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「推し」

熱量の大きいファンであることなどを表す「推し」、「推す」という語彙に付いての主観と私見の陳列をしよう。

所謂Vtuberと俗称されるカテゴリのエンタテイメントを周囲するコミュニティでは、文化発祥の前提文脈に由来してか自らのファンシップ発揮行動を名称するにおいて、「推し」という語彙を使用する方向が可成り主要の位置を占めているように見受けられる。

俺個人はこのカテゴリの勃興以前よりオルタナティブロックミュージックや文庫本小説、サイクリングなどを愛好し、その実地行事に数度参加したことがあるという境界条件を持つ。そしてそのようなコンテンツを享受する際の様式をある程度VTuberコンテンツの鑑賞にも適応している。

俺個人が現在行っているようなコンテンツの享受行動を「推し」等と命名することが柔軟な行動選択の可能性や精神的な姿勢などの点で然程俺自身を利益することはないであろうという推量をしたのであった。
また、「オタク」というファンシップ発現のプラットフォーム乃至パッケージと、俺自身の感性との相性があまりにも良くないと感じられた。

俺の主観的な観察では享楽行動を「推す」という語彙に設定した際に、ある種の敬虔さや求道的な規範を設けているように見受けられる人間が多数いた。それは良し悪しではなく、俺が楽しさを出来るだけ感じられるようなやり方とは些か遠いような気がしたのである。

俺個人という或る一つの場合については、その語彙の使用によって獲得できる達成に比して感得される主観的な束縛感が寛容できる程度を超えて大きいように見受けられた。勿論この語彙によってもフレームワーク性を然程感じず、高い自由度を謳歌しながらファン活動を行える者も多数いるだろう。

一般の場合においては、電気街的カルチャーに関連する行事への参加を好む意味合での「オタク」を自称し、愛好行動を「推し」と名称し、その語彙に周辺する行動の様式を実践することが、それに固有の精神的達成を齎し、そこでしかありえない熱量を実現することが出来ることは想像がつくし、もしかしたらそういう種類の人間が多数派なのかもしれない。
対して俺の場合はその達成と熱量を賞味するために支払う心理的費用が過度に高いように思われたのだ。

ではコンテンツを楽しむことを「推し」と云わないというのであれば、どのような代替語彙が在するか?
すきだ、よく見てる、ファンだ、などであろうか。

一見してコンテンツを愛好していればどのような言葉で形容しても同じように思われるが、経験上言葉やもの、音などをどこにどういう時系列で配置するかは芸術創作に限らず日常生活においても大きな影響を及ぼすものだと思っている。例えば人間の心理におけるそういったような性質を踏まえて小説作品として表現しているのが京極夏彦の中禅寺秋彦を主人公とする小説シリーズとその関連作品であったりする。「推し」という語彙とそれに随伴するフレームワークを用いてファン行為をすることと、それとは何か別の語彙を用いてコンテンツを需要することには恐らくは差異が生じる。

各々に優劣が無く、夫々局所における正統性を獲得しているなかで俺は俺としてそのうちのなにかを選び取っていきたい。

twitterに投稿した雑文を備忘を兼ねてnoteのストックメディア性を鑑み転載と加筆をした。