メディアの話、その58。「医療=自分の命」の問題と科学と感情。

今日、同僚の若い記者と話をした。

彼女は、医療系媒体の出身である。

しばらく話していて、気づいた。

そうか。

どれも「医療」の問題だったのか。

東京電力福島原子力発電事故に伴う「放射能」の問題。

老人介護の問題。

子宮頸がんワクチンの問題。

いずれも「もめ続ける」問題である。

なぜ、もめ続けたのか。

それは、ここに挙げた問題がいずれも、広義の意味で「医療」問題だから、ではないか。

医療に関する問題は、「もめやすい」。

医療に関する問題、とはつまり、医療という「人間という生き物についての生物学」=「医学」の技術の話である。にもかかわらず、医療に関する問題に直面すると、私たちはしばしば、「科学」の視点以上に「感情」を先に出してしまう。これは、メディアの受け手だけではない。メディアの送り手も同様である。

医療に関する問題について、メディア=人は、感情的になりやすい。医療に関する問題は、つまるところ、自分と自分の愛するものの「命の問題」だからである。

人間は、自分自身や近親者の健康の問題になると、「感情」もっといえば「不安」や「恐怖」でまず反応してしまう。

死に対する恐怖。痛みや苦しみに対する不安。

すなわち、「命の問題」である。

死にたくない。痛いのは嫌だ。長生きしたい。健康でいたい。

「科学」的なひと、合理的なひとだって、いざ自分ごととなると、簡単に「感情」の人になる。死期の迫った科学者が宗教に帰依する。重い病気にかかったジャーナリストとその家族があらゆる民間医療にすがる。どちらも、実例がある。もちろん、私も、自分が重い病気にかかってもそうならないと断言できるかというと甚だ怪しい。

死への恐怖。痛みに対する恐れ。

どちらもおそらく人間には先天的に備わっている感情だ。

死ぬのが怖い。痛いのはやだ。どちらも、人間が生き残る上で、むしろ欠かせぬ感情だったはずだ。死が怖いから、痛みが怖いから、人間はリスクを回避し、対応する手段を講じ、より長生きするようになった。

人間はここで2つの処方箋を生み出す。自分の心に対しては例えば宗教を、自分の肉体に対しては医療を。

宗教の発明も、医療の発展も、死に対する根源的な恐怖とつながっているはずである。

人間に意識が誕生して以来、私たちは、死の恐怖と痛みへの恐れをいかに回避するか、常に考え、処方箋を提示してきた。

結果、私たちは宗教と医療=科学文明とを同時に発達させてきた。

けれども、皮肉にも、医療のベースである科学文明が人間の感情が追いきれる時空のサイズを超えて発達してしまうと、私たちは、自分たちの感情的な不安を恐怖を科学文明による処方箋だけでは抑えきれなくなってしまう。

「科学」の発明は、人間が体感的に獲得してきた知性を超える状況を生み出す。

原子力発電に対する感情はその典型だろう。人間の文明が生んだ原子力発電は、巨大なエネルギーを生み出すとともに、人間の本性=感情だけではそれに対する理解も不安も解消できない、長期間にわたってのリスクを同時に生み出す。放射線汚染にまつわる話で「数千年、数万年」という単位が出てくると、私たちの感情はフリーズする。

無理じゃん。こわい、と。

人間は、目の前に恐怖の対象があったら、瞬時に回避する道をつけて、避ける。

死への恐怖の対象があったらとっと避ける、というのは、人間という生き物の生き残り戦略という立場になると、極めて常識的な判断である。

ただし、この「生き物のとしての人間」の「本性=感情」による判断では、正否がつけられない事態が、現代の世の中にはたくさんある。人間の本性=感情は、その場その場の状況判断においては、むしろ合理的な選択をする。けれども、人間自身が作り出した巨大な文明、とりわけ科学文明が作り出した物事が起こすリスクへ対応できるようには、人間の感情はおそらく「進化」していない。科学文明の作り出したリスクに対応するには、科学的な「論理」で対応するしかない。でも、その発想は、おそらく人間にとっては、本来「不自然」なことである。自らの本性に備わっていない後天的な知恵だからである。

だから、人間は巨大文明の作り出した事象に対して「科学的」じゃない判断、「合理的」じゃない判断を下すことが結構ある。

話はずれるが、「サンクコスト」という概念がある。埋没費用。埋められたコスト。これは、ビジネスの世界でよく使われる概念だ。人は、あるビジネスに自分の時間と技術と手間とをずっと投じていると、そのビジネスが例え失敗に向かっていようとも、なかなか中止をする、という判断が取れなくなる。なぜなら、すでに投じたコスト、つまりそのビジネスに埋められた「サンクコスト」に縛られて、「もったいない」と思っちゃうからである。ビジネスが上手な人は、時として「サンクコスト」を容易に切り捨てることができる。じゃあ、サンクコストを気にしてしまう人はバカなのか。行為としてみると結果としてバカだった、というケースはたくさんあるはずだ。というか、誰もがサンクコストに縛られて失敗したことがあると思う。恋愛なんかでは、よくある話である。サンクコスト切捨てを説くバリバリのビジネスパーソンが、飲み屋のお姉さんに入れあげてサンクコストに縛られたまま延々カモられる、なんて話は枚挙にいとまがないだろう。

つまりだ。サンクコストに縛られる、というのも、おそらく、人間の本性であり、結果として合理的でより個々の人間の生き残りにとって有利だったからではないだろうか。一つのところで頑張って狩をしたり、農産物を作ったり、異性にアプローチをし続けられる個体の生存率の方が結果として高かったら、サンクコストに縛られるという感情は、私たちのDNAのどこかに刻まれているかもしれない。

けれども、たくさんの人間と巨大な資本と長期にわたる未来への投資を考えなければいけない現代ビジネスは、人間個人の本性で判断できる規模をおそらく超えている。

だから時として、自分の感情より理性を優先させてサンクコストを切らなければいけない、という事態が起きうるのではないか。

話を戻す。

冒頭に挙げた「もめる問題」のもめ方は共通していて、「感情」が大切か、「科学」が正しいか、の二項対立になっているケースが多い、ということである。ある事象に対する科学的な見解の差が生み出す対立というのはもちろんたくさんあるが、「医療」が絡んでくると、そこに「感情」というファクターがものすごく重要になる。結果、感情と科学という本来ならば二項対立にしてはいけない2つがぶつかることになり、ますます解決がつかなくなる。つまり「もめる」。

放射能汚染が怖い。自分を、自分の子供をここに住まわれせるわけにはいかない。

放射線量を計測したところ、すでに事故がない場所よりも線量は変わらない。自然状態でここより線量の高いところはいくらでもあるし、飛行機に一回乗るだけ遥かに多くの放射線に人間は被爆している。リスクの面で考えると、ここに住んでも、放射能汚染による被害を人体が受けることは考えにくい。

感情と科学。2つの意見は、並列したままなかなか交わらない。

私自身は、人間が作った巨大文明の犯すリスクに関しては、結局のところ、その巨大文明が作る処方箋に頼るしかない、と考えている。感情だけを優先し、理性を、科学を否定する道を選ぶ道には未来はない、と判断している。

でも、昨日、若い記者と話していて気づいた。

もしかすると、そう考えてしまうだけでは、情報発信をする側の態度としては不十分ではないか、と。

医療に関する問題について、一番の当事者は、お医者さんである。

お医者さんの仕事は、患者さんを救うことだ。

患者さんを救うため、お医者さんは、最先端の医療を、つまり科学を使う。けれども、(優れた)お医者さんは、患者さんに対して、まず何をするか。患者さんの非合理的な不安や選択を一笑して、科学を押し付けるのか。おそらく違う。(優れた)お医者さんがやるのは、まず患者さんの感情のケアである。恐怖を理解し、不安を受け止める。感情を認めてあげて、不安をとき、その上で、治療に関する科学的な説明を行い、科学に基づいた治療を行い、医療を投入し、医薬を活用する。(優れた)お医者さんは、二項対立の道を選ばない。人間の感情を否定しない。感情を理解した上で、科学的な道筋を提示する。

優れたお医者さんの、患者さんに対するアプローチ。

二項対立に陥りがちな「医療に関する問題」「命に関わる問題」を調査し、報道し、論じるメディアやジャーナリストに求められるのは、そんなお医者さんのようなアプローチかも知れない。いや、それは、科学全般の伝え方に求められるアプローチかもしれない。ということは、科学文明に携わるひと全てが、優れたお医者さんにならなければいけないのかもしれない。

メディアやジャーナリストだけじゃなく、科学者や研究者に至るまで。

となると、やはり科学の「広報」をどうブラッシュアップするか、という問題に既決する。

ポイントは、それぞれの事案に対して、なぜ人は感情的になるのか、恐怖を抱くのか、その疑問をきっちり分析し、それこそ論理的に原因を究明することだ。その究明があって初めて、科学を伝えることができるのかもしれない。つまり、人間の感情を理解し、対応することとセットでないと、科学を伝えることは結構困難だ、ということだ。

続きます。



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