見出し画像

メディアの話その2 ユーミンとメッセージとマクルーハンと。

目にうつる すべてのことは メッセージ。
この正月、『魔女の宅急便」をテレビで見ていたら、最後にユーミンの「やさしさに包まれたなら」が流れてきた。

説明するまでもなく、この曲のサビのフレーズである。

メッセージ。

『広辞苑』で引いてみる。

メッセージ →

①伝言、口上、挨拶、使命。②アメリカ大統領の教書。

「メッセージ」には、アメリカ大統領の教書という意味があったのか。
なんでも調べてみるものである。

と、知ったかぶりをしたいところだが、今度は「アメリカ大統領の教書」の意味を知らない。

これまた『広辞苑』を引く。

教書 →

アメリカで、大統領・州知事から連邦議会・州議会に発する政治上の意見書。(口頭で述べることもある)

まだ、よくわからない。

ウェブで調べると、『知恵蔵』にはこうある。
アメリカ合衆国憲法第2条により、大統領が議会に対して義務付けられた、連邦の状況についての報告及び政策提案。一般教書(State of the Union Message)は、年頭(通常1月最後の火曜日)に行われるところから年頭教書ともいう。大統領に法案提出権がないため教書という形で議会に諸政策の勧告を行うが、大統領の国内政策や外交政策全般を盛り込んだ一般教書、予算教書(Budget Message)、経済報告(Economic Report of the President)を三大教書と呼び、ほかに特別教書(Special Message)がある。
(細谷正宏 同志社大学大学院アメリカ研究科教授 / 2007年)

ますます、よくわからないけど、英語の「メッセージ」には、「伝言」という意味だけじゃなく、なにやらずっしりと重い務めが課せられていそうなことは、なんとなく察せられた。

フェイスブックのメッセンジャーでの、「夕ご飯いる?」「いらない」といったやりとりは、文字通り「伝言=メッセージ」のことだけど、ここが英語のむつかしいところで、メッセージは、翻訳をあえてしないで、メッセージという言葉のまま使わないと、まさに「伝わらない」意味が隠されていそうである。

話を戻す。

そもそも、ユーミンはなぜ、「目に映るすべてのことはメッセージ」と歌ったのだろうか。ここで「メッセージ」という単語をなぜ使ったのだろうか。ここでのメッセージが日本語で使っている「伝言=メッセージ」という意味だと、「目に映るすべてのことは『伝言』」。これでは意味が通らない。

と書いて、『魔女の宅急便』の冒頭に流れてくる曲のタイトルを思い出した。「ルージュの伝言」。こちらは「バスルームに」残した文字通りのメッセージ=伝言で、彼氏の「浮気な恋」を彼氏のママにしかってもらうために記した可愛い復讐。

『魔女の宅急便』は、ユーミンの「伝言」で始まり、「メッセージ」で終わるわけだ。

「やさしさに包まれたなら」の中での「メッセージ」は、「目に映るすべてのこと」とある。文字通り受け止めるのならば、目に見えたことがメッセージ、となるのだけれど、この「やさしさ」を喚起するのは必ずしも視覚的なものではない。「静かな木洩れ陽」であり、「くちなしの香り」である。視覚を超えた陽の暖かさ、そして甘いくちなしの香り。そんなこんなを「やさしさ」と認識した瞬間、「目に映る」ことすべてが「メッセージ」となる。

ああ。わかる。

言葉で説明したら、意味がこぼれ落ちちゃうけど、わかる。

静かな木洩れ陽も、くちなしの香りも、それ自体は「どこにでもある」ものだ。誰もがでくわすものだ。ただ、それを自分個人に向けられた「やさしさ」と感じた瞬間、目の当たりにしている世界すべてが、そっけなかった世界が、自分の味方のような、自分の居場所のような、そんな感覚に包まれる。

この歌は、「小さいときは神様がいて」から始まる。

小さいときは「神様がいて」、だから目の当たりにしている世界すべては味方だった。でも、大きくなると、世界は自分の味方じゃなくなる。居場所じゃなくなる。

なぜかといえば、大きくなると、「神さまが消えて」しまうからだ。そして代わりに「人間がいて」となる。誰もが、人と人との関係の中に生きるようになる。すると、誰と一緒にいるかで、世界は味方にもなるし、敵にもなる。

でも、大人になっても、「静かな木洩れ陽」や「くちなしの香り」のような、人間とは関係なくあり続ける、外の存在、人間関係や人工物と対比されるであろう「自然」に、自分とはまったく関係ないはずの「自然」に、「包んでくれるやさしさ」を感じた瞬間、「小さなときの神様」が戻ってくる。目に映るすべてのことがメッセージとなる。

あなたはここにいていい、と。

メッセージを「伝言」と訳してしまうと、大切なのは、その「中身=コンテンツ」になる。「何を」伝言しているかが重要になる。でも、ユーミンがこの曲で使った「メッセージ」は、「中身=コンテンツ」のことを指していない。あなたの目の前にある世界そのものが「メッセージ」なのだ。あなたの外の世界=自然を「やさしさ」ととらえれば、あなたの目の前のすべてはあなたの味方なのだ、と。

ここで、マーシャル・マクルーハンの出番となる。ようやくである。

マクルーハンは、「メディアは、メッセージである」と語った。

通常ならば、メッセージ=伝言は、個々のメディア、テレビだったり、書籍だったり、手紙だったり、電話だったりで伝えられる「中身=コンテンツ」のことを指すと思うはずである。

マクルーハンは、「いや、そうじゃない、メディアそのものが作り出した世界そのものが、メッセージなのだ」という。

ユーミンの「メッセージ」と同じではないか。

続きます。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?