『「逆再生」の中に現れる身体』-「みなみと遊女の本当の浄土」レビュー

1.導入

先日3/4に観劇した、新芸術校上級コース成果展「まつりのあとに」の連動企画のひとつである、金藤みなみによる「みなみと遊女の本当の浄土」のレビューをお届けする。

本作品は、同名の小説と、映像、それらを統合するパフォーマンスの3つの要素で成り立っている作品である。この作品は、パフォーマンスの上演に先立ち、五反田アトリエで行われた新芸術校上級コース成果展内で、小説と映像作品が公開された。しかし本レビューでは、上演の演出を尊重するために、「小説→観劇→映像」という順序で観賞した、という前提で話を進めようと思う。

さて、この異なるメディアと時間において上演された本作品は、その性質上、それぞれの構成要素の立ち位置が非常に曖昧になっている。

例えば、映像内では小説の全文が朗読されていたり、ツアー・パフォーマンスでは、実際に小説に登場する「聖地」に訪れ、その場で小説の朗読も行われる。要は小説の物語を起点として本作品は展開されているのであるが、故に、全体を読み解くには非常に「骨」である。しかし、伝説や小説の物語を理解せずに、いくらパフォーマンスと映像を観賞しても「いい感じ」にしか映らないはずだ。この難解さは、成る程この作品の欠点にもなっていると考えられるが、しかし読み解いていくと、本作品が非常に優れた「上演作品」であると納得できる(パフォーマンスに改善点はあるが)。そのため、本レビューは、まず始めに小説の「物語」について論じたあと、肝心のパフォーマンスに触れるつもりだ。

そして、金藤の本作品を考えていく中で、きっとわたしたちは「美術と演劇が近づいている(と言われている)中で、複合的に諸メディアを扱いひとつの作品を立ち上げることはいかなることか」という問いを同時に考えることだろう。金藤の作品がその「雛形」になり得る、などそういった主張をするつもりは毛頭ないが、本レビューが、そのひとつのバリエーションを語ることになっていれば幸いである。

最後に、補足しておくと、本レビューはその文体/構成から本作品の「解説文」として読むこともできるが、全般的に筆者の解釈に沿って書かれている。したがって、作家の意図とは幾分離れたものであることを、留意していただきたい。それでは、約8000字の長文になるが、最後まで読んでいただければ幸いである。


2.物語

さて、先ほども述べたように「みなみと遊女の本当の浄土」を語るには、小説の物語を考える必要があるが、その前に、全体のモチーフとなった「白糸塚」の伝説に触れておかねばならない。

歌舞伎町中心部から徒歩数分に位置する「成覚寺」には、江戸時代に内藤新宿で働いていた遊女の「投げ込み寺」としての逸話が残っている。「成覚寺」には、今はほとんど埋め立てられた、東京・羽村から四谷へと流れる昔の玉川上水で入水自殺した心中者たちを祀る「旭地蔵」があり、今回のモチーフである「白糸塚」はその周辺に小さく佇んでいる。以下、小説の最初のページに掲載されている「成覚寺 白糸塚について」を引用する。

「享和の頃、青山百人町に住む鈴木主水が内藤新宿の橋本屋の遊女白糸となじみ、見かねた女房が男装して橋本屋に行き白糸に手切れを頼みやがて自殺する。これを知った白糸は申訳ないとこれまた自殺、かくして主水も錯乱してあとを追い自殺する。」

内藤新宿で奴隷のような暮らしをしていた遊女白糸と鈴木主水という侍が恋に落ち、それが結ばれず、玉川上水に身を投げる悲劇である。その昔、歌舞伎にも用いられたともいわれるこの伝説をもとに、本作品は展開される。


さて、終始作家である金藤みなみ自身の視点で語られる、新宿を舞台にしたこの小説は、金藤に取り憑いた遊女の霊である「白」(言わずもがな「遊女白糸」)と金藤との「恋愛小説」である。金藤自身の記憶や感性が多分に盛り込まれているため、非常に私小説的であるのが本作の特徴である。そして、それ故に、本小説が現実世界に染み出してくるのだが、詳しくは後述するパフォーマンス評の中で触れる。

それでは、おおまかなあらすじを記しておこう。まず金藤は物語冒頭で、同じ新芸術校生である和田唯奈に会う。「まつりのあとに」を観賞した読者には説明するまでもないだろうが、和田は「あなたが描きたい絵を描く」プロジェクトを進めていた。精神分析的に当事者に迫るこのプロジェクトを通して、金藤は自身の性格である『知りたがる』こと、すなわち「他者への過剰な好奇心」を和田に説明する。

インタビューの後、彼女は新宿二丁目付近の「成覚寺」を訪れ、「旭地蔵」の足下から「奇妙な紐」が伸びているのを見つける。持ち前の好奇心からそこに近づく金藤は「新宿の遊女」と名乗る霊に取り憑かれ、「寒くてたまらないから服を作って欲しい」「成仏がしたいから、手伝って欲しい」と頼まれる。「かわいそうなものへの興味」と「持たないものへの慈悲」から、金藤はその頼みを引き受ける。「川に身を投げた」と自身の死に様を説明するその霊を、雪の日に出会ったことと、前述した白糸塚の伝説から、「白(シロ)」と名付け、以降金藤は「白」との奇妙な関係を築いていく。


掛詞を用いるなど様々な趣向が凝らされた本小説は語るところが多すぎる。是非読者には購入してその世界にたっぷり浸ってくれればと思うのだが、ここではひとつの軸を挙げ、読み解いていくことにしたい。

それは「白」との関係性の変化と、それに伴う「白」の肉体の変化である。「白」と関係を深めていく中で、金藤の「好奇心」の種類と、同時に「白」の「肉体」にも変化が生じるのだ。


まず、最初に引用するのは、「白」が金藤に初めて接触する場面である。

「あたたかな、猫のおなかのような熱が、肩のあたりをなでた。みなみのうなじのあたりに、サラサラとしたオーガンジーみたいな肌触りと、強烈な熱が入ってくる。目の前で火花が直接散ったかのような衝撃の後で、脳の中に直接肩のあたりのものが語りかけてくる。」

金藤と「白」の邂逅の場面で、最初「白」は霊として、金藤の身体に「触れる」。しかし「白」は物質性を持たず、ただ「熱」をもつ存在として描かれる。また、彼女の「声」は声帯を使ってではなく、金藤の脳に直接響くのだ(しかしそれでもなお、「白」は「服を作って欲しい」と金藤に頼んでいるのは興味深い。金藤はそのことについて何も疑問に思わないで、極太の紐で彼女の服を編むのだが、ここでは触れない)。

出会った後、金藤は「白」だと思われる、伝説上の新宿の遊女にまつわる情報をリサーチしていく。一方で「白」と共に、匿名チャットで呼び出した男を揶揄って遊んだりし、金藤は「白」との仲を深めていく。

彼女を成仏させるべく図書館などで「白」の情報を得ていきながらも、段々と「白」の心情に思いを馳せ、「白」はただ繋がりを求めているだけなのかもしれないと金藤は思うようになる。「白に好きな人ができたらいいよね」と言う金藤に「白」は「私はみなみが好きだよ」と返す。その時、金藤の目には、身体性が欠けているはずの「白」の輪郭が映り始める。

「(白は)想像よりもずっと細く、目尻がたれた、いたずらっこのように口元にカーブを描いて笑う、キュートな女の子だった。」※()内、筆者補足

「白」の輪郭を掴み始め、なにか好奇心や憐憫の情以上の得体の知れない感情が金藤に芽生え始める。作中で和田はその感情を「母性本能」であると諭すのだが、金藤は納得しきれない。

そんな中で、ふらっと歌舞伎町に鎮座する弁天を訪れた金藤は、その近くで見知らぬ男からいきなり顔を殴られる。衝撃で金藤が意識を無くす直前に、なんと「白」の意識が金藤の身体に干渉し、金藤の意志に背いて、反撃のためにゴミ袋を男へと投げる。その出来事に驚く金藤であるが、その直後に彼女を心配する「白」がとても印象的だ。

「白の意識が、もはや、私の体も動かした。ついにのっとられた。たまらず咳き込むと、白は「大丈夫?」と聞いてきた。かすれて、喉を詰まらせたみたいな細い声だった。」

この時、金藤は自分の身体が「白」の意識によって動かされたことに対して「のっとられた」と漏らしているが、次の瞬間に「白」は金藤の体の調子を「自分の声帯を使って」案じている。つまり、前述した流れから考えるに、「かすれて、喉を詰まらせたみたいな細い声」という記述からもわかる通り、徐々に自分の身体を持ち始めている「白」は、再び完璧な霊体に戻ることは叶わないはずであり、そうであるならば、「白」の意志が金藤の意識にシンクロした、と考えるべきだ。すなわち、男に理不尽な暴力を振るわれた金藤を自分自身と重ね、昔年の怒りや呪いが思わず金藤に伝染し、金藤の身体を動かしてしまったのである。

ここで重要なのは、金藤は巫女のように「白」を身体に降ろしたのではなく、同じく「白」が金藤の身体に乗り移ったのでなく、あくまで「白」の意識/意志が"伝染して"金藤の身体が動いた、ということだ。つまり、二人は、ひとつの同じ肉体を共有する者ではなく、それぞれ自分自身の異なる身体を持つ一方で、非常に似た存在であることが描かれている、

そして、同様に考えなければならないのは、「死者を思う生者」という作品構造の中で「死者が生者を思う」ことをやってのけているのが、この場面である。

この双方向の関係性を、次章で金藤は恋愛関係、そして婚姻関係として昇華させる。

「デニーズで、「式をしようか」と白に聞いた。「式って何?」と白が聞くので、ウエディング、と検索して画像を見せた。「結婚式」。新宿プリンスホテルで白と会食した後、口づけと指輪交換は抜きにして、どこに提出するでもない、婚姻届にサインをした。」

お互いの合意の上、疑似結婚を果たした二人。そして金藤は、この物語の起動因である「他者への好奇心」という自分の特性に対して、こう結論づける。

「(…)自分が、なぜ、他者のトラウマが気になり、それが見たいと思うのかがわかった。それは、夢を見るように、無意識的に、身体に強制的に聴こえてくる「音」ではなくて、自分の希望で、相手との距離を推し量りながら、きちんと相手の肉体の持つ「声」として、相手の本当のところを聞きたかったのだ。そして、それは、今生きる人間だけに当てはまるのでもない…かもしれない。」

金藤にとっての「他者への好奇心」は、この点において死者すらも捉える。その死者とは想像上ではありながらも、肉体を持ち、双方向的に接触ができる死者である。そして金藤は、自分の心情を「好きだとか、嫌いだとかの、恋の気分から、もう遠く離れてしまった」と述べつつ、「白が手に入れた安心を壊したくない」と、性愛とは異なるステージの「恋」を叫んでいる。すなわち、死者の忘却にひとり抗うことだ。「このように死者を愛せよ」と、金藤は訴える。

そして物語はクライマックスを迎える。軽く触れると、「白」が身投げした玉川上水の話の告白から、彼女の生前と、死後成仏できずに川の流れにただひたすら流されるばかりであったことが、"彼女の声帯を使って"明かされる(新宿の遊女白糸伝説の再解釈)。

最後に、ふたりは、お互いが、非常に似ているけれども、しかし異なる存在であることを理解する。そして「分別」を身につけた、れっきとした肉体をもつ二人は、お互いの業を受け入れ、お互いの「使命」によって、お互いを「指名」し、「本当の浄土」に辿り着く。

つまり「本当の浄土」とは「ひとりではなくふたりで玉川上水で心中」して辿り着く「場所」だったすなわち、ここで金藤は、「白糸塚」の伝説に自分の姿を「加筆」したのである。愛するものと結ばれず、孤独に川へ身を投げ、呪い続ける遊女の霊を成仏させるために。それは「心中」であるにも関わらず、さながら「結婚式」のようだ。


さて、議論を一旦まとめる。冒頭で、熱だけをもつ霊として金藤は「白」と出会うが、金藤が「白」のことを段々と知っていき、二人が仲を深めていくにつれて、「白」は徐々に身体性を帯びていく。同時に、金藤の「好奇心」がその形を変化させていく中で、「白」の意識が金藤の身体に干渉する。自立した身体を持つ二人は一方でその瞬間、限りなく似た存在としてシンクロする。好奇心は「愛」に変化し、婚姻関係が結ばれ、最後に、死者と生者はお互いが死者でもなく生者でもないような存在として接触する。

「愛」によって「白」は身体を獲得する、すなわち、思い出される。なおかつ「愛」は双方向の行為である。死者は思い出されるばかりでなく、死者も生者を思うのだ。この感動的ともいえる相互応酬は、過去の逸話/伝説を二次創作することではじめて達成されうることであり、人間である金藤は小説の中で、アクロバティックではあるが私たちに死者と接する契機を作っているのだ。

そして、現実の「聖地」を舞台にした小説は、勿論、現実の風景に投影されうる。パフォーマンスにおいて、金藤の身体を媒介にして、観賞者は「白」の幻影を見出すことができるはずだ。


3.上演

さて、ここまで長かったがいよいよパフォーマンスに触れることができる。物語の要旨を説明することにかなりの時間を使ってしまったが、パフォーマンス評は、比較的あっさりしたものになる(はずだ)。

パフォーマンスの内容は、小説に登場する「聖地」を金藤自身がアナウンスしながら巡るツアー形式のもので、正味2時間弱のボリュームであった。金藤は当日、全身を赤色の服で固め、太い布で編まれた「靴」を履いていた。首には鮮やかな青色のマフラーが巻かれているのだが、何より目を引くのは彼女が抱えている、こちらも太い布で編まれた白色の骸骨である。大きさは全長だと金藤の身長と同じくらいだろうか。おそらくこれが「白の服」もしくは「白」自身であろう。

始まる前に金藤から撮影に関する軽い注意事項のアナウンスがあった後、ツアーが始まる。金藤は全編を通して、後ろ歩きで、新宿の街を往く(※詳細は後述)。ツアー全体の経路としては、新宿区役所前に集合し、そこから歌舞伎町内にある「弁天」、靖国通りを超え、新宿二丁目の飲み屋街を通り過ぎ「成覚寺」へ。それから「花園神社」に赴き、ゴールデン街、四季の道を通り過ぎ、その近隣にある雑居ビルの一室(中は、金藤の自室のような装飾が成されている。以下、小説の内容と演出を尊重するため「金藤の自室」と呼ぶことにする)にて映像作品を観賞して、終了である。ちなみに各チェックポイントでは、それぞれの場所に対応する小説の一部分が金藤によって朗読された。


ここで映像作品にも触れておく。「金藤の自室」で観賞することになる映像作品では、ツアーと同じ出で立ちで、白い骸骨を抱えた金藤が基本的に歩くのみの映像である。背景では小説の全文が朗読されている。

そして重要なのは、かつての玉川上水に沿うかたちで「弁天」から上水の末端である四谷まで金藤が後ろ歩きしているのだが、その映像が「逆再生」されているのだ(つまり、金藤は普通に前を向いて歩いているように見え、周りの通行人が後ろ向きに歩いているように見える)。


全体の概要はそこそこに、それではまず映像作品内で、何が行われていたかを考えてみる。端的に言おう。この映像内では小説のクライマックスである「本当の浄土」が上演されている。

逆再生」という演出がもたらしているのは「過去の時間への逆行」である。映像が逆再生されることで、二人は過去の時間へと逆行、時間を超越しながら、四谷へと流れるかつての玉川上水を流れていく。すなわち、「白糸塚」の遊女の伝説を下地にした、「ふたりで玉川上水で心中」=結婚式を挙げ、「本当の浄土」に辿りついた描写が再現されている。(ちなみに歌舞伎町から靖国通り=玉川上水に入水する際、ふたりはダンスを踊っている映像があるのだが、こう考えるとそれが喜びの舞いにしか見えなくなってくる。)


さて、言うまでもないかもしれないが、筆者は本パフォーマンス作品を、『小説「みなみと遊女の本当の浄土」の上演』であると解釈する。ここでは小説は戯曲でもあり、上演台本でもあると考える。物語は、金藤の視点で語られているため、観賞者は彼女のすべての振る舞いを、物語の中に回収しようとする。そしてだからこそ、金藤の抱える「布の骸骨」を「白」だと解釈できるし、彼女たちがふたりで実際の新宿を歩くことで、街が別のものに見えてくる。靖国通りには、玉川上水が流れているのが見える。

さて、「パフォーマンス全体が小説の上演である」と解釈すると、ある齟齬が生まれてしまう。それは、ツアーの順序が単に小説を「頭から再生」してしまっているという点だ。ここからは、筆者の解釈不足を棚にあげつつ、作家である金藤の意図を考えることから外れてしまうことをご容赦いただきたい。

金藤はツアー中、歩行上危ない時を除き、常に後ろ歩きをしており、確かに「逆再生」のボタンは押されている。しかし「逆再生」をイメージしろと金藤は「語る」のにも関わらず、ツアーの順序がその意図を反映していないように思えてしまう。つまり、観客にツアーを「逆再生」をさせるならば、映像作品に映った「本当の浄土」は、ツアーの一番最初に見せなくてはならない。しかし「本当の浄土」を観賞者が観るタイミングは、実はツアーの最後であった。

詳しく説明する。本ツアーの順路は「弁天→二丁目→成覚寺→花園神社→ゴールデン街→四季の道→「金藤の自室」→「本当の浄土」(映像)」であるが、これが逆再生されてもなんのことかわからない。

そうではなく、小説の物語の逆順序、つまり、「本当の浄土」(映像)→弁天→世界堂→伊勢丹→プリンスホテル→デニーズ→弁天(2回目)→喫茶西武→花園神社→成覚寺→ミスド→四季の道→「金藤の自室」(※どれを取捨選択するかの判断はここでは置いておく)で回るべきだったのではないか。小説もクライマックスから冒頭へと朗読する。

そうしてはじめて、ツアーが終わった後、四季の道を通って帰る観賞者は、金藤と「白」の出会いを再体験し、もしかすると「本当の浄土」をはじめて理解できる構図になる。巻き戻された小説の物語が、時間に抗って、また再生する(再び生き始める)のだ。 (蛇足だが、もしかすると、更に逆再生されることで、小説にも描かれていない「まつりのまえ」の時間に辿りつくこともできるかもしれないし、逆のことも考えられる。すなわち「本当の浄土」のその先?)


4.総括

その他、ツアー間の金藤の立ち振る舞いについてなど、「小説の上演作品」としてパフォーマンスを捉えると気になる点はいくつか出てくるのではあるが、最後に、冒頭で挙げた「美術と演劇が近づいている(と言われている)中で、複合的に諸メディアを扱いひとつの作品を立ち上げることはいかなることか」という問いに対して、少し考えてみる。

ここまで述べてきたように、金藤の作品では、伝説を二次創作した小説を、さらに現実の身体と場所に落とし込む、という非常にアクロバティックな試みが成されている。ひたすら小説と向き合い、様々な解釈を繰り広げた筆者が感じるのは、この試みを成し遂げるためには、やはり非常に高いハードルを読者に課している、ということだ。それは観賞者に非常に高いレベルとハードルで「読み」を強制している。

しかし一方で、小説や映像作品は、完成度は相対的なものに劣るだろうが、ひとつひとつとしても優れた作品群であると思う。しかしやはり、それらだけでは、「白」に対する具体性が圧倒的に違う。

「死者を思う」という抽象的になりがちなテーマにおいて、「生者を思う」死者の姿を描き、なおかつ死者を限りなく具体性をもった存在として描こうとした金藤の企みは、賞讃すべきだ。

めちゃくちゃ蛇足になってしまった感が否めず、申し訳ない。レビューというよりかは、解説、のような文章最後になってしまったことに少し反省しつつ、筆を置こうと思う。筆者は「みなみと遊女の本当の浄土」の再演を望みます。このレビューがその手助けの一部になれば、それ以上の幸せはありません。僕も作品作りがんばります


「まつりのあとに」公式サイトはこちらから↓

http://www.maturinoatoni.jp/03_sugamo_shin.html


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小林太陽

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