竜と金翅鳥
竜族は大海の底や無熱池に棲んでいる。ヒマラヤ山脈の頂上にあるとされる無熱池に棲める竜はわずかで、大抵は大海に住んでいた。それらの竜は、無熱池の竜を羨ましがっていた。何故なら大海の竜は、ある耐えられない苦に苛まれていたからである。
人間からみれば竜は大きく強いが、それよりさらに大きい金翅鳥の餌食になっていたのである。この苦患は竜が受ける三患のうちの一つとされている。
さて金翅鳥であるが、迦楼羅、ガルーダとも呼ばれ、古代インドの伝説上の巨鳥である。もともと邪神であったが、仏教に取り込まれて八部衆の一つとなり、護法神ともなった。胴体は人間のそれで、火炎状の巨大な黄金の翼をもつ。主食は竜である。その翼を広げた大きさは、360万里というから途方もない。この場合の一里を四百メートルとすると、134.4万キロメートルである。無論実際の距離など、あまり意味はないのだが。
その大きな羽を羽ばたかせ、大海を扇ぎ干し、底に潜む竜を捕らえては、啄み食うのである。特に竜の子を好んだ。
当然ながら、竜としては耐えられない。ある日、ついに釈尊の御許へと出向いた。人の姿にでも変化して行ったのだろうか。
竜は愁いに満ちた表情で尋ねた。
「何とかして、この苦しみから逃れる法はないものでしょうか?」
これに対し釈尊は、その顔ばせに慈愛を湛えながら、
「比丘が身に着けている袈裟というものがあります。その片隅の裂を取って、あなた方の身体に付けておきなさい。そうすれば、難を免れることができるでしょう」
と答えてやった。
竜はさっそく大海の底に秘蔵する七宝を布施し、比丘の袈裟を貰い受けた。ちなみに比丘とは、戒を受けて仏門に入った男の修行者をいう。
竜は、袈裟を細かく四角の裂に割くと、子どもに付けてやり、自らにも付けた。そして仲間の竜たちにも。
その日も相変わらず金翅鳥はやってきた。
いつもと変わらず羽ばたいている。羽で海面を打ち叩くようにすると、たちまち海水が二つに割れて空高く舞い上がり、海底が露出した。
海底では竜たちが少しでも体を隠して難を逃れようと必死でうごめいている。いつもならそのうちの一匹に狙いを付け、ひょいと捕まえては自分の巣へ戻っていくのである。
ところが今日は、誰も連れていくことができなかった。金翅鳥はいつまでも羽ばたいたままである。
やがて疲れたのか、そのまま手ぶらというか、無収穫で帰っていった。
どうやら袈裟の効験で、金翅鳥からは竜が見えないようである。
その金翅鳥の巣というのは須弥山にあり、その崖に巣を作って子を育んでいた。
いつもは胃の中から半分消化した竜の肉片を出して子にやるのだが、今日はそれができない。
ところで、須弥山というのは、仏教的世界観で宇宙の中核をなす巨大な山で、金輪を基盤として高さ十六万八千由旬、半ばが海面下にある。山頂には帝釈天が住む忉利天、中腹には四天王が住む四王天があり、日月が周遊する。
十六万八千由旬とは、仮に一由旬を七キロメートルとすると、117・6万キロメートルだから、こちらも途方もない。ただその山に、羽を広げると134・4万キロメートルの金翅鳥が巣を作って棲めるのか、という問題点もあるのだが。
ともかく途方もなく大きな山に、これまた途方もない大きさの金翅鳥が雛を養っているということである。巣の位置は海面上四万由旬であるという。
また須弥山の住人で阿修羅という者もいた。その阿修羅というのは、金翅鳥の子を主食にしており、須弥山を揺すっては、巣にいる雛たちを振るい落としていた。
阿修羅は帝釈天の妻である舎脂夫人の父とされるが、須弥山を揺すって動かすことができるというのだから、その大きさや力強さは想像もできない。
子どもを産んでも産んでも、養育の途中で阿修羅に食べられてしまうのである。嘆いた金翅鳥は先の竜と同様、釈尊の御許に出向いた。
「海際の阿修羅に我が子を食べられてしまいます。どうすればこの難を逃れられましょうか。釈尊、お願いですからお教えください」
そこには、必死に子を思う金翅鳥がいた。釈尊は、これまた慈愛の眼差しで、
「世間では、人が死んで七七日に当たる日に仏事を修すことになっています。その際、比丘は、供養を受けると呪願して施食を取る習わしです。その施食の飯を貰い受け、須弥山の片隅に置けば、必ず難を逃れるでしょう」
と教えてやった。
喜んだ金翅鳥は、自らの黄金の羽を幾本か抜き取り、それを布施として施食の飯を貰い受けた。
そして急ぎ須弥山に戻ると、釈尊の教え通り、その片隅にそれを置いた。
間もなく阿修羅は、いつものように大力で須弥山を揺すり始めた。ところが今日はびくともしない。必死の形相で幾度も揺すり続けたが、塵一つとして動かなかった。
やがて力尽きた阿修羅は、すごすごとその棲処である谷間へと帰っていったということだ。
その後、金翅鳥は阿修羅から子を奪われずに、平安に育んだということである。
竜が子を思う気持ち、また金翅鳥が子を思う気持ちは、我々人間が、その子を思う気持ちと何ら変わらない。
竜を食べられなくなった金翅鳥や、金翅鳥を食べられなくなった阿修羅が、その後何を糧としたかまでは、よくわかっていないのである。
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