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メディアの話その4。浜松テレビと「イ」と理系と。

1976年、名古屋から浜松に引っ越したとき、一番衝撃だったのは、テレビの民放が2つしかないことだった。

TBS系のSBS。フジテレビ系のテレビ静岡。以上である。

テレビ朝日(当時はNETという名だったはずだ)系も、日本テレビ系もない。(いまは、ある。)テレビ東京(まだ東京12チャンネルと呼んでいたと思う)系? あるわけがない。たぶんいまもない。

テレビ全盛期の小学5年生としては一大事である。

そもそも、遡ること3年前、茅ヶ崎から名古屋に引っ越したとき、東京12チャンネル系が名古屋にはないことを知り、愕然としたのだ。マンガキッドボックスが見られないではないか! ちなみに名古屋に引っ越したとき、地方には地方独自の番組がある、ということをはじめて知った。「天才クイズ」は実に面白かったなあ。

話を戻す。いや、まだそもそも話自体が始まっていないか。

浜松には、テレビ局が少ない。名古屋で視聴していたいくつもの番組が見れない!

その事実に打ちひしがれ、あてどもなく自転車で彷徨うヤナセヒロイチ少年11歳。東名高速道路沿いの、冬の風がびゅんびゅん吹く、田んぼの中の1本道。

田舎のバカヤロー!

看板の大きな文字が目に飛び込んできた。

浜松テレビ。

聞いたことないぞ、そんなテレビ局。

が、しかし、目の前には、たしかに「浜松テレビ」という看板が、ある。

もしや。

UHF?

地方のローカルテレビ局の中には、通常地上波を流すVHFではなく、UHFを使っているケースがある。

僕がVHFのチャンネルしかチェックしてなかっただけで、実は「浜松テレビ」という未知の局があるのではないか!

ヤナセ少年は寒風吹きすさぶ田んぼ道を自転車で引き返し、洟をたらしながら、家に帰り着いた。

さっそくテレビのスイッチを入れる。

UHFのチャンネルをひねる。UHFは、VHFのチャンネルと異なり、がちゃがちゃクリックがあるわけではなく、ラジオのチューニングのようにくるくる回る(……だったはずだ。うろ覚えである。)

砂嵐。

見つからない。浜松テレビ。

あれだけでかでかと看板を出していたのに。

どこにいった、浜松テレビ。

夕ご飯になった。

「あのさ」

母親に聞いてみる。

「浜松テレビって、知ってる?」

「知ってるよ」

なんと! 母親が知っていた!

「え、どのチャンネル?」

「?」

「テレビつけても、浜松テレビ、映らないんだけど」

母親は笑い出した。

「あんた、あれはテレビ局じゃないわよ」

「浜松テレビって、会社の名前。たしかね、日本で最初にテレビつくったの」

え? テレビ局じゃなくって、テレビをつくった会社?

ナショナルとかビクターとかソニーみたいに?

でも、浜松テレビって、テレビ、電器屋で見たことないし、コマーシャルでも流れたことないぞ。

 1976年にインターネットは存在しない。よって検索で調べることもできない。謎の浜松テレビ。ヤナセ少年はその疑問を抱きながら眠りについたのであった。

疑問は、意外なかたちで解決した。

小学校の社会科見学である。

浜松には、静岡大学の工学部がある。

この静岡大学工学部のキャンパスを社会科見学で訪れたのだ。

静岡大学の本拠地は、静岡市の日本平にある。でも、工学部だけは別。なぜなら、戦前の浜松高等工業学校を戦後に合併してできたのが静岡大学工学部だからである。浜松は戦前から繊維産業がさかんで、空軍基地もあったりして、工業の集積地であった。

トヨタも源流は浜松にあるし、ホンダも、スズキも、ヤマハも浜松。自動車産業のふるさとみたいなところなのだけど、こうした工業の裏には、浜松高等工業高校の人材があったからなんですよ、と小学校の社会科見学で案内してくれた、静岡大学のひとは、教えてくれた。

「それからね、テレビも実は浜松が発祥の地なんです」

「この浜松高等工業高校の先生だった、高柳健次郎先生が、昭和のはじめに世界で最初にテレビのブラウン管で映像を送ることに成功したんですよ。そのとき送られた映像に映っていたのがこちらの文字です」

世界最初に、ブラウン管が送り届けたのは、カタカナの「イ」の字だった。

その「イ」の字の写ったモノクロのぼやけた写真をみせてくれながら、静岡大学のひとは話を続けた。

「高柳先生は、そのあとNHKでテレビの研究をしたり、戦後は日本ビクターに加わってテレビの開発をしました。だから高柳先生は、『日本の、テレビの父』なんです」

なんと、浜松は、「テレビの発祥の地」だった。テレビは、放送局ができるまえに、ハードウェアとしてのテレビとその映像を電送する技術とがなければ存在しなかった。工業都市、ブルーカラーの街、民放が2局しかない浜松が、最大のメディアの根っこを作っていたわけである。

家に帰ったヤナセ少年は、「浜松はテレビ発祥の地」であることを、母親に自慢げに話すのであった。すると母親は、ふふんと笑う。

「前に、浜松テレビの話、してたでしょ。あの浜松テレビ、高柳さんのお弟子さんがつくった会社よ。テレビの部品の真空管とか、なにかむずかしい機械をつくってるはず」

そうだったのか。

謎が、とけた。

浜松テレビは、たしかにテレビの会社だった。ただし、放送局じゃない。テレビそのものをつくっている会社だった。テレビ受像機のなかの、真空管なんかをつくっていた会社であった。

その後、浜松テレビは名前を変える。

浜松ホトニクス。

光電子倍増管技術の世界トップを走り、日本が誇る超優良企業である。ノーベル物理学賞をとった小柴先生のスーパーカミオカンデにも浜松ホトニクスの光電子増倍管が使われているはずだ。いまは、インターネットやウィキペディアがあるので、詳しく知りたいひとは、そっちを見てください。

いま考えると、浜松テレビという社名は、実に示唆に富んでいる。一般的に「浜松テレビ」とあったら、他の土地のひとならば、かつてのヤナセ少年同様「浜松の地元テレビ局」と勘違いするだろう。でも、浜松テレビという名の本当の意味は、「浜松発祥のテレビ技術を継承した会社」であった。

浜松テレビは、浜松のテレビ放送局である以上に、「テレビの会社」であった。あらゆるメディアは、ハードが先、コンテンツがあと、である。まず、ハードウェアとしてのメディアが発明され、そのメディアに乗っかるコンテンツの伝達方法が次に発明され、コンテンツそのものはそのあとにいろいろな人たちが「発見」し、うまく広がると、マスメディアになる。新聞や雑誌や書籍のもとをたどれば、グーテンベルグの活字の発明と聖書の普及に至るわけだし、エジソンが蓄音機を発明したからレコードが普及したわけだし、映画も写真もイーストマンがフィルムを発明したから発展したわけだし。

どうやら、メディアというのは、本来、理系の、いやもっというと工学系の、技術系の、お仕事から必ず始まるようだ。

でも、一般的にメディアのお仕事は、文系っぽく見られている。

なぜだろう。それは「タイムラグ」のせいじゃないか。

テレビの場合。

高柳先生が「イ」の字をブラウン管で「放送」したのが1920年代、日本にテレビ局ができてみんながテレビ番組に夢中になったのは1950年代。30年ものタイムラグがある。30年といったら「会社の寿命」である。サラリーマン人生1単位である。入社してから退職するまでの長さに近い。戦争を挟んでいたということもあるだろうけど、コンテンツを配信できるだけのハードウェアと放送技術の熟成には、そのくらいの長い時間が必要だった、ともいえる。

だから、50年代の初期のテレビ放送では、工学系のひとの姿は表に見えない。コンテンツづくりで活躍の中心を担ったのは、映画や演劇の人だったり、黒柳徹子さんだったり渥美清さんだったりする。エンタテインメントの仕事が主役なのだ。もちろん現場にさまざまな技術者がいて成り立っているに決まっているのだが、脚光をあびるのは、エンタ系の才人たち。

ただ、インターネットの時代になり、矢継ぎ早に新しいメディアのプラットフォームが生まれるようになると、工学系の技術が培ったメディアの上に、すぐコンテンツが載せられるようになった。あらゆるコンテンツをデジタル化すれば、融通無碍に流通させられるからだ。コンテンツはとりあえずデジタル化すれば、どこでも流通できる。映画とラジオとテレビと雑誌と新聞と書籍とライブのコンテンツが、すべてデジタルにすると平等に流すことができる。ここが、従来のメディアとずいぶん違うところだ。つまり、メディアの特性にいちいちあわせなくても、デジタル化するだけで、コンテンツを流通させることが可能なのである。

となると、コンテンツビジネス以上に、新しくって覇権的なハードウェアとしてのメディアの発明と使い勝手のいいメディアプラットフォームの構築のほうが、メディアビジネスの主人公と成り得る。実際、SNSなどは、流れているコンテンツの大半は素人のもの。ビジネスを規定しているのは、まずは技術者たちが作り出したSNSそのものの設計のほうとなる。

あらゆるコンテンツがデジタルに変換される時代は、メディアビジネスの主役は、エンタテインメントの人たち以上に、工学のひと、技術のひと、理系のひと、ということになる。そして、理系のひとたちが作り出したメディアのプラットフォームのうえに、コンテンツがそのままのっかって、メディアそのものになったりする。

ヤナセ少年が勘違いした放送局としての浜松テレビ。ネット時代は、かつての技術屋としての浜松テレビがそのまま放送局にも成り得ちゃうのかもしれない。

非常にとっちらかったけど、まだ続きます。

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