メディアの話、その30。だれでもメディア時代は「俺に言わせりゃ」時代でもある。

今日は、思いっきり天に唾する話である。

それにしても天に唾するって、すごい表現である。

考えてみると、やったことない。

ためしに風呂場でやってこよう。

……(1分後)。……えーと。ことわざ通りになりました。みなさん、いちいち実験しなくていいです。我がジャーナリズム魂が、実証せねばならない、と敢行したのですが、あやうく目に入るところでした。

とまあ、天に唾するとは、そのくらい危ない行為である。

それをしようというのである。

バレンタインデーの夜、1人で。誰か褒めてくれ。

いまは、「だれでもメディア時代」である。

だれもが(潜在的には)マスメディアのように情報発信ができる。

文章も、音声も、映像も、すべてタダ同然で公表できる。

ツイッターになんか書いたりすると、たいがいは、リツイートが2つくらいだけど、うっかり炎上すると、フォロワー50人のひとが5428リツイートされたりすることだってある。うれしいかどうかは別として、とりあえず、不特定のひとに情報発信ができる時代なのだ。

みんなインターネットとSNSとパソコンとスマホのおかげである。先人の知恵と努力に感謝である。

私たち人間は、そもそもメディアであった。スマホがなくてもネットが通じてなくてもメディアであった。情報を摂取し、解釈し、行動に移したり、誰かに伝えたりする。人間という存在は、かのごとく、比喩でもなんでもなく、メディアそのものなのである。インターネットだの、スマホだのは、そんな人間のメディア機能を拡張しただけ、ともいえる。

ただ、拡張したことで、ほとんどのひとが想定していない事態が起きている。それは、個人レベルで思いついた「ちょっと気の利いた話」が、あっというまに拡散してしまう、ということである。

いまさっき記したように、もともと、私たちはメディアである。ひとが横にいれば、大した用がなくてもコミュニケーションをする生き物である。

そんなとき、いちいちファクトを探し、長年の知見と調査と査読に基づき、歴史と伝統に則りつつ、科学的に新しい発見を織り込んだニュースを開陳するかというと、そんなことは万に一つもない。

基本的には「思いつき」を話すだけである。「思いつき」には、調査も査読も検証もない。だって「思いつき」だからね。

個人間の会話には、調査も査読も検証もいらない。だいたい、おたがいそんなに真剣に話を聞いていない。面白ければかぶせるし、つまらなかったら聞き流す。それで世はこともなし、である。

が、インターネットのような「だれでもメディア変身キット!」(大山のぶ代さんの声で叫んでいただきたい)を、青い背中の耳のないスコティッシュフォールド種の化け猫がポケットから出した瞬間、私たちはとんでもない暴挙にやすやすと出てしまうのであった。

こともあろうに、半径10メートルくらいで受けていた、顔見知りのスナックで受けていた、キレッキレの(当人申告による)「思いつきのいい話」を、となり町のシャチョーさんやママの明美さんにするように、ネットに書き連ねるようになったのである。

インターネットはやっかいである。発信している当人の心理は、ご近所のスナックでテレビを見て思った感想をくっちゃべっているのとかわんない思いつきの「俺に言わせりゃ」話(スナックでクダ巻いているひとの話は、たいがい「俺に言わせりゃ」である。断言する。なぜならば、私がそうだからである。このあたりが、今回の「天に唾する」ところである。また目に何か液体が入った……)を、ネット上にやすやすと開陳しちゃうわけである。ご開帳しちゃうわけである。

で、ですね。インターネットのおっかないのは、こういう「俺に言わせりゃ」を、だれもがいつでもやっちゃいがち、ということなんですね。つまり、マスメディアで鍛えられてきたひとや、ガクモンの世界で名を成したひとまでもが、「うっかり」飲み屋で話すように「俺に言わせりゃ」を開陳しちゃう。その開陳は、たいがい自分の専門からちょびっと外れたところのネタの場合が多かったりする。

すると、何が起きるかというと、ときどき戦争が起きる。しかも空中戦である。

なぜ戦争が起きるかというと、誰かの「俺に言わせりゃ」は、別の誰かの「俺に言わせりゃ」と真っ向から対立することがママあるからである。

ママ〜ドゥ・ユー・リメンバー、とフレディー・マーキュリーも歌っているように、ママ、ぜひ思い出していただきたい、そのことを。

→とうっかり書いたら、さっそくリメンバーは「野生の証明」のジョー山中だろ!とツッコミをいただいた。フレディは、ママ〜アイ・ジャスト・キルド・ザ・マンですね。この辺りポカも、「俺に言わせりゃ」の特徴です。。。。ご指摘感謝。

なぜ、空中戦かというと「俺に言わせりゃ」はたいがい「思いつき」であるからである。その戦争に参加しているひとの大半は当事者じゃないからである。というわけでので「俺に言わせりゃ」のぶつけあいになる。クィーンあるいはジョー山中というよりはクレイジーケンバンドである。「俺の話を聞けえ」である。そんな「俺の話」は、どっちもそれなりに「ふむふむ」ってところがあったりすることもあるし、あるいは圧倒的に(これに関しちゃ白組の圧勝だなあ)ってときもあるけれど、ただ、それだけでは結局決着がつかないことがほとんどである。

なにせ、「思いつき」と「俺に言わせりゃ」の応戦なので、理屈やレトリックの巧拙くらいしか勝負の判断材料がないのである。どっちの俺の話にも、スナックの世間話と同様、調査も査読も検証もない、というケースがとっても多いので、結局、白組と赤組は両陣営に「うちが勝った」と帰っていくだけだったりするのであった。

そういうのはけしからん! 調査だ査読だ検証だ、という話ではありません。(もちろん、そういう論戦があってしかるべし、という分野はあります。プロの学者やジャーナリストが、専門分野で戦うときがそうですね)。

つまり、だれもが瞬時にコンテンツをどんどん発信できるという、従来のメディアにはないインターネットの特性は、裏を返せば、調査も査読も検証もない「思いつき」や「俺に言わせりゃ」が大量に流通する、ということである。

はい、そうです。このnoteの「メディアの話」こそは、まさに「俺に言わせりゃ」の典型なわけです。わかっちゃいるけど、やめられない。わはは。

天に唾したけど、続きます。


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