知性を育てる小さな部屋

美術教師の存在は学校にとって「里山」である。


というフレーズを新聞記事の引用で拝見いたしました。

街にとって里山の存在は時代相互、負担、お荷物

と見える面もあるでしょう。

しかしながら、そこには知恵と豊かさ、恵みを無駄なく受ける技術

様々な要素がひしめき合ってゆっくりと存在しています。


美術の教室も学校(街)にとって、そういう場所

と考えられるなと思いました。


デッサンで食べていけるか、

レタリングはパソコンですれば、

色を付けることに何の意味が。


計算や実益だけで教室は成り立つでしょうか。

実際に私は

学校という場所で自分の「個」が引き倒されそうになったとき

助けてくれたのが「美術の教室」でした。

自分の「個」と集団性、それは社会に出てこそせめぎ合うものです。

そのバランスを磨くこと

自分の「個」を守ること

集団を意識すること

街を里山から眺めること


それができるのが美術の教室、美術教師の存在価値ではないでしょうか。

確かに輪を乱さない力も大切。

しかしながら、そこには「自分に対する認識」がなければ

無機質な思考停止した行動になりかねません。


知性を貴ぶ、自分を守るための場所として

教育の現場があるというのならば

そこにはやはり里山の役割もあるのです。


小さな教室で、里山に根を下ろす小さな植物のように

社会へ出ていろいろな共存や競争にもまれても

引き倒されないしっかりとした根っこを育てることもできるのではないか


そう可能性を感じます。

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