メディア論79 奇想の系譜展にて

東京都美術館で開催されている「奇想の系譜展」にやられた。

個々の作品は触れていたけれど、キュレーションにやられた。

ものすごいエンタテインメント映画を1時間30分ノンストップアクションで見せられた感じ。息つく絵が1枚もない。ここ数年の美術展で、個人的に圧倒的ベスト。

山下裕二さんのキュレーションの集大成。背後にはもちろん辻唯雄さんの「奇想の系譜」がある。

以下、感想をガンガン書く。

1、日本美術は、やっぱり漫画とアニメに直結している。

2、若冲はじめ、日本の江戸時代美術家は、なぜ「鳥」にこだわるのか。彼らの鳥の絵を見て思った。横に並ぶのは、象であり、虎であり、唐獅子であり、青獅子であり、竜である。全て、「空想で描いたバケモノ」たちである。それと並んで鳥を描く。徹底的に写実的で、その動作も、表情も、写真以上にリアル。なのに「バケモノ」たちの絵と遜色ないほど、若冲たちの描く鳥はバケモノ的だ。なぜだろう。それは、鳥の身体のテキスタイルの組み合わせが「この世のものとも思われない」異形だからである。鶏の、金鶏の、孔雀の羽をみよ。尾羽と胸の羽毛と翼と風切り羽根の形と色のあまりの差異をみよ。全く異なる物質、全く異なる色彩が、よもやのバランスで組み合わさる。そして優美な羽の下から伸びる、鱗だらけの足。鋭い爪。その形態は、そのまま、竜の足のモチーフになっている。さらに、目玉は丸く虚ろで、時にユーモラス。そして、クチバシは、柔らかな羽毛から、全く異なる様相で飛び出ている。こんなヘンテコな化け物的生き物はいない。この化け物の異形を何とか描きたい。その偏執が、若冲の、蘆雪の絵からは感じ取れる。

 そんな折、ミャンマー産の琥珀から恐竜のカラフルな羽毛が見つかったニュースが流れている。すでに知られているように、鳥は恐竜の末裔、現代に生き残った飛べる恐竜である。

 それで気づいた。若冲も蘆雪も鳥の恐竜性、怪獣性に気づいたのだ。彼らは無意識のうちに、恐竜図鑑、怪獣図鑑を作っていたのだ。現代の怪獣デザイナーが鳥をモチーフにして、様々な怪獣を作ったのは結果として、若冲や蘆雪と同じ眼差しを鳥に向けたからだ。鸚鵡そっくりのガッツ星人を、ヒグチユウコが、世田谷文学館の展覧会で描いていたのは、偶然ではないのだ。

3 若冲が鳥を描き、虫を描かなかったわけ

 一方で、今回改めて若冲らを見て気づいたことがある。それは、彼らが虫をほとんど描いていない、ということである。鳥に負けない異形の生き物は、圧倒的に昆虫類である。蝶の羽の模様、クワガタの牙、蛾の毛虫のおどろおどろしさ。いずれも、彼ら好みの匂いがする。けれども、虫の絵はほとんどない。なぜか。 

 私の仮説は、老眼鏡がなかったから、である。グーテンベルグ の印刷物が普及した時、副次的に産業となったのは、メガネ、しかも老眼鏡だった。印刷物が普及するまで、多くの人は、近くのものを念入りにみる必要がなかった。ところが活字を読む機会が増えると、人々は気づいた。「俺、老眼だ」 そこでヨーロッパではメガネが普及した。最初はだから老眼鏡の方だ。そして、そこからさらに副次的に、顕微鏡と望遠鏡が生まれた。ロバートフックが細密なノミの絵を残した。

 が、おそらくだが、江戸中期の日本には、さして老眼鏡は普及してなかったのではないか。つまり、昆虫のような小さなものを見るだけの視力を画家たちは持ち得なかったのではないか。もし、彼らが、老眼鏡を顕微鏡を手にしていたら、若冲の昆虫図鑑を、私たちは楽しむことができたのでなないか。

4 岩佐又兵衛の絵巻の登場人物たちの顔の描きわけが面白い。

山中常盤物語の、女性2人を襲い、強姦し、刺殺する、野党どもの顔は、実に魅力的に描き分けられている。誰一人として同じ顔がない。

ところが、堀江物語絵巻に登場する、貴族たちは一律同じ顔をしている。のっぺりと個性がない。

5 岩佐又兵衛を筆頭に、彼らの絵では、衣装、建物の文様などが個別具体的に、細かくキャラクター設定画のように1人1人、一軒一軒描き分けられている。その時の模様の載せ方は、まるで漫画のスクリーントーンのようだ。

6 岩佐又兵衛の絵巻は、エログロアニメだ。

7 歌川国芳は1枚の絵で、アニメーションを実現する。あの動きは何だろう。

8 白隠慧鶴は、漫画のキャラクターを日本で最初に作った人かもしれない。





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