メディアの話、その20。小網代とかけがえのない風景と自動運転。

1985年、大学2年生のときから、三浦半島の先端にある「小網代の森」に出入りをしている。

70haほどのこじんまりとした緑。明治神宮とほぼ同じサイズ。ただし、ここは関東地方で唯一の自然環境、実に希少な緑なのだ。

完璧な河川流域、川の源流から河口の干潟にいたるまで、複数の支流から本流にいたるまで、家もなければ工場もなければ舗装路もない。流域という自然の単位がまるごと1つ残された場所なのである。

「ひとつの流域」という自然パッケージがまるごと残されている、しかも世界最大の都市東京の通勤圏内という大都市エリアで。

90年代に横浜で国際生態学会議が開催されたとき、海外から訪れた複数の生態学者が小網代を訪れ、「同じ緯度で北半球を巡るベルトをとってみると、アメリカ大陸、ユーラシアの両大陸にこうした自然はないかもしれない」と話していた。

流域という自然パッケージがまるごと保全されているから、森、湿原、川、干潟、海、それぞれのエリアでとても豊かな生物多様性が残されている。これまでの調査では、干潟を中心に確認される150種を超える絶滅危惧種をふくめ約2500種ほどの生き物がリストアップされている。

小網代の谷と森は、私が出入りするようになった1985年、ゴルフ場を中心とするリゾートに、という開発計画が立ち上がった。その計画を「反対」する代わりにリゾート開発自体には「賛成」し、ゴルフ場の代替案として「流域まるごと残した自然を、教育観光資源に」というコンセプトで、まさかの保全に成功させたのが、恩師である慶應義塾大学の岸由二さんである。

岸さんは、もともとは気鋭の進化生物学者で、いまや誰もが知る、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』や、EOウィルソンの『人間の本性について』などを翻訳し、日本の生態学の領域にまともな社会生物学とネオダーウィニズムの理論を最初に紹介した。

私はたまたま彼の授業をとり、そのまま小網代の保全にひきずりこまれた。

で、30年がたち、小網代は保全が確定し、2014年には木道が通され、一般開放されるかたちで開園した。

でも、これでめでたしめでたしではない。というのも、70haの小さな自然は、矛盾するようだが、人間がこまめに手入れをしないとあっというまに荒れ果てて、むしろ生物多様性を大幅に減じてしまうのである。

このため、岸さんが代表を務めるNPO小網代野外活動調整会議が、定期的にスタッフやボランティアを派遣して、こまめな整備を行っている。湿原のササを刈り、大きくなりすぎた木の枝を落とし、川筋を調整して、常に適切な光と水とが谷にいきわたるようにマネジメントする。

そんな小網代の森の話は、また改めて紹介したい。というのも、こうした自然の手入れのあり方は、メディア論と直接大きくかかわるからである。

今回、記そうと思ったのは、この小網代のある三浦半島の話である。

三浦半島の街の多くは、いま残念ながら人口減少の危機にある。多くの地方都市同様、高齢化が進んでいる。たとえば、三浦市は、農業と漁業が中心で一部観光業が存在するが、観光業のほうは、かつてほどのにぎわいはみせていない。

ところが、この小網代の森が2014年に近郊緑地特別保全地区として一般開園すると、翌年の2015年には年間10万人以上が来訪した。ちなみに三浦市の人口は約4万4000人である。

なぜ、そんなに人がやってきたのか。

小網代の森にいらしていただくとおわかりになるが、アミューズメント施設があるわけではない。周辺にゴージャスなホテルがあるわけでもない。有名な飲食施設がならんでいるわけでもない。ないないだらけである。

でも、たくさん人がやってきた。

2016年夏には、天皇陛下と皇后陛下がいらっしゃった(ご案内したのは岸さんでした)。

理由は、明白である。

小網代が「すばらしい風景」だからである。しかも「かけがえのない」。

小網代ばかりではない。三浦半島の西側の134号線沿いの丘に、天気のいい夕方、佇んでみてほしい。東から、房総半島の先端、遠く大島、伊豆半島の全景、箱根山、その向こうに雄大な富士山、江ノ島、大楠山、そして相模湾の青がすべて見渡せる。

これまた、「すばらしい風景」である。しかも「かけがえのない」。

ごらんになれば、北斎の版画を思い起こすだろう。そして、現実の景色は北斎のそれをも上回る美しさなのだ。

なのに、三浦半島の西側に、そして小網代の周辺には、いまのところ、この「すばらしい風景」をコンテンツとして、ビジネスにする動きはまだあまり見られていない。

それはおそらく、「すばらしい風景」こそが、21世紀におけるもっとも希少性の高い、ビジネスコンテンツ、メディアコンテンツになる、ということを実感している人が、まだ少数だからではないだろうか。

これからいちばん価値を持つコンテンツ、それは、「すばらしい風景」である。

ひとびとは、「すばらしい風景」を求め、「すばらしい風景」の見えるところに遊びに行き、「すばらしい風景」の中に住もうとする。

「すばらしい風景」は、五感で感じるものである。

「すばらしい風景」は、コピー&ペーストもできなければ、VRでもAIでも代替不能である。つまり「かけがえのないもの」である。

今後いちばん価値を持つのは、あらゆるジャンルの、バーチャルでは体験できない「かけがえのないもの」。

インターネットでやりとりできないもの。VRで仮想体験しただけでは飽き足らないもの。むしろ個々人の人生や価値観のなかで、日常的にともにありたいもの。

「すばらしい風景」は、そんな「かけがえのないもの」の代表選手である。

この「すばらしい風景」は、ひとによって異なる。

私の場合、「小網代」と「三浦半島」は「すばらしい風景」だが、別の人にとっては、まったく別の風景が「すばらしくってかけがえがない」かもしれない。

ひとは、自分が「すばらしい風景」と思ったところを目指せばよい。

ただし、こうした「すばらしい風景」は、往々にして「交通不便」なところにある。

三浦半島小網代は、京浜急行三崎口駅から徒歩で15分のところになる。けっして不便なところではない。が、小網代の海側のほうとなると、ヨットハーバーなどがあってとっても素敵なのだけど、バスを使って20分以上かかる。駅まで徒歩で駅まで通うのはやや手間がかかる。

毎月2回か3回は小網代や三浦半島に東京から通っている私だが、定住するのは、都心部で勤め人として仕事をしている現在のところ、現実的ではない。移動手段の確保が難しいからである。

さらに、三浦半島の雄大な「すばらしい風景」を味わえるエリアの大半は、京浜急行三崎口駅と、横須賀線および京浜急行逗子駅の中間に位置する。

仮に東京方面に職場があるとすると、サラリーマンの場合、平日の通勤はかなりの気合が必要である

もったいない。

が、私はこの三浦半島の「すばらしい風景」に人がたくさん引き寄せられるときがくる、とにらんでいる。

ターニングポイントは、自動運転である。

自動運転の普及は、日本全国の過疎地に対する福音となり得る。そして、都市集中こそが人口減少時代のまちづくりのソリューションという近年の風潮を変えるかもしれない。

では、自動運転は人々がばらばらに住む時代をつくるのか。

おそらく違う。人々は今後も集落を作り続ける。

ただし、その集落の中心が可変的になる。

現在の都市は、鉄道の駅を中心とした構造でできあがっている。

とりわけ首都圏、京阪神では、駅を中心とする都市の中心部に企業が集約され、そこに周辺から勤め人が通勤する。勤め人はもっぱら鉄道で移動する。このため、人々の動線は「鉄道」と「駅」に縛られやすい。

自動運転が普及すると、この構造が変わり得る。

鉄道の駅からある程度離れた場所であっても、人々が暮らし、都市部に通勤することが可能になる。いや、そんな時代になるとオフィス時代の場所そのものが変わってくる可能性もある。

すると、「自分の好きな風景」を中心に、人々の集う場所が再編集されていく。

この流れは決して夢物語ではない、と私は思う。

実は三浦半島の付け根では、鎌倉、逗子といった鉄道が通っているエリアで、鎌倉や逗子の「すばらしい風景」に住みたい人たちが東京から移住する動きが数年前から出てきている。

個人的に見ても、私の友人の多くが、実際にこのエリアに移り住み、地元で生活し、地元でビジネスを始めている。

ただし、この流れが見られるのはぎりぎり葉山までである。というのも、都心に通勤するのは、それ以上逗子や鎌倉の駅から離れると困難になるからである。

けれども、自動運転システムが配備され、自動車がネットワーク化されると、話はまったく変わってくる。佐島の丘の上や「ヨコハマ買い出し紀行」の舞台となった黒崎の鼻まで、自動運転カーが行き来をし、もよりの駅まで落としてくれる。

お酒を飲んでも大丈夫。深夜でも早朝でも大丈夫。免許をもってなくても大丈夫。子供でも老人でも大丈夫。

となると、三浦の風景を「すばらしい」と思うけど、都心に通うのは難しいなあ、と躊躇していたひとたちが、移住することが可能となる。

三浦半島の話はほんの一例だ。おなじような動きが、日本全国で起こり得る。つまり、いまは過疎化に悩まされている、潜在的には「すばらしい風景」がある場所に、新しい居住価値、新しい観光価値が生まれる可能性が出てくるのだ。

「すばらしい風景」があるのに人が集まっていない地域は、手を上げて、自動運転の特区となり、いちはやく、自動運転ライフを具現化する、というのは未来を見越した一つの道だ。

まちがいなく自動運転の時代はやってくる。

となれば、最高の地域おこしは、「すばらしい風景」の再発見と、保全と維持、そして自動運転のセットで実現するはずだ。

繰り返すが、自動運転の普及はあくまでターニングポイントである。普及するわけだから、自動運転は、究極のコモディティとなる。誰もが利用できる電気や水道のような存在になる。

差別化できるのは、そう、その場所にしかない、「すばらしい風景」「かけがえのない自然」「唯一無二の文化」なのである。

風景を再発見し、メンテナンスする。メディアコンテンツにして、その魅力を外部の人にプレゼンテーションできるようにする。

自動運転とセットですばらしい風景をコンテンツに街を作り直す。

持続可能なまちづくりが、それで可能となる。

いまはやりのSDGsも軽〜く実現できる。

日本のGDPの停滞と少子高齢化を考えると、今後地方を補助金で救うのはますます難しくなる。

となれば、都市部以上に少子高齢化に悩まされている地域はいま以上に「自活」が求められる。好むと好まざるとにかかわらず、自立した経済体系を個々の地域がつくっていく必要が出てくる。

そのとき、「すばらしい風景」「かけがえのない自然」「唯一無二の文化」をコンテンツとして磨き、自動運転という執事を活用して、人々を集める、というのが、有効な方法となるはずだ。

これは、まさにメディア的な仕事でありながら、もっとも泥臭い手を汚す仕事でもある。AIだけではできない仕事。

続きます。





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yanabo

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コメント1件

かけがえのない、ということは、代替が不可能と言うこと。そもそも自然とはそういうものであったことを、思い出しました。
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