メディアの話、その55。150人の村が可視化されるとき。

昨日、こんなコラムを読んだ。

朝日新聞ですぐれたメディア論を執筆している平和博さんのブログである。

https://kaztaira.wordpress.com/2018/03/17/「ロヒンギャへのヘイト拡散の舞台」国連調査団/

平さんのコラムはこの1文で始まる。

68万人を超えるミャンマーのイスラム教徒ロヒンギャが迫害され、難民になっている問題で、国連調査団代表、マルズキ・ダルスマン氏は12日、国連人権理事会で報告を行い、ヘイトスピーチの氾濫について、フェイクブックを名指しで批判した。

ミャンマーにおけるイスラム教徒ロヒンギャの迫害問題については数々の報道がなされており、みなさんもよく承知のことと思う。その迫害を助長しているのが、フェイスブックを活用したヘイトスピーチの共有と氾濫、というのだ。

平さんのコラムによれば、ミャンマーの人権問題に関する国連特別報告者のイ・ヤンヒ氏はこう報告している。

特にソーシャルメディアにおけるヘイトスピーチは、センシティブな意見、少数派の意見を抑圧する状況にある。今年1月、イスラム教徒の学生が、深夜にヤンゴンの繁華街にいたというだけで、警官に追われ、殴打され、拘束されるという事件があった。この件はソーシャルメディア上で、反イスラム感情による攻撃の発火点となり、その集中砲火がこの学生に向けられた。私自身もミャンマーにおけるイスラム教徒や少数派の宗教の立場を代弁しているため、ソーシャルメディアで、下品で、ヘイトに満ちた、暴力的な攻撃の的になっている。私が繰り返し述べているように、ミャンマーには、国際標準に沿った、差別や対立、暴力の扇動に対処する法律の制定が必要です。

ここでいう「ソーシャルメディア」が、フェイスブックのことである。

平さんはこう書く。


ニューヨーク・タイムズによると、ミャンマーにおけるフェイスブックユーザーは、2014年の200万人から、2017年には3000万人を超えたという。人口5400万人足らずの国で、その存在感は圧倒的だ。

ミャンマーにおいては、フェイスブックが完全に大人の国民ほぼすべてが利用しているツールになっている、というわけだ。

そんなフェイスブックが、ヘイトスピーチの温床となっている。

くわしくは、ぜひ平さんの記事をお読みいただきたいのだが、ここから先は私の個人的な見解を記したい。

ミャンマーにおけるヘイトスピーチの温床に、フェイスブックがなっている。これは事実であり、フェイスブック本社も認めている模様だ。

ならば、悪いのはフェイスブックなのか。フェイスブックを禁止して、他のSNSサービスに置き換えれば、このヘイトスピーチはおさまるのか。フェイスブックで炎上した憎悪の炎がロヒンギャに向けられることはなくなるのか。

おそらく、いや、絶対になくならない。

フェイスブックをふくむSNSは、最先端のコミュニケーションツールに見えるが、このツールの普及が明らかにしたことは、人間の脳みそは、コミュニケーションと敵味方をつくる心性、認知能力に関する限り、はるか昔の数万年以上前からほとんど進化していない、ということではないか。

このコラムで何度も言及している、進化生物学者のロビン・ダンバーは、人間が脳みその中で処理できる「友達=仲良く集団でくらせるひとたち」の人数の上限は「150人」である、と論じている。

人間の文明は進化したが、個々の生き物としての人間の認知能力は、穴居生活をしていた数万年前から、たいして進化していない。というのも、あらゆる組織は、「友達の数の上限は150人」という法則でだいたい動いているから、というのがダンバーの説だ。

「150人の村」の中では、人間は利他的に振る舞える。そんな互恵的利他主義が、集団遺伝学と血縁淘汰理論の観点からすると、人間という集団生活を行う生き物のDNAのレベルでは「生き残りやすい」条件を満たす。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』でもとりあげられている重要な理論だ。そう、遺伝子が生き残るためには、乗り物たる人間は、血縁の濃い範囲、親しい集団の範囲においては、お互い助け合って、時には利他的に、自己犠牲的にふるまったほうが、その遺伝子集団は、他の集団に比べて、相対的に生き残りやすい、というわけである。

逆にいえば、人間は、互恵的利他主義が及ばない、「別の集団」に関しては、相対的に「冷たく」なるし、ときには「敵」と認識して振舞う。私たちは、数々のレイヤーで敵と味方、自分の周囲と、それ以外を区別する。スポーツのチームも、国家も。

こうした人間の基本的な心性は、しかし言葉と宗教の発明、巨大農業生産を産業革命を通じて、150人をはるか超える集団を、DNAレベルではなく、文系レベルでまとめ上げることに人類が成功したために、「見えにくく」なってしまったかもしれない。『サピエンス全史』にもそうしたくだりがでてくる。

ところが、インターネットの普及と、SNSなどのコミュニケーションツールの発達が、ある意味で私たちを原始時代に引き戻した。SNSでのやりとりは顔が見えない。からだが見えない。だから逆に「本音」が裸で露出しやすい。ひとりごとのように、身内に話すように、赤裸々な本音が拡散しやすい。このSNSの特性は、文明が築き上げた150人の村を超えるサイズの集団をまとめあげるコモンセンスや建前を壊し、自分と気の通じ合う150人の村の「外」の人間に対しては、おそろしく攻撃的に振舞う、という行動を人々から引き出してしまう。皮肉にも、肉体をともなわないコミュニケーションだからこそ、理想主義的な建前を口にせず、自分と異なる人間に対して、イントレランス=不寛容になってしまう。

もしかしたら、私たちはいまだに、150人の村の外に出たら、きわめて不寛容な生き物なのだ、と自認したほうがいいのかもしれない。

ミャンマーにおけるロヒンギャ迫害とフェイスブックを舞台としたヘイトスピーチの氾濫。コミュニケーションの問題という視点でみると、同じ構造は、日本にもいっぱいあるような気がする。

続きます。






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