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メディアの話、その23。赤瀬川原平さんと山下裕二さん「応援」というやりかた。

2000年に、『日本美術応援団』という本を編集した。

著者は、赤瀬川原平さん(写真の右)と山下裕二さん(左)。装丁は南伸坊さんである。

いまから18年前に出たこの本は、日本美術という「古典芸能」におけるビフォーアフターの連接点となった。

大げさではござらぬ。本当にそうなんです。

この本が出るまで、「日本美術」というのは、中学校や高校の美術の授業で「しょうがなく教科書で眺めるもの」であり、京都や奈良の修学旅行で「しょうがなく通り過ぎるもの」だった。大半の人々にとって。

日本美術は、典型的な「カビのはえた」古典芸能のひとつ、だったのである。

私が言っているのではない。1996年、いまはなき「日経アート」(という雑誌があったのです。一般誌じゃないですよ、業界誌です。ビジネス誌です。ある意味、投資雑誌です。そのほか「日経リゾート」とか「日経ギフト」とか「日経イベント」とか「日経ストアデザイン」とか・・・、という我が青春の日経BP社の素敵な雑誌についてはまた改めて…)に、この「日本美術応援団」の連載がスタートするとき、若き日本美術史家である山下裕二さんご自身が、おっしゃっていたことである。

そして、アバンギャルドなアーティストでもあった赤瀬川原平さんは、この連載企画を始めるまで、日本美術に積極的な関心がなかった、ともお話しされている。

カビの生えた古典芸能である「日本美術」を、この2人がどうやってみるか、つたえるか。

なんと「日本美術、おもしろいぜ!」という切り口を前面に打ち出したのである。

……え、そういう切り口なら、いまの美術展、日本美術でも西洋美術でもたいがいやってるよね。「怖い絵」展とかさ。

おっしゃるとおりである。いまや、美術の展覧会はみな「おもしろいぜ!」の面白主義が入り口、というのが定石である。

この定石、明確に提示したのが、このお二人が率いる「日本美術応援団」なのであった。

なにせ「応援団」ですよ、「日本美術」の。

「研究団」でもなければ「解説団」でもなければ「批評団」でもなければ「買取団」でもなければ「強盗団」でもないし「石原軍団」でもない。ただひたすら、「ほら、おもしろいぜ、わっしょいわっしょい」と応援しちゃう。だから、ちゃんと応援団の学ランも着ているのです(フジテレビ衣装で借りました)。

それまでの日本美術に関する言説は「解説団」と「批評団」ばかりで、「応援団」がいなかったのであった。

応援は「学問」じゃない。応援は「客観的じゃない」。つまり応援は「プロの仕事じゃない」というわけなのであった。

しかし、誰も応援しなくなったコンテンツは、忘れ去られた「古典芸能」となる。忘れ去られると、その対象はコンテンツではなくなる。つまり、誰にも伝えてもらえない、言い換えれば、メディア的でなくなる。メディア的にでないものは、「ないのといっしょ」になっちゃうのだ。

古典芸能の世界では、しばしばお客さんがいない問題が浮上する。

その場合、たいがいの場合、問題は「内容が古い」ことではなく、「新規顧客を獲得できていない」ことだったりするのだ。

古典だから「内容が古い」のは前提条件。コンテンツの前提条件と、顧客獲得の問題とを同一視するのは間違いである。

「古いまま」顧客を獲得する方法はある。

それをやったのが「古いまま」の「日本美術」を蘇らせた、「日本美術応援団」である。

「日本美術応援団」は、「日本美術」をメディアコンテンツに蘇らせたわけである。そして、「応援」こそは、古いコンテンツをメディア化する最強のやり方である、と気づいて、博物館や美術館、そして雑誌やテレビの美術特集は、みな「応援」のかたちに変化したのであった。

「応援」は、なんでもないものをメディア化する最強の手法。

赤瀬川原平さんは、「応援」の天才であった。

「超芸術トマソン」も、「ライカ同盟」も、「路上観察」も、役に立たなくなってしまった人工物から、古臭いカメラから、道端の風景から、誰も気づかなかった「魅力」を「再発見」し、「命名」し、「応援」する。

日本美術もしかり。

山下裕二さんは、そんな赤瀬川さんの「応援の天才ぶり」を見抜き、対談のお相手に指名された。

オリジナルの単行本はすでに絶版である。

文庫本が筑摩書房から出ている。

ぜひ、読んでみてください。


https://www.amazon.co.jp/日本美術応援団-赤瀬川-原平/dp/4822241637

すぐれた「応援」とは、すでにあるなにかを「メディア」にする最強の手法である、ということが学べます。ただし、すぐれた応援は、ゼロから何かをつくる以上に、実は難しいこと。

続きます。






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