謙虚さと愛とは繋がっている


https://youtu.be/auvEr9vAqLg

ヴェーダ経典

シュリーマド・バーガヴァタムより
ŚB 10.15.44
तयोर्यशोदारोहिण्यौ पुत्रयो: पुत्रवत्सले ।
यथाकामं यथाकालं व्यधत्तां परमाशिष: ॥ ४४ ॥
tayor yaśodā-rohiṇyau
putrayoḥ putra-vatsale
yathā-kāmaṁ yathā-kālaṁ
vyadhattāṁ paramāśiṣaḥ
語訳
tayoḥ — そのふたりへ; yaśodā-rohiṇyau — ヤショーダとローヒニー(それぞれ、クリシュナとバララーマの母); putrayoḥ — 彼女たちの息子たちへ; putra-vatsale — 息子たちに深い愛情をもつ者; yathā-kāmam — 彼らの望みに応じて; yathā-kālam — 時と状況に応じて; vyadhattām — 与えた; parama-āśiṣaḥ — 第一級の楽しめる捧げもの
翻訳
 ふたりの息子に最高の愛を持って行動する母ヤショダと母ローヒニーは、彼らの望みに応えて、それぞれふさわしい時に、最高のものを与えた。
解説
 パラマーシシャハという言葉は、愛する母親の魅力的な恵みのことを示していて、それにはすばらしい食べ物、美しい衣服、宝石、おもちゃ、絶え間ない愛情が含まれています。ヤター・カーマム ヤター・カーラムという言葉は、ヤショーダーとローヒニーはクリシュナとバララーマという息子たちの望みを全て満たしたが、また彼らの行動を適切に規制もしていたことを表しています。つまり、彼女たちは子供にすばらしい食べ物を用意していましたが、それを彼らが適切な時に食べるよう気を付けていたということです。同様に彼女たちの子供は遊ぶべき時に遊び、寝るべき時に寝ていました。ヤター・カーマムという言葉は、母親たちは子供に何でも好き勝手にさせたのではなく、きちんとした礼儀正しい方法で子供たちに祝福を与えていたことを表しています。
 
 この母親たちは息子たちのことを非常に愛していたので、彼らを抱きしめる時にも手足が健康で丈夫かどうか注意深く確認していただろうと、シュリーラ・サナータナ・ゴースヴァーミーは論評しています。

2023/3/15のサッチャデーヴァプラブのクラスが
とてもメモりたかったので自分のためのメモです。
y-tube20分くらいから文字起こししました。
皆さんにもとてもためになると思います。ぜひお読みください。

日本語に訳すのが難しい、セルフアクシャライゼーションself-actualization
辞書では、自己実現となっています。サッチャデーヴァプラブのクラスで頻繁に使われます。正しい概念を覚えるために、このクラスは必須です。

ちょーおすすめってことです。

自分に目覚める(悟る)時の、ステップにするときはこの段階はとても重要で、単に自己実現では説明しきれないものがあります。
てか、むしろ誤解してしまう。

本文を注意深く読んでくれると、すごく深い理解が得られます。
ここで一言で言っときますと、これは自己啓発で言うところの本当の自分を知ると言うようなことじゃないよ。なりたい自分では決してないです。

セルフアクシャライゼーションself-actualizationとは自分は何者であるのかを追求することです。
そのためには、まず、本当じゃない自分から入っていく必要があります。
本当じゃない自分は、何を隠そういつもの自分のことですよ!

私たちは、社会や影響力のある他人の期待によって、自分の本当を隠して、社会や人に気に入られるように、無意識で良い人のフリをして生きている。そのことに気づくことがセルフアクシャライゼーションself-actualizationだと言われます。

ああ、そんなことか!と侮るなかれ。
このフリをする自分は、自分を騙す大名人!!
だからこそ、私たちには個々の痛みが与えられている。

さあ、では、セルフアクシャライゼーションself-actualizationの旅へ!

go!

親が子供にノーというのは難しい。アンハッピーになるから。
常に、愛と知恵のバランスが必要です。
そのバランスは私たちの精神的修養にも必要。

プラブパーダは、(バクティシッダンタか?)哲学のない宗教は感傷的、または狂信的,になってしまう。
また、宗教のない哲学は頭の中だけで考える、単なる憶測になってしまう、と説明されている。

バクティの修練の中でも無条件の愛と、知識という二つが必要である。
自分が、なぜ、何をやっているのかを深く理解していかないといけない。。
同時に神と、全ての生命体に対する愛を深めていかないといけない。

ヤショダとロヒニーは、クリシュナとバララームに対する無条件の愛を持っていた。
でも彼女たちは、責任のある権威者でもあった。
子供に、これはしても良い、これはしてはいけない、という境界線を教えなければいけなかった。
子供が成長していく過程で、理想的には最初の五年はたくさんの愛をもらう。
特に、母親の注目を引くという形で、愛を与えてもらう。

自分の心を相手に集中させることは、愛の行動である。自分の意識を向けたところ、それが愛。
子供だけでなく大人もそうである。
もし、誰かが話しかけたとき、その人に自分の心を集中してニコニコ笑って答えたら、相手の人は自分はこの人に愛されているなと感じる。
でも、相手が話しかけて来た時に、無視したり、あるいは、次に何を言おうかと考えていたりしたら、それも相手の人は感じるんです。その時は、愛されていると感じられない。赤ちゃんは、特にそのことを感じやすい。
そうやって、自分に注意を向けてもらうことで、それが愛だと感じて、自分は愛されているんだと感じる。
だから、幼少時代に与えられる母親からの溢れるばかりの愛は、非常に大切です。

5、6歳になったら、時には母親はダメだよと、教える。
大体、5〜15歳の間に境界線を学ばないと、大人になった時に問題が起きる。

この節の中で、ヤショダとロヒニーは、愛と境界線を持っていた。

その教えは私たちの生活にも関わってくる。

自分自身の生活もそうである。

私たちは、ほとんどの人が両親から無条件の愛を受けて来ませんでした。
とても厳格すぎたり、放任されていたりした。
私たちは両親からもらえなかったものがあるまま、親にならなければいけなかった。

基本的には私たちのプログラムは両親から来たもの、両親の持っていた心理的問題は私たちにも受け継がれて来ている。アナルタニブリッティ(精神修養においての自己の浄化の段階)の多くはそういうものです。そういう条件づけられた状態をなんとかして乗り越えないといけない。
いろいろな方法で乗り越えようとしている。
4つの原則に従いながら、ハレークリシュナのマントラを16周唱えることによって。
そうすることによって、知恵を得ている。
その知恵は何かというと、私はこの条件づけられたものではない、恐ろしいエゴでも思考でも考え方でも、不運な感情でもない、私は純粋な意識だ。その意識はクリシュナからきている、そして私はクリシュナの召使だ。
そういうことが、知恵の役割なんです。

もう一方には、愛という局面があります。そこで私たちは謙虚さを体験している。忍耐、他の人を尊敬することを体験する、自分にも他の人にも大きな慈悲の心を持つことができる、
傷が癒やされる前には、ちゃんと感じなければいけないと言われている。こういうアナルタ(悪い反応の癖のようなもの)が自然と消えていくわけではない。まず、そこにあることが見えなければいけない。そしてそれを手放す。
例えば恐れがあったら、それを感じなければいけない、過去に犯した過ちを悔いなければ、感じなければいけない、それはとても苦しい状態。そこから謙虚さが発達してくる。私は無知から生まれた。私の両親も無知の中で様々の恐ろしいことをたくさんしてきた。そして他の人も私に嫌なことをたくさんしてきた。しかし、自分の無知を許すに従って、他の人の無知も許せるようになる。
それは謙虚さから始まる、それは愛から出てくる。それは知識ではなく、あるいは知恵ではなく、愛から出たもの。自分自身に心を開くということ、そして、そうすると他の人にも心を開くようになる。最終的には至高主に向かって心を開く。

その精神修養も二つあって、無条件の愛と、何がどうなっているかの知恵、その二つがなくてはならない。
ヤショダとロヒニーにもその二つ、知恵と愛が備わっていた。愛の表現と知恵の表現。子供にとって今何が必要かその時と場所によって教える。

【質問】:スダマプラブ
ヤターカーマン、ヤターカーラ。イエスを言うべき時と、ノーという時の区別はどうするか?

答え ISV でやる。Iはindependent 独立している、主体的であるという意味。Sはspontaneously自発的に、自然に。Vはvolunteer自ら進んで、無償でという意味。 クリシュナへの愛、お互いへの愛。個人的に、自然に、無償でやる。4つの規則。それを変えることなく、従うことによって、過去のアーチャリャに従う。バガヴァッド・ギーターを読む。
同時に、私たちは別々の人間だ、それぞれ違ったレベルでここにやって来た。全ての人が、16周唱えるわけではない。全ての人が入門するわけではない。プリーチングも、今やっているやり方をみんなが同じようにやる必要はない、などなど。個人個人の持っている才能によってそれぞれの選択肢を尊重してやる、そうするとみんなが自発的にボランティアでクリシュナに仕えることができる。ISVを伝統的な方法でやっていく。
リーダーたちにそれが必要になってくる、強制的にやるのはISVではない。

質問:ヤムナ
謙虚さと愛が繋がっていることに関して

説明し忘れたかもしれないが、謙虚さの前に本当に正直になることが、最初の段階。
自分の弱さを認める。そうするとそこから謙虚さが出てくる。謙虚さと愛は同義語。

いつも、いい人のふりをしてきた。それは大変なこと。自己を悟る過程において自分を見つける前に、今までの自分は何だったのか。そうすると、いい人のふりをしてきた自分をある時点で捨てなくてはならない。それは自分自身に対する本当の愛情でもあります。その偽の自分というものを、がっちり捕まえていた手を緩めることにもなる。その今までふりをしてきた自分をちゃんと認めることがセルフアクシャライゼーションという。日本語では自己実現と訳されているがこれは誤解をされる訳ですね。ふりをする必要がなくなるから。ロケットが打ち上げられるのに最初は重力が引っ張られていくけれど、重力がなくなると飛べるようになるのと同じ。

質問:アナンタプラブ
宗教の中で教えられて生きてきた人が、ちゃんと認めてもらえないからやります。本当の意味ではやりたくない。フリしている人がどうやって出たら良いか?

答え:私たちは、クリシュナ意識になったのは大人になってから、自分で選んできた、だからといって、個人的な考え方がなくなってしまうわけではない。
本当にやりたいのか。なぜ自分がこういうことをやっているのか、あるいは他の人に見せつけるためにやっているのか。あの人すごいと思ってやっていてもそれは偽の自我の行為。それでは常に自分はハッピーではない。
でもそれでもいい、それもレッスンです。自分がアンハッピーと感じるレッスン。自分はふりをしてやっていた、そこから出てハッピーになるためのレッスン。何ヶ月かかるかも、五十年かかるかも。
自分に正直で愛を持ってやっていればハッピーでいられる。純粋なバクティの定義は純粋なバクティ。自分に動機のない献身奉仕こそがバクティの動機、他の人を感心させる行為は自分をだましている、だからハッピーではない。
もう一つ、大事なこと。神の王国は自分の中にあるということ。外面的な儀式の中ではない、そういうことは学ばないとわからないことであって、そのレッスンを学ぶのは、逆のことをして初めてこれは違ったなとわかる。本当の自分がわかる時は、本当の自分じゃない自分がいたから本当に自分がわかる、それで楽になる。

人間が作ったグループは個人個人にプレッシャーをかけることもある。人間の元々あった生存意識は、皆と同じグループに入るのが安心だと我々を促す。グループに入らなかったら生きていけないということが、太古の昔から私たちの脳に組み込まれている。しかし精神的なことを学ぶ人や、悟りに近づこうとする人には、自分を内観して自分自身を見つめて自分が一体何を求めて、自分の動機は何なのかをわかる人になる必要がある。他の人から拒絶されることを恐れているのか、あるいは恐れを乗り越えているのか、本当にイエスと思うからイエスと言っているのか?心の底から思って言っているのか?あるいは、他の人の意見の影響を受けているのだろうか?本当の自分は?ここでISVが必要になってくる。
組織化された宗教は、恐れをベースにしている。特定の種類の人がそういうものに惹かれる。たとえばキリスト教の人、他の宗教にいくと地獄に落ちるとか、あるいはヒンズー教でもこれだけが本当の真理だ、これに従わなければ永遠に輪廻に堕ちるとか、キリスト教徒が動物になって地獄に行くとかとか。
そういう宗派がたくさんある。アダムとイブも天国の楽園から堕ちた。私たちも精神界から堕ちてきた、そうでなければ永遠に生と死をくりかえさなければならなくなる、と恐怖に基づき組織化された宗教。私たちだけが真理を知っているから人々を助けなければならない。それによって神の元に還ることができる、そういう考え方は、そう信じる人をコントロールしたり動機づけたりするいい材料。無知の別の局面。人間が進化する上で必要なことかもしれない。
人間としてのグループも、惑星としても進化している。
今は、恐怖をベースにした宗教がだんだんとなくなっていている。そして科学と精神的なものがだんだんと近づいている。いろんなことが早くに進化している。今昔からのものと新しいものが入れ替わる時期ではないでしょうか!

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