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国道16号線の話。その1 序

何度もオレオレ詐欺のように、書くよ、といっていた16号線はなし、
noteの使い方がわかってきたので、こちらでだらだら書き始めます。

以下は、すでに書いた「序」をちょっとだけ手を入れました。新たに読んでいただける方は、ざっと目を通していただければうれしいです。

ではでは。

 人間の「文明のかたち」を規定しているのは、「地形」である。
 『銃・病原菌・鉄』で看破したのは、生物学者にして人類学者のジャレド・ダイアモンドだった。
 現世人類はアフリカで誕生した。およそ20万年前。そしてアフリカを出て他の大陸へ進出を始めたのが8万年前。つまり、現世人類が一番長く過ごした場所は、生誕の地であるアフリカ大陸なのである。けれども、その後、文明が発達し、現代に至る経済成長の中心となったのは、“わずか”数万年前に人類が移住したヨーロッパと東アジアであった。
 なぜ、アフリカでなく、ヨーロッパと東アジアで? 
 かつて、この疑問に対しては、人種の優劣を問う話がずいぶんとあった。学者を含めて。
 が、ダイアモンドは、違う答えを導き出した。
 地形である。
 アフリカは南北に長い。南北に長いということは、北から南に移動すればどんどん気候がどんどん変わってしまう、ということである。気候が地域ごとに変わってしまう。するとアフリカでは、同じ穀類、同じ作物を大量生産するのが難しい。事実、アフリカではいまだに穀物の大量生産に成功している地域がほとんどない。
 一方、ヨーロッパと東アジアの地形は東西に長い。しかも温帯である。このため、麦やコメなどの穀類を大量生産するのに向いていた。巨大文明を構築するには食料の大量確保が必須である。人類発祥の地であるアフリカが文明の担い手となれなかったのは、ひとえに「地形」的「地理」的な条件が、巨大文明発達に向いていなかったから、というのがダイアモンドの指摘だった。
 「地形」が「地理」が、その土地の人間の暮らしを、移動を、食を規定し、ひいては、文明の、文化の「かたち」を規定する。この視点を手に入れたとき、それではこの日本の文化文明を規定した「地形」は、どこにあるのだろうか?
 国道16号線である。
 東京の中心部からほぼ30キロ外側、東京湾をぐるりと回った環状線。三浦半島からはじまり、房総半島で終わる。最後の数キロは東京湾上を渡る。橋はない。代わりに、カーフェリーが三浦半島側の久里浜と房総半島側の金谷を結ぶ。
 太平洋に道を開いた馬蹄形の半環状線。
 この国道16号線の「かたち」こそが、いまの日本の文明、文化のかたちを規定した。
 ほんとである。1万年ほど前、関東に最初の人類がやってきてからこっち、つまり、日本人ってやつができてからこっち、この16号線のかたちは、「このくにのかたち」でもあったのだ。
 そもそも16号線は、どんな道か。
出発点は横須賀市の南、走水。目の前には東京湾が広がっている。海を右手に見ながら横浜を目指そう。横須賀の街の渋滞を抜け、米軍基地をにらみつつ、海岸まで迫った崖をぶち抜いた隧道を潜り、日産自動車の工場がある追浜の商店街をかすめ、金沢八景ののんびりした景色を眺め、古き良き京浜工業地帯を走り、今は亡き横浜プリンスのあった磯子の山を背に、ユーミンが歌ったドルフィンレストランがある根岸の丘にさよならをし、水路沿いに直角に右へ曲がり、米軍住宅をかすめて横浜の裏手を抜け、横浜新道を、東名高速道路をくぐると、のっぺりとした相模原から町田の郊外に出て、イトーヨーカ堂やブックオフをかすめ、八王子のアップダウンを越えると、いきなり空が広くなり、頭上に米軍機が飛び、道沿いがアメリカになる福生と瑞穂町へ、しばらく16号線はルート66となり、埼玉県入間のコストコで再び16号線へ戻り、今度は“小江戸”川越にタイムスリップ、さいたまから春日部を抜けるときには2キロおきにイオンモールが軒を連ね、千葉の野田へ入るとファミレスの種類が代わり、柏のジャンクションをくぐると、次第に景色は畑と雑木林と住宅と山田電機が交互に広がる千葉ならではの平たい風景に変わり、眠くなりそうなのを我慢して走り続ければ、東関道を交差し、穴川で京葉道路と並ぶと一気にスピードを上げて海へと向かい、曽我で京葉道路と別れて、横浜以来再び東京湾に出会い、京葉工業地帯の乾いた景色をひたすら南下する。千葉は大きい。同じ景色がずっと続く。いつまでも続く工場の景色に目を回しそうになるころ、工場が途切れ、住宅に変わり、畑に変わり、東京湾アクアライン連絡道が目の前にある。そこをくぐると、とつながった木更津のジャンクションをくぐり抜け、君津の工場を抜けると、風が南国に変わる。富津岬だ。
 で、ここで終わりかと思うと、実はそうじゃない。ちょっと先まで走らせて金谷にたどり着けばカーフェリーに乗って東京湾を渡り、三浦半島の横須賀久里浜へ。スタートした走水まではすぐだ。
 距離にして350キロ少々。東京から名古屋までとほぼ同距離。国道、と命名されたのは明治時代。横浜横須賀間だった。今の環状線のかたちになるまで延伸するには大正を経て昭和を経て約100年を要した。
 でもまあ、たかが100年の歴史、である。
 関東の他の道路と比較してみても、東海道なんかのほうがはるかに歴史が古い。そもそも16号線は東海道や中仙道のような街道じゃない。だいたいの話、日本の歴史だの文明だのという話を持ち出したら、普通「機内や九州のほうが古代日本に決まっているだろっ」と突っ込まれそうである。
 でもしょうがないのである。
 16号線が日本の文明を規定しちゃったのは、まごうことなき事実なのだから。
 現在、国道16号線が通っている道筋はそのまま、関東南部に人類が住み着いた道筋である。現在の東京近郊に1万年前、縄文時代の人間が外からやってきて、居を構えては移動を繰り返し交易を続けた道筋、なのだ。
 まず、陸路。
 氷河期末期に北海道から東北にかけて渡来した人々は、長野から甲府を抜けて今の八王子あたりにたどり着いた。で、そこからまさに今の16号線を辿るかのように、北に南に移動し、案配のいいところに住み着いた。
 丘陵の谷筋にはそこかしこに綺麗な泉が出る。目の前に迫る遠浅の河口や海に出れば、砂に手を突っ込むだけでハマグリやアカガイが指に挟まるほどとれる。東京湾を囲んだ海辺の丘陵地帯は、極楽だった。
 時代は氷河期から一気に温暖化した縄文の時代へ。海が迫り、平地が消え、ゆるやかな丘の縁に人々は集落をつくった。関東南部の縄文遺跡の在処を地図にプロットしていくと、見事に16号線のかたちが浮かび上がる。
 次に、海路。
 16号線は海に開かれている。三浦半島と房総半島が16号線の「港」だ。遠く海を渡ってきた人々が船をつけ、海岸から16号線を辿るように、今度は内陸へ内陸へと歩を進める。縄文時代、弥生時代、古墳時代と、時を経れば船がどんどん発達する。西から船で16号線にたどり着く人々は後を絶たなかった。
 それもあるのだろう。16号線沿いには、西側にも東側にも渡来人ゆかりの地名が点々と残る。
 昔、日本に、人はいなかった。
 あらゆる日本人は、外からやってきた。
 やってきた人は、当然のことながら暮らしやすい場所を探す。
 最初に日本にやってきた人々は、穀物を栽培する技術を持たない。家畜もない。狩猟採集で生きていく。
 そこで「16号線」だ。日本最大の流域面積を誇る利根川が注ぐ東京湾。この静かで豊穣な海の幸に恵まれた浅瀬の海をぐるりと取り囲んだ馬蹄形の丘陵地帯。16号線とはこの地形のことだ。縄文海進で今よりも海面が数メートル上昇していた時期、静かな海に面した温暖な丘陵地帯の連なりは、人間にとってもっとも暮らしやすい場所だった。移動に適した道であり、海の幸と山の幸とを交換するのにうってつけの交易の地だった。
 つまり、である。
 日本人より先にまず16号線があったのだ。正確にいえば、今16号線が走っている東京湾を囲んだ馬蹄形の地形がまずあったのだ。この地形に、外からやってきた人々が住みついたのだ。
しかし「16号線」は古墳時代から歴史の表舞台から姿を消す。
弥生時代を経て、朝鮮半島からの渡来文化の隆盛と共に、日本の文明の中心は畿内から九州にかけての西日本に移るからである。
 16号線が再び歴史の表舞台に立つのは12世紀。16号線の地形を見事に発見し、関東こそ巨大文明を創るのにふさわしいと看破した源頼朝がいたからだ。
 続いて、現在の皇居のある地に江戸城をつくり16号線沿いに次々と築城した太田道灌が、おそらくは16号線の潜在能力を正確に見抜いた人である。
 さらにいえば、そのあとをついだのが徳川家康。道灌の建てた江戸城を拠点に、関東の治水事業を行い、暴れ川であった利根川を御し、巨大稲作地帯をつくり、東京湾をぐるりと巡る円環構造に三角形の扇状地をつなげることで、世界でも類をみない巨大都市構造を完成し、文明の軸を関西から関東に移した。
 江戸時代、横浜から、町田、八王子、福生、入間にかけての16号線沿線、さらにその延長線上の高崎から信州にかけては、養蚕が盛んになり、この地域でつくられた絹は、明治維新の前後、横浜港に運ばれて、日本最大の輸出産業になった。さらにご存知の通り、高崎には富岡製糸場がつくられ、明治時代はまさに16号線の延長線上で、日本の外貨獲得策の多くが担われるようになった。おカイコ、さまさまである。
 空へ、海へ、世界へとアクセスが容易な16号線は、軍の拠点となる。そもそも、古代より16号線は軍事道路としてきわめて重要であった。理由は明確、尾根と谷戸と川と海とがつらなる16号線の丘陵地隊は、軍事拠点としての必要条件をすべて満たしていたからだ。
す城をつくる丘、舗装せずに走れる陸路としての尾根道、貨幣である兵糧となる米の生産地である谷戸田や棚田、ロジスティクスの要となる川や海を使った航路。すべてが揃ったエリアが無数にあった。かくして、小さな豪族たちが、歴史に隠れたまま、関東では16号線沿いに拠点をつくり、それが平安末期、源頼朝の挙兵により可視化され、室町中期の太田道灌の活躍した時代には、歴史の表舞台に出るようになる。かくして、16号線は、戦の拠点である城と農業の拠点と街とがセットになったエリアが数珠状につらなるようになった。
この動線がそのまま軍事ルートとして江戸末期以降、活用されるようになる。
 ペリーに開港を迫られた横須賀は軍港となり、三浦半島の先端には軍の秘密基地が設けられ、16号線の座間や福生や立川などには、日本軍の拠点が設けられた。いまも町田には戦車道路なる地名が残っている。
 第二次世界大戦に負けると、日本軍の拠点すべてが米軍のものとなり、16号線は、アメリカになった。福生、立川、座間、横浜、横須賀。旭日旗がすべて星条旗に変わった。16号線の千葉側は、戦後も自衛隊の駐屯地として活用され続けた。そう、いまでも16号線は、日本で最長の軍事ルートなのである。シン・ゴジラから逃れた人々を乗せたヘリコプターは、立川と木更津の自衛隊基地に届けられた。さすがのゴジラも、日本の軍事拠点をつぶすのならば、東京駅じゃなく、16号線をぐるりと1周したほうがよかった、ということに気づかなかったようである。
さて、戦後、米軍の駐屯地がつらなり、アメリカとなった16号線。巨大なアメ車。軍放出のファッション。音楽。映画。16号線沿線は、アメリカの夢を日本人に見せつける場所に、そしてその夢を吸収した日本人が、ジャパニーズドリームを体現するところになった。
 1950年代後半から90年代まで、日本を代表するアミューズメント施設の多くは、16号線に並行する地域に誕生した。ディズニーランドからよみうりランドからよこはまドリームランドから多摩動物園から八景島シーパラダイスや油壺マリンパーク等の水族館まで。
 最初にショッピングモールができる場所も16号線だった。IKEAやコストコのように海外の商業施設が進出する。イオン・モールが2キロおきに立つ。ブックオフも誕生したのは町田郊外の16号線沿いである。
 そう、「16号線という地形」の面白さは、外から来た文化が次々とその土地を上書きしていくことにある。前からあった文化の上に次の文化が塗りたくられる。ただし、完全に覆ってしまうわけではない。双方の色が入り交じり、他にはないオリジナルの発色をする。
 16号線は日本の文化文明の「港」であり、「ゆりかご」であり、「DJ」だった。
 ただし、こうした16号線「史」が、正史で語られることはない。
 年表主義の日本史は、地形というものをまったく考慮しない。ゆえに江戸時代までは関西中心主義であり、徳川幕府以降現在に至るまでの歴史は江戸中心主義である。
 だから、16号線を「江戸の田舎」「江戸の郊外」と規定してしまう。しかも江戸時代以降発達した放射線状の街道や、明治時代以降に発達した放射線状の鉄道が、都心=中心で、外へ出れば出るほど田舎、という思い込みを人々に刷り込んでしまった。
 現実は違う。皇居の近辺は江戸時代になるまで広大なアシハラであった。ど田舎は東京中心の方だったのである。16号線の歴史に比べれば、関西の歴史も浅いかもしれない。なにせ1万年前からある国道なのだ。
 ただし、16号線こそが日本であり、16号線こそが日本人である、ということをずっと知っている人たちがいる。
「五感の知能指数」が高い人たちだ。
 彼ら彼女ら脳みそではなく体で知っている。
 日本人がすべて外からやってきたことを。
 ゆえに、常に外からの文化、外からの文明に対して開かれていることを。あとから海を越えてやってくる文化文明の影響で、自らを上書きしていくこと。あらゆるものをのみこみ、アレンジし、マッシュアップし、変形させて、なにものでもない「日本」にかえてしまうことを。
 そして。五感の知能指数が高いひとたちは、そんな16号線的なる日本の意味を、価値を、自らの作品で、体現する。
 なによりも、音楽。
 美空ひばりを、裕次郎を、若大将を、細野晴臣を、ムッシュかまやつを、ユーミンを、サザンを、エーちゃんを、小田和正を、山口百恵を、ストリートスライダーズを、クレージーケンバンドを、そして大瀧詠一を、戦後のあらゆるヒップな音楽。
 彼ら彼女らの多くが具体的に16号線の場所、16号線の空気を経ていている。ジャズからロックから歌謡曲まで。アメリカ化した16号線が、戦後日本の音楽のターニングポイントをつくった。
ただコピーをしたわけではない。当のアメリカが生まれる数千年も前から先に存在する「16号線というOS」にアメリカ音楽というアプリケーションソフトをインストールすることで「16号線的」としかいいようのない日本独自のポップミュージックを、五感の天才たちが産み出した。
 それが日本のいまの音楽だ。
 ちなみに、ナベプロもホリプロも、日本の芸能プロダクションの創始者の多くは、16号線沿いの米軍基地で音楽を奏でていたひとたちである。 
 文学でいえば、初期の短編でどこでもないアメリカ的郊外を描いた村上春樹が、そして16号線沿線の美大生でアメリカンカルチャーと土着が入り交じる世界を描いた村上龍が、まぎれもない16号線的作家である。近年でいえば、米軍と古都と三業地と自然とが入り交じるもっとも16号線らしい街、町田=まほろを舞台とした「まほろ駅前シリーズ」を描く三浦しをんもまた16号線的作家である。
 マンガでいえば、まさに福生——横須賀——沖縄と16号線を舞台に描いた上條淳士の『SEX』、福生のハウスの高校生たちの生態を描いた吉田秋生の『河より長くゆるやかに』、そして近未来の気象異常で縄文海進のように海面が上昇し続けた16号線エリア=三浦半島の岬から横浜、町田での日常をロボット少女の視線で描いた『ヨコハマ買い出し紀行』……。
 ちなみに、よく中央線カルチャーといわれるが、もとはといえば「16号線」が八王子から線路をつたって中野あたりまで侵食した影響が実は強い。16号線沿いの戦後アメリカンカルチャーが電車を伝って内部へと伝播し、一方で明治から昭和初期にかけて荻窪あたりで展開されていた武蔵野文学的な空気とない交ぜになった。ドラッグやヒッピー、反戦運動。いずれも米軍経由のアメリカンカウンターカルチャーが源流にある。
という具合に、16号線という「かたち」から考える日本文化というのは、話がつきない。今回は「序」ということで。
続きます。

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