倫理学を学ぶ意義

倫理学とは、人々の行動の道徳的基準や道徳的評価を理解し説明する哲学に類する学問である。具体的には、善い悪いの違いについて、幸せか不幸か、ジェンダー、愛について、究極は人間そのものの優劣についてなどを哲学的観点から議論する。いわば、哲学の根幹を担う重要な学問なのである。

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倫理学の歴史は古代ギリシア時代にさかのぼる。一説には、ソクラテス以前の自然哲学や論理哲学なども倫理学に含まれると唱える者もいるが、倫理学を大成、確立したのはソクラテス、プラトン、アリストテレスの3人であった。
ソクラテスは、問答法を駆使して徳の探求や「善いとは何か?」という疑問を解明、提唱し続け、刑死する最後まで「善く生きる」を第一に人生を送った。
対するプラトンはイデア論を通して、「善のイデア」という概念を探求していた。最終的には、哲人王論などで実際の国家統治にも善の倫理を実践することを説いた。
アリストテレスの段階になって、倫理学という概念の根幹は確立されることになる。人間にとっての最高の幸福である「最高善」を目的として理性を働かせ活動していく。このような基礎を目的論、幸福主義の観点から築いていく。この理論は、今の倫理学の流れにも十分に反映されている問題である。
中近世の倫理学は、よりキリスト教の世界観を重視した倫理学を展開し、宗教改革以後はキリスト教とは理念が離れていった。例としては、カントの義務論やベンサムやジョン・ステュアート・ミルの功利主義などが挙げられる。これらは、高校の倫理あるいは倫理政経の授業を聞いたことがある人であれば一度は耳にしたことがあるだろう。
近現代においては、ジョン・デューイがプラグマティズムと呼ばれる新しい理論を展開し、ニーチェやハイデガー、ジャン=ポール・サルトルなどは実存主義という実際に現実に存在するもので理論を展開していくという新たな思想も発達した。この頃になれば、倫理学は哲学全般を表すものから、独自の学問へとシフトしていくことになる。

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 さて、倫理学というのはさまざまな道徳的規準や道徳的評価を学術的に研究する学問であるが、具体的にどのような学問なのかを順序立てて見ていくことにする。
 まず、「善いとは何か?悪いとは何か?」についてであるが、これは、前述のとおり倫理学では初期のころから議論されていた問題である。
 善いという概念は、ある一点から見てその事象が望ましいと思われるという事である。また、悪いという概念はその逆で、ある一点から見てその事象が望ましくないと思われる事である。
 ただ、それがある一方の主観であるか、または客観的であるかによってその意味は大きく変わることだろう。特に後者は、道徳的善さと呼ばれることがある。
 もしそれが前者のような主観だとすると、善いという概念の基準は自分自身の中にあり、それを感じる自分だけが善いと感じるだけでよいのだから、これは簡単な問題である。
 だが、後者のような道徳的善さと呼ばれる善さであれば、これは非常に難解である。なぜなら、道徳的善さの基準はその善悪を判断する人の主観あるいは、その人が所属する共同体のしきたりや慣習によって簡単に左右されてしまうからである。
 具体例を挙げるとすると、こういうことが挙げられる。
古代から近世にかけて、一部の国家の人間は奴隷という者を所有することを許されていた。これは、侵略戦争の敗戦国や、領土拡大の際の先住民族、あるいは植民地支配の被支配地域の住民など多種多様であるが、彼らは支配者によって捕まえられ、体型や身体つき、労働効率などによって価格がふられ、通勤ラッシュの埼京線のごとく乱雑に船に押し込められ本国に輸送される。そして本国で労働力として富裕層に売買され、購入される。そして購入した主人のもとで強制労働を強いられ死んでいくのであった。現代においては考えられないような非人道的な行為も一つも悪びれずに平気で行なっていたのであった。だが、これは当時の支配者にとってみれば当然の行為であり、奴隷貿易は彼らにとっては立派な商売だったのである。もちろん法によって禁止されているわけでもない。
今の日本国憲法第18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」と記されている。また国連の世界人権宣言第4条には「何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。」と書かれている。つまり、現代のわれわれが住む世界のしきたりや慣習においてこの奴隷制という制度は禁止され、忌避されている。つまり「奴隷制=悪」という等式が成り立っているのであるが、以前の世界では、「奴隷制=善いこと」という風に価値観に差異ができてしまっているのである。
まとめると、奴隷制を悪いことと善いことを区別するには、奴隷制だけを見て判断することは不可能であり、今の世の中の価値観や法などを見極めたうえで判断するしか方法がないのである。
ここまで言うと、「人を苦しめて強制労働を強いているのに、それでも悪ではないのか」という疑問が浮かぶかもしれない。だが、それを善だと見なす人々もいるかもしれないことは事実である。奴隷が自ら進んで労働を行なっていたとしても、第三者からの目線であれば強制労働にしか見えないときがあるかもしれないからである。

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 ジェンダーについての議論も現代の倫理学においては言及しなければならない問題である。ジェンダーというのは、社会的文化的性別のことであり、生物的性別であるセックスとは区別される。このジェンダーという言葉も、実は最近になってから定義された言葉である。
 ではなぜジェンダーという言葉が生まれたのか、それは第二次世界大戦が終わり、本格的に女性が社会に参画できるようになったことがきっかけである。
 それ以前は、工場などで労働者として働くのは男性がメインであり、女性は家で育児や家事などの家庭生活を営むというのが普通であった。だが、第二次世界大戦以後、世界では女性も労働者として仕事をし共働きをするという生活スタイルに徐々に移行していった。日本では、高度経済成長のためもあってか女性の社会進出は世界と比べて遅い傾向にあったが、それでも1980年代後半から、男女雇用機会均等法が制定されたのをきっかけに徐々に増えていった。だが、それに伴って発生していったのが、このジェンダーについての議論である。
 世界的に近世近代においては男尊女卑の傾向が強かった。この女性の社会進出にともなって、各国の法律上は男尊女卑を解消し、男女平等に社会に出て職に就けるようなシステム作りを行なってきた。だが、職場においては女性に対してハラスメントといった差別的発言や、管理職などの要職に就けないと言ったような差別がごく最近まで続いていたのは事実である。
 なぜ男尊女卑の傾向が強かったのかというと、やはりこれは先ほどの社会の変遷の中に答えはある。工場などで労働者として働くのは男性がメインであり、女性は家で育児や家事などの家庭生活を営むというもともとの社会システムがこの問題に大きく影響している。
 「女性であるから家庭にいるべき」「男性であるから社会に出て仕事をするべき」こういった「~べき」などといった性別による社会的規範がこの社会システムのおかげで知らず知らずのうちに成り立ってしまったのである。
 ここまで来れば、もはや倫理学ではなくジェンダー論のように感じてしまうかもしれないが、「~であるから~すべき」「~であるから~すべからず」という規範や理論は、自然主義的誤謬と呼ばれるありがちな誤りなのである。
 「女性であるから家庭にいるべき」という規範は、男性よりも女性のほうが家事育児の能力があるからこのような規範になっているとおおむね推測される。であれば、もともと家事育児の能力が女性のほうが秀でているのであれば、自主性主体性に応じて個人の裁量の下で家事育児をするという選択をすればいいわけで、わざわざ「女性であるから家庭にいるべき」などという規範を作る必要は全くないのである。逆も同様である。
 「男性であるから~すべき」「女性であるから~すべからず」というのは、規範的なことであり、それは社会を形成する上では無意味でしかないし、それも立場によっては促すような規範であったとしても、もう一方の立場の上では抑圧でしかないこともある。それはただの差別であり、やはりその解決には倫理学の議論は必要になってくるだろう。

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 以上のように、倫理学とは何であってどのような変遷をもって定義され、どのような問題が倫理学と呼べるのかについて列挙してきたが、この倫理学という学問を学ぶにはどこにその意義があるのだろうか。
 私はずばり、倫理学は社会道徳を理解することにその意義が存在すると考える。
 小学校や中学校において、道徳教育という名前の授業が存在する。教科の名前でいえば道徳である。その道徳において、さまざまな社会の問題や善悪の問題、道徳的に疑問に感じる問題などを取り上げる際に、倫理学の概念があることによってその議論はより踏み込んだものになっていくのではないかと私は考える。
 倫理学とは道徳哲学であり、社会における規範や善悪についてを議論する学問であることは前から述べた通りではあるが、ただ道徳を学ぶのと徹底的に違うところは、哲学者の考え方を交えて議論しているという点である。これは、倫理学を学ぶ上ではなくてはならない要素ではあるが、道徳においては、まだそのような先人たちによる解釈を交えながら学んでいくというレベルにまでは至っていない。であるとするならば、大学などで倫理学を学んでみるなど、いままで哲学など一つも触れたことがない人でも一度でも構わないので倫理学を学んでみるのはとても有意義なことなのではないだろうかと私は考える。
 終わりに、倫理学は人間が社会生活を営む上では切っても切り離せない存在であることには変わりはない。今後も私は、この倫理学について様々な議論をしていきたい。


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