すことなく、堂々と途方にくれることが許される場所。そんな空気の缶詰として、ナイトホークスは機能している。
 
言葉と言葉の間の、言葉になりえない部分を共感する手段の一つが、芸術なのだと思う。
1942年、深夜のアメリカのバーで、蛍光灯が照らしていたもの。それは、その時たまたまこの場所にいたという偶然性や、人との距離遠さ、わかりあえなさだろう。
それは、2023年、日本に住む私が、次から次へとかかってきた間違い電話に対応した時の気分と、きっと似ていると思う。
 
缶詰の蓋を開けて、その空気を部屋に満たしてみる。この世の中に独りぼっちだとしても、いつだって芸術作品の中には仲間がいる。それは、たまたま間違い電話を何件も呼び寄せた“念”のようなものであり、そういうものが次元を超えて人と人とを繋げることもある。作品を見ることで、そのわかりあえなさを、わかりあえたような気分になる。
 
ナイトホークスが集う場所。その時、たまたま、ふらっと行き着いた場所で、1942年の深夜のアメリカのバーと、同じ空気を吸う。
 
この作品の“気分”は、そこかしこに転がっている。

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