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高祖父と兄の話(調査結果)

先祖調べで、判明している最古の方は宮大工であったようです。
実際に総本家には、宮大工の仕事関係の古文書や古道具一式が残されています。ですから、紛うこと無い事実です。
そして、そのお宅と、我が家が血縁である証明は菩提寺の過去帳で確認できました。結果、99%血縁は証明されています。

さて、話は過去に飛びますが・・・。
コロナ渦の家から出られない時間を国立国会図書館デジタルコレクションや、静岡県立図書館のふじのくにアーカイブで先祖調べで潰しました。

事前情報として、亡祖父の話では「我が家は、小島藩の武士であった」
ということでした。宮大工と、武士。
どこでどう繋がるのか、謎が深まるばかりでした。
そんな中、少しずつ紐解いて分かった事実を、今回は書いて見ようと思います。書き散らしに近いですが、どうぞお付き合いください。

まずは、簡易家系図を載せてみましょう。
もう、古い方ばかりですので。ここまでなら誰にも怒られないと思います。

簡易家系図

私がパワポで作った資料を、一部切り取った物です。
私の高祖父は、安右衛門といい武士の端くれだったようです。
二男坊で、江戸末期生まれ。

後継ぎ長男、常吉。
調べを始めた当初は、職業不明。子供2人まで判明。
明治19年式戸籍の戸主は、当然ながら常吉でした。

明治19年の本籍は、先祖代々暮らしてきた土地の番地でした。
戸籍取得時は、知識が不足しており。
戸籍に記載された家族が、全員ここで暮らしていると思っていました。

しかし、明治31年式変わった途端。
突然、安右衛門が戸主になっているのです。

さすがに、これは変だろう。
そう感じたのは、かなり時間が経過してからです。
市役所の担当者の方も、見落としたのでしょうか。

取得済の明治19年戸籍の事項欄に小筆のくずし文字で書かれた一文がありました(下の画像を参照ください)。
今は、この程度のくずし文字はスラスラ読めますが。当時は、まだ慣れておらず、くずし文字でかなり苦労しました。
これは、明治32年2月8日に常吉が本籍地を移した(転籍)したことが記載されています。

1枚目の明治19年式戸籍

しかし、弟の安右衛門が分家した記載はありません。
常吉はどこに行ったのでしょうか。

忽然と消えた常吉の行方を知るために、市役所に中抜け戸籍を出して貰いました。すると、転籍後に二男・安右衛門が分家している事が判明しました。
しかも、常吉家族のみ残し、親兄弟総てが安右衛門に伴われて再度転籍しているのです。常吉が転籍してから、たった数ヶ月の出来事でした。

ここで、私は常吉が本籍地とした住所を調べて見ることにしました。
県立図書館に、デジタルアーカイブが設置されており。
古地図を見る事が出来ました。
その、古地図を調べて見ると移籍よりずっと前から常吉夫婦は”新しく本籍地にした住所”に住んでいたことが判明しました。

先祖調べをされる方が初期に嵌まるのは、本籍地と現住所の違いです。
律儀で移転の度に本籍地を変える人も一定数居ますが。基本的に、ここに骨を埋めても良いと思える場所が見つかるまで人は本籍地そのままにするようです。

要するに、常吉は山の中の実家から、経済の中心である土地に家族で移転してきて。ここで、成功したと思えたのだろうと私には読み取れました。

しかし、田舎の家族には相談せずに本籍地を動かしたのでしょう。
それが、何かのタイミングで見つかり大揉めしたとしか思えません。
「先祖代々の土地を捨てるなんて!何たることか!!」
揉めた上に、二男を戸主に立て。
長男夫婦と子供のみ残し、元の本籍地に戻っていったのでしょう。

その証拠というのも何ですが、常吉は弟・安右衛門が分家した後。
隠居年齢にも達していなかったのに、隠居申請を裁判所に出し。
まだ成人していない息子に戸主を譲り隠居してしまいました。

この常吉、古地図に実は職業が書かれており。
「木挽き職」であることが分かりました。

宮大工の先祖を持ち、同じカテゴリーの職業とは言い、なぜ木挽きなのかと不思議に私は思いました。
そこで、宮大工について調べた所。
下記の様な職業事情が出てきました。
(地図の一番左に、宮城常吉とあります)

宮大工というのは、釘1つ使わず建物を木を組む形で建築していく。
その関係で、木材も厳選する必要があり。木の節目や、木目なども重要であり。自ら木材を調達する必要があり、一連の職業集団を形成していた。

というのです。ということは、総本家は宮大工。分家は、木こり(木挽き)などという形で、親戚一同で職業集団を形成して仕事をしていたのでしょう。実際に、この後調べを進めた所。
藩のお抱えの大工集団で、江戸藩邸の修善も担い。藩が消滅するまでは、職業集団で1つの集落の様に住居地を決めて集まって暮らしていたとのこと。
※これは高齢者が、口伝として伝え聞いていた話です※

木挽きとは、こういう仕事をする方です。

色々と調べていく内に、藩のお抱えであったことが分かりました。
結果、幕末に藩が無くなったことで仕事が無くなり。
経済の中心地にある職人街に居を構えて仕事をするようになったのでしょう。近くに大きな神社があり。明治初期に、大改築したという情報もあります。その改築に合わせて、仕事を得る為に移転した可能性も推測されます。

ここで、話を戻します。
長男が木挽きなら、二男の安右衛門がどうして武士だったのか。
そんな疑問が残ります。

様々な角度から調べた所。
ここの藩、激貧だったらしく。
上・中級武士が登城する際に体裁を整える為の従者も用意でき無いレベルだったそうです。従者が用意出来ない理由は、藩から支払われるお給金が少なかったのが理由だったとか。藩主が財政に困り、年貢を上げたことで一揆が起きたり。借金を重ねて、かなりトラブルが起きたという話も残っています。そこで困った藩士達は、藩内の農家から「名字帯刀を認める、かつ土地(10a=300坪)を与える」ことを条件に従者を募ったようです。

現在に生きる我々は、どれがどの程度の待遇なのかは分かりません。
しかし、従者を本来の武士の家系から募ると上記の様な条件では雇う事はできなかったと言う事らしいです。

募集当時は(宝暦年間の様です)一代限りの条件だったはずが、従者のなり手が無かったようで。代々従者として登用される家も出て来て。士農工商の秩序が云々、危ぶまれていたそうです。郷土史にはそう書かれていました。

多分、安右衛門はこの条件で登用された武士で、藩士宅の使用人という立場で陪臣であっただろうと考えられるのです。

そこまで分かった状態で、古老が子供の頃に聞いた話が事実を裏付けしてくれました。
「我が家のご先祖様は、藩士の〇〇さんに、仕えていたらしい」
という証言が得られました。
〇〇さんは、藩の分限帳にお名前があるので、確実に存在した方です。
そんなことから、辻褄は十分合っている様です。

ですから、宮大工の家系で長男が木挽きをしており。
二男坊は武士登用、土地を与えられ。
武士に登用された際にいただいた土地を、家族が茶畑として耕して暮らしていた。と考えるに至りました。代々登用されているのならば、300坪が何区画もあるとすれば「明治初期は人を雇って、茶農家をしていた」という事実も裏付けられる気がするのです。
※これも高齢者の記憶からの導きです※

このことから、宮大工の家系なのに、家族は木挽きを職業とし。弟が武士という、謎なねじれは解消されました。

しかし、二男宅の子孫である私。
何も、先祖代々の古文書等の資料は持ち合わせていません。

もしかして、長男宅が古文書や先祖代々の品を持っているのでは無いだろうか?と思い。長男宅の子孫を探すという行動に出ました。

しかし、既に120年以上前の話。
自分の先祖でも、120年以上前の方の名前なんて先祖調べをしていなければ私自身も知らなかった筈ですし。
これは無理だろうな、と思いながら調査に入りました。

この頃、我が家関係で長老に聞いた話で
「鐵五郎さんているだろ、あの人はドラマ三人の母のモデルだよ」という証言がありました。
彼曰く「あの有名な」とか「ヒットドラマの」と言うのですが。
世代が違う私は、私は全く分かりませんでした。

しかし、ウィキペディア先生に伺った所”三人の母”というのは、TBSのポーラテレビ小説というカテゴリーで放映されたドラマだった事が判明。1968年から放送されたようです。

この三人の母は、有名な書道家沖 六鵬の自伝的小説ということで。あとがきを読むと、総てが実話であり実名で書かせて貰っており。知っている方は笑うのでは、と言う様な意味合いの言葉があったような記憶があります。

この、三人の母には、高祖父の兄の子・鐵五郎氏と、その妻子(簡易家系図参照)が出て来ます。読んでみると、目の前で家族が生活している様な錯覚を起こす内容でした。個人的には、狂喜乱舞しました。

古老が話していた「常吉さんは、下部に行っちまったんだ」という話も、この小説の中で立証されました。鐵五郎氏が、山仕事で足の骨を折る大けがをした時、山梨の温泉から温泉水を取り寄せて治療をした。
そんな記述があるのです。

父親である常吉さんは温泉旅館で働いていたという話ですから。息子が怪我をしたと聞き、勤めていた温泉宿から温泉の源泉を息子宅に送り届けたのでしょう。

私の持っている戸籍ではまだ未成年だった鐵五郎さん。
当然ですが、戸籍には子供どころか嫁様もいませんでした。

しかし、小説の中では嫁様と子供が3人。
妻子の名前も出て来ており、無事家系図に書き加える事が出来ました。

残念なのが、末の息子さん。名前の記述が無い。

実は、私の知っている親戚の名前で、お一人だけ名前が分からない方がおり。ネーミングのセンスから考えると、その方が鐵五郎氏の末っ子の可能性が大なのです。

実はこの方、私自身もチラッとお会いしたことが有る方です。
祖父より、15歳くらい年上。
足を引きずって杖をつき。
仕事で足を悪くしたと笑って居たような記憶があります。
「オヤジと一緒」と足の事も話されていました。

この仕事は難儀だよ、と祖父に笑って話していました。そう考えると、高確率で鐵五郎宅の末っ子なのでしょう。祖父と、彼とはハトコになるはず。

こうやって、ジグソーパズルを繋げていくと先祖の生きざまが浮かび上がる。これが先祖調べの醍醐味のような様な気がしています。

先祖調べは、分家してしまうと途端に傍系の姿が見えなくなります。
その戸籍で調べが付かないお宅が、本家筋であれば余計に悩む事になる。

しかしながら、一般庶民であっても。
こうやって、有名な方とのご縁があればですが・・・。
当時の話を、掘り起こせる事も有るようです。

そんなこんなで、不思議な体験をしたと言うお話でした。
皆様の先祖調べの一助となれば嬉しいです。
高祖父と兄のお話でした。