情報リテラシー論 其ノ參

001(板垣 圭吾の場合)   

 人は真実を知りたがる。

 あるいは、自分の知っているものを真実だと思いたがるーーーつまり真実が何かなどは二の次なのだ。最近の話だが、アインシュタイン博士の相対性理論によって保証されていた『質量を持つ物質は光速を超えることがない』という、まあ圧倒的な真実が崩れ去った。

 ニュートリノなる、恐らくは善良なる市民のは知らなかったであろう物質は、光速よりもほんの少しだけ、十億分の一秒だか百億分の一秒だか速いという『事実』が公表されたのだーーーその驚くべき『事実』に、その恐るべき『事実』に、多くの者はパニックに陥ったという。

 しかし俺に言わせれば、どうしてアインシュタイン博士の提唱する相対性理論を、今まで、そしてそこまで信じることができていたのか謎であり、底抜けに興味深い点だーーーもちろん俺も、浅学非才の身である俺も、相対性理論を一行だって理解しているわけではないが、それこそ善良なる市民の大半は、ニュートリノと同じくらい、相対性理論を知らないはずだ。

 なのにどうして、『質量を持つ物質は光速を超えることがない』という法則を頭から、あたかも『真実』のように思い込めていたのかーーーそれは多分、疑うことが面倒だからだ。

 疑うことが。

 ストレスだからだ。

 『光速より速い物質があるかもしれない』なんて、瑣末なことを疑いながら日々を過ごすことは、ストレスになるーーー人間はストレスに弱い。

 要するに疑わない、信じるというより、人は『疑いたくない』のだーーー自分の過ごしている世界が、周囲が、信用するに足るものだと信じたい。

 安心したい。

 だから疑心暗鬼に陥らずに、信じる。

 疑うくらいなら騙される方がいいと、馬鹿馬鹿しいことに、そして不思議なことに、多くの者が考えているのだ。

 俺のような人間にとっては過ごしやすいことこの上ない社会である。いや、社会ではなく、システムの問題でもなく、あくまでも人か。

 人の話か。

 真実を知りたければまず嘘を知れ。

 それで精神を病んでもいいではないか。

 当然、光より速いニュートリノの存在だって疑い尽くすべきだし、ネットに公開された個人情報でも同じことだ。そしてあの教授が、本当に横田秀珠なのかどうかも、やっぱり疑うべきだ。

002

 技術の進化というのは、やはり負の側面と隣り合わせだ。弱者が群れることで強者に立ち向かおうとしている現在の人々は、『疑う』という行為そのものを忘れつつある。

 インターネットには、虚偽と危険とが渦巻いている。

 それらすべてを総合してこそ、初めてインターネットを知ったと言えるだろう。

 見極める自分すら信じない慎重さと、冷静な判断さえあれば、まるでごみ山のような嘘の中から、『真実』を見つけ出すことができるだろう。

 それを試す力こそが情報リテラシーであるーーーなんて、もちろんこれも嘘かもしれないぜ。