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国道16号線の話、その6。不思議の道のアリス。

千葉県柏のインターチェンジから、国道16号線を延々東回りに南下してきた。が、私たちは、富津岬の先端で、突然国道16号線を見失った。

いつのまにか、県道257号線に変身して、道路は富津岬の公園にぶつかって消えてなくなっていたのである。

どこにいったんだ。

辺りを見渡しても、手がかりはない。

かわりに、あなごを食べさせるお店があった。

時間はすでに11時30分。

とりあえず、飯を食おう。

私たちはあなご重をとあなご天丼を頼むのであった。

あなごを食べさせるお店は、けっこうな席数で、雨の平日にもかかわらず、観光バスが横づけして、これからたくさんのお客さんが入ってくるらしい。

「3月あたまの寒い時分に、富津岬の、何を観光するんですかね?」

「俺たち同様、国道16号線の終点を見に来たんじゃないの?」

相棒のAM氏とアホな話をしながら、あなごを食べる。

富津は千葉側ではもっとも東京湾の内側にせり出している。つまり直線距離では、反対岸の神奈川にもっとも近い。国道16号線は、この富津岬から橋で延長して、横須賀につながって、完璧な環状線となる予定だったらしい。「らしい」というのは、この計画が未だに残っているかどうか、よくわからないからである。

東京湾には、かつて神奈川と千葉を結ぶカーフェリーが2つあった。

ひとつが川崎フェリー。

川崎から木更津までを結ぶ。その昔、80年代のドラマ『男女7人夏物語』で、明石家さんまがこのフェリーに乗って、木更津から川崎まで「通勤」していた設定があった覚えがある。たしかそうだった。

私も90年代に2度ほど、この川崎フェリーを使ったことがある。カーフェリーはじつにいい。なんだか、ずるをしている感じである。陸路で行くと、はるか彼方の、川崎と木更津が、30分ほどでつながっちゃう。「ワープ」みたいだなあ。そう思ったものである。

が、この川崎カーフェリーは、1997年、姿を消した。

東京湾アクアラインが開通したからである。

もともと、川崎からは市原にもカーフェリーが出ていたという。90年代半ばまで、陸運だけじゃなく水運が東京の物流のインフラとなっていた。なんだか江戸時代みたいである。そんな江戸時代的なカーフェリーも90年代終わりに姿を消した。

いま東京湾に残るカーフェリーは、横須賀市久里浜と千葉の金谷を結ぶ航路が1本だけ、である。

こちらのカーフェリーが現在「延長した」国道16号線の「海路」となっている。私の説である。

いや、そんな説はどうでもいい。私たちは、見失った国道16号線を見つけねばならない。あなごをたっぷり胃袋に詰め込んだことだし。

「やっぱり通り過ぎたんでしょうね」

「だね」

「もどりますか」

「もどろう」

私たちは、いま来た道をゆっくりと自動車で戻ることにした。

幸い、後続車両はいない。とにかくひと気がないのである。

数百メートルほど戻ると、私たちは青い看板をみつけた。

「あれですよ、あれ。あそこで16号線が終わってる!」

どうやら、この先のT字路までが、この道が16号線だったようである。

戻ろう。

あった。

ここだ。

「富津」と書かれた信号。この信号で、千葉側の国道16号線が終わる。

きた方角からもう一度みてみよう。

ここで国道16号線が終わる、という印は特に見えない。じつにそっけなく、国道16号線は、ここで終わる。先細りして、まるで毛細血管のようになって、そして終わる。

国道16号線の終わり。その脇にオレンジ色の屋根の建物がある。

パン屋さんだ。

名前は「アリス」。国道16号線という不思議の国に紛れ込んだ私にとって、ある意味でとてもふさわしい名前である。

せっかくだ。よっていこう。

じつにハイカラな店構えである。店の壁にはステンドガラスもはめ込んである。

「こんにちは」

店に入ると、店の奥では男性がパンをこね、店頭には女性がひとりいらしていた。お話を聞いてみよう。

私たちは、パンを選んだ。

私は、チョココロネに食パン。

カウンターに向かう。

「今日、国道16号線をずっと走ってきたんですが、ここで終点なんですか?」

私は彼女に尋ねた。
「そう。ここが、終点なの」
トングでチョココロネをつかみ、ビニール袋に入れながら、彼女は答えた。

「寂しいところでしょ」

「昔は富津って、海水浴や漁業で栄えていたんじゃないですか」

「よくご存知ね。この通りにもけっこうお店があったの。海苔やあなごやアオヤギが名産でね。海水浴客や潮干狩りの客もたくさん来ていた時代もあったわ。すっかりお客さんは減っちゃったし、並行してバイパスができちゃったから、車もそっちに流れちゃうようになったし」

「店構え、立派ですね」

女性はにっこり笑った。

「このアリスってパン屋は、千葉のこのあたりでは明治時代最初にできたパン屋さんなの」

なんと。アリスは由緒正しいパン屋なのであった。

「三代前の創業者がいてね。彼は、このあたりの大きな八百屋さんの三男坊で、まあ自由にさせてもらっていたらしいの。ハイカラ趣味もあって、千葉でも最初のパン屋さんをやろう、ということになって、親から資金を出してもらってできたのが、このアリス。だから名前もハイカラなのね。戦前からやっていたから、けっこう遠くからパンを買いに来るひともいたみたい。戦時中は、物資がなくなって、いったんパンをつくるのをやめちゃったんだけど、戦後になると、また始めて。地元の景気もよかったから、かなり繁盛したみたい。昭和30年代は、パン屋さんだけじゃなくって、いろいろな稼業に手を出してね。ほら、うちの看板に、的に矢があたっている絵がつるされているでしょ。あれ、お祭りで的に矢を当てる「当たり屋」をやっていた名残なの。そちらの屋号が「かじや」。それだけしょっちゅうお祭りがあったのね」

気づいた。女性のお話しぶりが、とても上品で、そして陳腐な言い方だけど、とても理知的であることに。房総で最初にできたパン屋さん「アリス」の女主人の、私とAM氏は、すっかりファンになってしまった。

「あの。すみません。私たち、国道16号線の話を本にしようと思っていまして。今日の話、書いてもいいですか」

「え、こんな話でいいのかしら」

にっこり笑う女性に、私は言った。

「またうかがいます」

私たちは、パン工房「アリス」を後にして、来た道を引き返した。山際と海とが迫る細い16号線をしばらく走ったあと、行きは寄らなかった、木更津の街の中を抜ける。

雨の木更津。

残念ながらこの日は時間がなかった。車を止めずに、そのまま内房線の線路を渡り、再び国道16号線に入る。

木更津のインターから東京アクアラインに入り、あっというまに川崎、羽田と抜け、山手トンネルを延々と走り、スタート地点に戻る。

6時間かけて柏からたどり着いた富津の国道16号線の終着点。そこから都心に戻るのは高速道路を使えば1時間少々だ。

東京湾を同心円状にとりかこむ国道16号線。この道路を端から端まで移動するのに使う酔狂な人間は、私たちのようなマニアだけだ。でも、今回国道16号線を半周してわかった。かつては、おそらくこの道を頼りに人々は動いていた。物も食べものも、この16号線沿いに動いていた。いま、ひとは16号線を積極的に利用しないかもしれない。けれども、実際に移動すればわかる。東京を支えるさまざまな物流は、いまも国道16号線を頼りにしていることを。そして、その末梢神経にあたる部分には、かつての日本の先端のハイカラが、歴史のアイコンのように残っていることを。

次はどう旅をするか。

もちろん、今度は同じ柏インターから、逆時計周りに、西を目指す。川越、八王子を抜け、できれば、16号線の出発点である横浜高島町まで。

続きます。

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