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旅鳥たちの芸術祭プロローグ 私は私で勝手に幸せになると決め、気づけば芸術祭を企画していた


私は両親にかわいがられ、健康で、何不自由ない子ども時代を過ごした。

絵を描いたり物語を書いたりするのが好きで、特に目立った才能がある訳では無いにも関わらず美大に進学させてもらった。楽しく刺激的な大学生活を謳歌していた。

大学入学は東日本大震災の年で、テレビで被災地のニュースを見るたびに心は痛むものの、自分の生活とはどこか遠くで起きている出来事としか認識していなかった。

あの頃の自分は幸せだった。誰かが絶望したり、悲しみのどん底にいる様子を目にしても、自分の中にその人達の気持ちを測れる物差しを持ち合わせていなかった。
私は本当の絶望も悲しみも知ることなく、ただ普通に、楽しく生きていた。

誰かの不幸など、「想像するしかできんけど…」の対象でしかなかった。オバケや魔法使いやSF映画の筋書きのような、純度100%の想像。


時は流れ、大半の人がそうであるように、私の人生にもどうしようもない悲しみが降ってくるようになった。

友人の自死、妊娠時の壮絶な悪阻、体調不良、息子が2歳半まで毎晩続いた夜泣き、離婚にまつわる諸手続きの煩雑さによる疲弊。

そう、私の体験したベスト・オブ苦しみや悲しみの殆どは、一般的には幸せな出来事としてカテゴライズされる結婚・妊娠・育児にまつわる。 

ここ最近は育児は楽しくハッピーだけど、妊娠時〜乳児期までは楽しいなんて思った事はない。(息子はちゃんと可愛かったけど、自分がハッピーではなかったという意味)もう二度と経験したくない出来事の1つだ。

結婚は死ぬまでにあと一度位はしたいけど、本当に死ぬ直前で良いかなとも思う。三日前とか。


オンナでありハハオヤがこんな事言ったらダメかも…と自分を責めた時期も(ちょっとだけ)あった。だけど、体調をガタンと崩した事で人の痛みがより深く想像できるようになり、結婚・子ども=幸せという知らず知らずのうちにすり込まれた価値観はガラリと変化した。

結婚してようがしてなかろうが、離婚しようがしまいが、自分の子どもに出会えたか、子どもの人数、性別、うんぬん、関係なく、ハッピーな人はハッピーで、逆も然り、なのである。


どうせなら幸せな人生をおくりたい。

キャリアは積めなかったものの、私生活の面では沢山の経験をした私は、「私は私で勝手に幸せになる」と、腹をくくった。そのために、私の生活には芸術が必要だと再認識した。

ただ、好きなのだ。

作品を作ること、作品をみること、作家と話すこと、作品をみるために各地を旅することが。

美大を出ていても作品を作り続けていた訳ではなく、芸術関係の仕事をしている訳ではなく、ただ、好きなだけ。なんのキャリアも肩書きもない。ここまで書いて、よく芸術祭を企画しようと思ったな…と、我ながら思うけど、いやもう、それなら自分でやりますよ!!と思ったきっかけについて書きたい。



子連れで現代アートを見に行く事は、地方都市において本当に難しい。

私はコンセプチュアルな現代アートが好きなのだけど、そういった作品及び展覧会は「一般ウケ」する部類ではない場合が多い。「一般ウケ」する展覧会はわりと子どもを連れて行きやすい。「一般ウケ」する展覧会の例として、ここでは昨年末〜今年にかけて富山県美術館で開催された「金曜ロードショーとジブリ展」をあげてみる。


普段から息子と一緒に展覧会を見に行く。

息子にアートを学ばせてやろうと思って連れて行く訳では無く、ただ単に私がみたいからであり、いつも息子にはお付き合いいただいている。

なんせ簡単に息子を預ける先もなく、スーパーや銀行に用事を済ませるために子連れで行くのと同じ感覚で、私が幸せになるという用事を済ませるために美術館やギャラリーに向かう。


さて、子連れで文化施設へ行くと、何故か親が子どもの教養を育てるために連れてきた、という認識をされる事が多い。

私がアートをみにきたのに、「ああ、あのお母さんはよくわからず子ども向けじゃないとこに来ちゃって、大変そうだな」みたいなテイで接して下さるので、「富山県美術館でジブリ展とかやってますよ」とか、「もうすぐジブリ展やりますので是非!」とか、一時期どこに行ってもジブリ展ばかりオススメされていた。

子連れで行くだけで、どうやらニワカだと思われとるぞ…と実感する事も多い。そりゃプロに比べたらニワカだけれども。いや、私はニワカなのか??そもそもアートにおいては、作品をみたいならば、好きならば、みんなガチ勢なのでは…?と、思う。鑑賞者それぞれの感受性が気鋭のアーティストに劣っているなんてことは、ある訳がなかろう。


「子どもが小さいうちは展示なんかみれない」と、会場のスタッフに言われた事もある。

いや、本当に、行く先々で迷惑ばかりかけて申し訳ないですけれども………え?


美術館やギャラリー側の、「この展示にはこういう人が来てほしい」という想定から、息子を連れているだけで外れてしまう不思議。コアな展示になればなるほど、子連れの私は招かれざる客となる。(子連れどころか、コアになればなるほどアート関係者以外は立ち入りしにくくなりません?受付で、「どこの誰ですか?」と確認された時、なんて答えれば良いのか未だによくわからない。私は私だが?)


もちろん、会場に迷惑をかけてはいけないし、息子の負担も考慮し、事前に明らかに子連れでは無理だと判明している場合は、息子は連れて行かない。(広島現代美術館のアルフレド・ジャー展は、戦争や社会問題がテーマで会場が暗そうなので、息子は連れて行かなかった。案の定、会場はお化け屋敷並みに暗く、本当に素晴らしい展覧会だった。子を連れて行きやすい=素晴らしい展示だ、というわけではない)


息子が騒げばなるべくサッと立ち去るし、作品を触りそうになれば注意する。が、うまくいかない時も多く、そのうまくいかなかった時に誰にも迷惑をかけていなかったのかと振り返れば、そうとは言い難い。とにかく様々な展覧会に足を運び、その場を経験してみないとわからない事が沢山ある。

「どうしても作品がみたい。自分の子どもが人様に迷惑をかけていようが私は作品がみたい」というのは子どもを連れた側のエゴだが、それは子どもを連れた側が気をつけるべきマナーであり、「子どもを連れた人は作品をみれない」と展覧会側が端からシャットアウトしてしまうのはちゃうくないですか?と思う。


私に必要なのは、息子を連れて現代アートを見にいく時間であり、誰からもシャットアウトされない状態で失敗できる環境であり、他の子ども連れの鑑賞者がどのように作品を楽しんでいるのかを知る事ができる場所だった。 

だって、やっぱり、大変だし一人になりたいときもあるけど、息子と一緒にアートをみるのは楽しいから。



昨年の秋、奥能登国際芸術祭に息子と2人で見に行った。「スズシアターミュージアム」という会場に入った。そこは、「さいはての朗読劇」という朗読劇のための舞台セットが幾人ものアーティストの作品を織り交ぜて組まれており、朗読劇上演時以外は見学できるようになっていた。


「小さなお子様をお連れの方は手を繋いでお入り下さい」というアナウンスのもと、会場に入る。途中までしっかり繋いでいた手も、気づけば離してしまっていた。完璧に動きを封じるほうが子どもは暴れる場合があり、ある程度自由にさせつつ目の端で気を配り、ワルさをしようものなら注意する。集中して作品をみるとはほど遠いものの、根性でみる。心の目でみる。


「お母さん!泡がある!」と、息子が叫ぶ声がした。周りにいた人たちも、何事かと振り返る。息子は、数分前の朗読劇で舞台効果として噴射されたのであろうシャボン玉の塊が、会場の隅にこびりついていたのを発見していたのだ。それは子どもの背丈じゃないと発見できない位置にあり、息子がその事実を叫ばなければ、その場にいた人たちは朗読劇の効果にシャボン玉が使われているのであろうことを、知る事ができなかった。


子どもがウロチョロせずに、何かを感じたり発見したときに大声を出さない、というのは、誰にも迷惑かけないマナー通りの行動ではある。しかし、ほんの少しのウロチョロとほんの少しの大声が、新しい何かに気づくきっかけにもなる。私はその息子の行動を見守りながらも受け入れてくださった会場スタッフの方々や他の鑑賞者の方々に、感謝の気持ちでいっぱいだった。

寛容さはアートを鑑賞する上でプラスにしかならない。そして、寛容であるというのは、何もかも許すという意味ではない。



ここまではアートを鑑賞したい親の目線でしか書いていないけれど、肝心の息子の気持ちはどうだろう。


息子が美術館及び展覧会を楽しんでいるのかと聞かれたら、否、である。

息子は外遊びが好きで、絵本やお絵描きにさほど興味がない。つまり、彼をその場に連れていくだけで私のエゴは発生している。息子はさほど興味がない展覧会に、恐らく郵便局や銀行に連れていかれているような感覚でついてきてくれている。


それでも、私は展覧会に連れていく事は彼のプラスになると信じている。それは、あたり一面にアート作品=「わからないモノ」がある場に居ても、自分はその場から拒まれている訳では無い、という経験を積めるからだ。


以前、高校で非常勤講師をしていた時に、「美術館が1番つまらない」と言っていた生徒がいた。何故なのか聞いてみると、「作品を見てもわからないし、わからない自分が居て良い場所じゃない気がする」と言っていた。


そのやりとりを思い出す度に、「いや、私だってわからんよ??」と思う。そもそもアートはわからないものだよ??


学校で「美術館に行きましょう」という課題が出たとして、たいていの場合は「印象に残った作品の感想を書きましょう」というのがセットでついてくる。


課題だから何かしら書かないといけない。わからないものについて何行も書くのは本当に大変なことだ。書けない自分は、その場にいることが許されていない気がする…。という負のループがうまれてしまっているような気がしてならない。


学校の課題だから行かないといけない、という前から、「アートの展覧会には誰にとってもわからないものがある」という認識があったほうが、子どもにとって気楽で良いんじゃないかと思う。

というか私は、「わからなくて良い」を全肯定してくれる場所を、アートの展覧会以外に知らない。


世の中にはわからないものがありすぎる。わからないものだらけの世の中で、一人一人が勝手に幸せになるしかない。

そもそも、幸せってなに?私にはわからない。わからないものについて何行も書くのは辛い。だから別に、「わからんよね〜笑」くらいの軽さで良い。


わからないものをわからないまま受け入れる事は、自分のありのままを受け入れる事につながると思う。私はそのために展覧会に行くし、息子も連れていくし、様々な人と一緒に作品をみたいと思う。


気づけば、誰も拒まない事を前提した現代アートの芸術祭を企画していた。私が勝手に幸せになるために、最高の芸術祭にしようと思う。


※誰も拒まないと書きましたが、この度の芸術祭は会場の都合上どうしても車椅子の方はみていただく事が難しいです。映画の上映と作品の展示を同時に行える場所が、古い木造校舎である旧小羽小学校しか見つけられませんでした。スタッフ総出でお手伝いしても、一階までしかお入りいただく事が難しいですし、教室の戸口も狭いため中に入っていただく事は困難です。本当に申し訳ございません。

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