メディア論81 インターネットも本もテレビになる。

ニューズウィークの百田尚樹論は、知人でもある石戸諭さんの手によるもので、実に面白かった。

私自身が百田尚樹さんの作品を最初に読んだのは『風の中のマリア』である。主人公は、オオスズメバチの働き蜂。働き蜂は生殖できないメスだ。成虫になってからの寿命はわずか30日。百田さんは、たった1年で巨大な帝国をつくり、そしてその帝国そのものは滅びてしまう、スズメバチの集団の働き蜂というさらに卑小な存在をあえて主人公に据え、擬人化せずに、物語にした。映像が立ち上がってくる文章だった。

面白い! 私は養老孟司さんに連絡して本書を勧めた。養老さんは『日経ビジネス』にこれまた読み応えのある書評を書いてくださった。現在『風の中のマリア』の文庫には養老さんの解説が入っている。

そのときのことを思い出して、百田尚樹論を読んだ。そして、自分なりにひとつ気づいたことがあった。「百田尚樹は、インターネットと小説をテレビにした」のだ、と。

はじめて『風の中のマリア』を読んだときに、連想した作家がいた。ひとりは景山民夫さん。もうひとりは中島らもさん。放送作家だった景山さん。コピーライターだった中島さん。

共通するのは、まさにテレビを眺めているように、こちらが前のめりにならずとも、文字がつるつる頭の中に入ってきて、勝手に脳内に映像を流し出す、圧倒的な読みやすさ、そして映像再現性の高さ。笑いがあり、落ちがあり、涙があり、こちらの感情のスイッチを心地よくぽんぽんぽんとあざといまでに押す、ツボの心得方、リズムのよさ。

ああ、これはテレビだ。受け手が、ぼーっとしていても、どんどん進行してくれて、面白がらせてくれる、感動させてくれる、テレビ番組だ。

百田さんの大ヒットの裏には、その論の立て方以前にまず、テレビというメディアが過去60年ほどのあいだに蓄積した、プッシュ型メディアとしての「伝え方の骨法」がある。

インターネットが普及するプロセスで、勝手にだらだら情報が流れる、プッシュ型のテレビやラジオは衰退し、自分でコンテンツを探しに行くプル型メディアの時代になる、という論がやたらとでた。

けれども、インターネットが完全に普及し、スマホが普及し、我々が電脳空間と常時接続したいま、情報があふれすぎてなにをみていいかわからないいま、むしろ最強なのは「テレビ」ではないか? テレビ受像機からときはなたれた、わかりやすくてよみやすくて感動させてくれる「テレビ」コンテンツではないか?

いまヒットしているさまざまなコンテンツは、いずれも「テレビ」的。











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