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どうして「マチグワカイ ユーメンソーチェビーサヤー」を作ったのだろう

もともと今年の1月と2月は、連続して那覇へ行くつもりだった。
1月は、栄町市場にあるコーヒーpotohoto引越しの手伝いに。
2月は、若狭公民館3年ぶりの公民館まつりと30周年記念式典の手伝いだった。
偶然だが、栄町市場の中にあるお店と、若狭市場(若狭中央市場)跡に建てられた公民館と、どちらも市場に関する場所だ。

そんな予定を立てていた年明けに、ウララさんからメールが来た。
「建て替えられる第一牧志公設市場のオープンに合わせて、公設市場にまつわる冊子や雑貨を作る人の作品を集めてフェアを開催しようと思う。ついては一柳さんもぜひ」
という内容だった。

最初は断ろうと思った。
沖縄を離れて8年以上経ち、まさしく牧志の公設市場が建て替えられたように、那覇もあちこちが変わっている。
そんなに変化した町をどう書けば、何を書けばよいのか分からないし、そもそも今は会社の仕事が忙しくて、そんな作品を作る余裕など無い。

パソコンに向かって、断りのメールを打ち始めた瞬間に、ふとこんな事を考えた。牧志の公設市場も雑貨部や衣料部が無くなって、建て替えの仮設市場が建てられた場所も昔は第二公設市場だった。そういえば、昔は若松や宇栄原などあちこちに公設市場があった気がするけど、今はどうなっているのだろう。

次の瞬間、「那覇市 公設市場」などの言葉でネット検索を始めていた。市内に9か所の公設市場が存在する、と書かれた文献も見つかった。私が暮らしていた栄町市場だって「市場」を名乗っているし、公設市場以外にいくつの市場があったのだろう。そんな調べごとをしながら決めた。那覇市にあった全ての公設市場の今を見てこよう、公設市場以外にもなるべく市場を探そう。そしてそれを文章にしよう。

断りのメールは、引受ける旨を伝える内容に変わった。存在したはずの仕事の忙しさや、2回の訪問でしようと思っていたことは全て吹き飛んでいた。
手持ちの本やネットで調べられることは全て調べ尽くし、あとは短い滞在時間でなるべく多くの市場を訪ねるだけだ。

しかし不安もあった。久しぶりのこの手の取材。そして長めの分量の執筆。だけど、それは杞憂だった。誰かに話を訊かずとも、見てきたことを書くだけで原稿の文字数は2倍以上に達してしまって、最初予定していたA3の紙1枚に、という分量をはるかに超えていた。

最近は文章を書いていても、それは誰かのためばかりだった。当然、そんな文章は、いろいろな人の思惑や立場が反映されて直しが入り、中にはほぼ横やりと言えるものもあった。それに引き換え、今回は私が好きなように書ける。むしろ半ば意図的に、私以外の人が興味無いであろう物事も入れ込んだ。仕事で疲れているはずなのに、それは本当に楽しい作業だった。

もちろん、急ごしらえの冊子なので、読み返すと誤字脱字が多い。高良市場のように、そもそもの思い違いで冊子に書いた内容がボタンを掛け違えたようになってる部分もある。せっかく聞けた様々な人の体験談や記憶も、断片的にしか反映できなかった。そんな冊子を買われた方には、申し訳ないな、とも思う。

まさしく掘っ立て小屋のような急ごしらえの冊子だったけれど、今はやっぱり作って良かった、と思っている。那覇市内のあちこちを、市場を求めて歩いた中で、考えたこと、分かったこと、得られた視点が沢山あったからだ。そんな話も、書き続けていきたいと思っている。

冊子ができた後、さらに市場が見つかりました。ここはかつて「古波蔵市場」と呼ばれた市場があったそうです。まだまだ市場探しは終わりそうにありません。


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