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依存してしまっていたのは

求めすぎていたんだなあ。我が子ですかと思うほど無性に愛していた彼のことを少しも好きじゃなくなってしまった今となっては、そう思う。

彼が「彼氏」になるまでは、彼は、彼でしかなかった。私のことをとても好きでいてくれて、ちょっと天然で、可愛らしい。そんな彼のことが好きだった。

それなのに、彼が「彼氏」になった途端、私は彼の全てが欲しくなって、私の全てを彼に捧げたくなった。

当時、私の思う「彼氏」というものは、親友のようにくだらないことで笑ったり辛いときにはお互い励まし合うことができて、家族のようにありのままの自分で自然に一緒にいられて、セックスをすれば最高に気持ちが良くて、自分がどんなものが好きでどんなものが嫌いなのかよく知ってくれている一番の理解者で、自分以上に自分のことを好きでいてくれている、そんな存在だと過信していたし、彼女としてそうありたいと願ってしまっていた。

つまり、「親友」も「家族」も「最高のセックスの相手」も「一番の理解者」も、それから「自分を好きでいること」までも、全ての役割を担ってくれる「彼氏」を求めてしまっていた。それに、私もまた、彼にとってのそれでありたかった。

でも、こんなことを考えたことも自然だろう。本当の親友や家族、一番の理解者は他にいるのに、その人たちに会う時間もないほど彼に会っていたし、彼氏以外とはセックスはしないし、気づけば”自分の人生”よりも”ふたりの人生”を考えるようになり、自分のことを好きでいることさえも「彼氏」に丸投げしていた。彼が「彼氏」になった代わりに、今まで当たり前にあったものと疎遠になって、その分「彼氏」に全てを求めた。そういうことだったんだろう。

私には、親友がいる。家族もいる。理解してくれる人がいる。今は、自分のことを自分で好きでいられる。セックスをするだけの相手より、好きな人と繋がっていたい。数年前の私には、それが見えていなかった。「恋は盲目って言うけど、そんなことない。好きだから素敵に見えてるわけじゃなくて、素敵だから好きだもん。」そんなことを思っていたけれど、見えていなかったのは相手じゃなくて、同じくらい、いや、もっと大事な「自分にとって大切な人たち」だったのかもしれない。

ここ1年は、相手に依存するのが怖くて彼氏を作らず、マッチングアプリで同時に何人かの男と会ったり連絡を取ることで、好きな気持ちを分散したりもしていた。好きでもないのに、とかじゃなくて、ちゃんと好きな人はいて、その人にのめり込みすぎないように他の男とも遊ぶ、そんな感じだった。「一人でも生きていけるようになりたい」そう思って、彼氏がいなくても大丈夫な自分をつくりたかった。でも、違った。やっぱり、好きな人には好きになってもらいたい。20%くらいの好意を5人集めようと、1人からもらう100%の好意には敵わないし、好きじゃない相手からの100%の好意でも、好きな人からもらう1%の好意には、到底敵わない。

人間は一人でなんて生きていけない。でも、「彼氏」がいなくても生きていける。友達や家族や会社の同僚や、そういう支えてくれている、関わってくれている人たちがいるから、今日も生きている。そういう人たちを大切にできていれば、万能な「彼氏」なんていらないと思えるはずだ。欲しいのは、好きな人からの気持ちや、好きな人と過ごす時間、そういう純粋なものだけ。

多くを求めすぎてしまった彼との思い出は、自分のダサい部分を思い出してぎゅっと目を瞑ってしまうけれど、あれほど全てを捧げて全てを求めるような盲目的な恋はこの先ないだろうと、もう体感することができないことへの切なさを感じて、なんだか甘酸っぱい。


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