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メディアの話、その21。生き物はメディアであり、メディアは生き物である。

えー、生き物は、そもそもがメディアであります。

人間は、さらにさらにメディアであります。

比喩でもなんでもなく、文字通り。

しかも二重の意味で。

人間の場合は、三重の意味で。

メディアというのは、直訳すると「媒介」。

じゃあ、なにを「媒介」するか。

「情報」である。この「情報」自体はなんでもあり、である。

とにかく、誰かから、誰かへ、「情報」を「媒介」する。

この「情報」の「媒介」のことを「メディア」というわけである。

今度は「生き物」について考えてみよう。

「生き物」とは、なにか。

定義はいろいろあるけれど、代表的な定義のひとつは「自己増殖能力」がある、ということである。

前の世代から、いまの世代、いまの世代から、次の世代へと、どんどん増えていこうとする。

生き物は、38億年間にわたり、どうやって世代を超えて生きながらえてきたのか。

それぞれの世代を構成する個体には寿命がある。数分から数百年にいたるまで、それぞれの寿命の長さは異なるけれど、個々の個体は、生まれ、そしていずれ死ぬ。

そんな個体の寿命を超えて、生き物はサバイバルし続ける。

なぜ可能なのか。それは、生き物の個体の体をつくるための「レシピ」を前の世代から次の世代へとずっとずっと伝え続けることができるからである。

そのレシピがつまり「遺伝子」だ。

生き物は、遺伝子を次の世代へ伝え続けてきた。そして、個体のオスとメスが生殖することで、遺伝子の内容はシャッフルされる。そしてときどき、突然変異でレシピがちょっぴり変わったりする。ちょっぴり変わったレシピが環境に適応しなければ、その突然変異のレシピはおしまい。あるいは、遺伝子の連なりの中に隠される。

たまたま生まれた突然変異のレシピが、環境の変化に適応すると、このレシピが次の世代において増えていく。

これが「進化」だ。

遺伝子をシャッフルし、次世代に伝え、ときどき突然変異が起き、たいがいは失敗作として残らないけれど、環境の変化やいくつかの偶然があって、その突然変異が次の世代に残るうちに、別の「種」が誕生する。37億年間で、さまざまな「種」が誕生し、滅亡し、そして現時点では、数百万種(数千万種、という説もある)の多様な生き物が、この地球上で生きている。

遺伝子というレシピが、ときどき書き間違えられながらも、個体の生と死を超えて、伝えられてきたからである。

ここまで書けばおわかりであろう。

生き物自体が、自らをつくりあげるレシピを記した遺伝子を、前の世代からいまの世代、いまの世代から次の世代へと伝え続ける「媒介=メディア」、というわけである。

それだけではない。

遺伝子というレシピがつくりあげる生き物の個体そのものの行動もメディアそのものである。

生き物は生まれ、育ち、戦い、逃げ、仲間をつくり、異性を見つけ、射止め、性交し、子孫を産み、育てるプロセスで、自らメディアとなる。

それぞれの行為において、遺伝子の生存率がより高くなるような形態や色彩や行動が進化するからである。

ニューギニアのフウチョウのオスによるメスのダンスナンパの仕草も、婚姻色で虹色に染まった川魚のオイカワのオスの顔も、交尾期を迎えて真っ赤になるおサルのメスのお尻も、ヤママユガのメスが撒き散らすオスを呼ぶフェロモンも、ライオンのオスのたてがみも、哺乳類の赤ちゃんの泣き声も、ヤドクガエルの毒々しくも美しい警戒色も、巨大なカブトムシのツノも、すべて異性を惹きつけたり、敵を威嚇したり、母親の気をひいたりするための情報発信=メディア行為に他ならない。

生き物は、自らの遺伝情報を次世代に伝え続けるという面においても、個々の個体がさまざまな情報を発信することで自らの遺伝子の生存率を高めるという面においても、具体的に「メディア」なのである。

では、人間という生き物はどうだろう。

人間もまた生き物であるからして、以上の2つのメディア的特徴を有している。

が、人間は他の生き物と異なるメディアにさらに進化している。

大脳皮質の発達が、それをもたらした。

生き物は、五感から得た外部の情報を進化的洗練でもって適切に処理し、ただちに行動に移す。メディアとしての生き物の情報処理は、遺伝子に刻まれたシンプルにしてスピーディーな行動に裏付けられており、基本的に迷いがない。

人間はというと、大脳皮質が発達するプロセスで、ほかの生き物とは異なる情報処理のシステムを発達させることになった。

それは、五感によって外界からとりいれた具体的な情報を、抽象的な思考に浄化させ、その思考を集団で共有する、というシステムである。

このシステムを支える道具が「ことば」だ。

「ことば」がどう生まれたのか。いつ生まれたのか。ホモ・サピエンスだけなのか。ネアンデルタールはことばを有していたのか。諸説あるので、いまは面白い本がいっぱいあるから読んでください。

ネアンデルタール、どうもしゃべっていたみたいです。だいたい、やつら、(彼女かもしれない)、ホモ・サピエンスとつきあってましたからね。子供まで作っちゃいましたからね。ヨーロッパ系のひとだと遺伝子の2%前後は、ネアンデルタールらしいですからね。しゃべってないわけないですよね。どうやってナンパしたのだろうか、ネアンデルタールの兄ちゃんは、ホモ・サピエンスの彼女を。

話を戻す。

「ことば」というメディアの道具を人間が発明したのと相前後し、このシステムは人間の脳内と集団の中で、一気に進化した。諸説あるが、おそらく数十万年から数万年の間に。

人間は「ことば」という遺伝子同様のデジタルな情報処理システムを構築し、これによって世界のなりたちと自らの思考を抽象化した。つまり、ことばに置き換え、歌や物語にした。そのプロセスで、思考はさらに深まり、宗教が生まれ、哲学が生まれた。一方で、ことばのみならず、数字を発見し、人間は、世界の成り立ちを再現性あるかたちで表現する方法を獲得した。つまり、科学である。法則である。数式である。

大脳皮質が「ことば」を獲得し、世界を抽象化して、集団内で情報共有できるようになった人間は、ほかの生き物と異なる道を一気に歩み始める。

自分たちの暮らしを、環境を破壊し、再構築し、コントロールし、食料を人工的に生産拡大し、自分たちの手足をパワーアップする道具を発明し、他の生き物を従え、道具として、食料として、愛玩の対象として活用するようになった。

つまり、「ことば」というメディアの道具の発明が、人間を他の生き物と大きく異なる存在としたわけである。

人間は、三重の意味で「メディア」的存在なのである。

だから、私たちは、メディアそのものに過剰反応し、愛し、恐れ、憎しむ。

続きます。




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