概念「しょぼいハロワ」というものがあるらしい

2022/12/12。昼。

一昨日・昨日あたりで、 #しょぼいハロワ なる言葉を見かけた。

面白そうなのでつい反応してしまった。
なんとなくツイートした内容が発信主のでちさんに早速回収された。情報の感度が高くてすごい。

経緯

↓こんなツイートから。

↓それに対してこう反応した。


↓こんなスペースが開催されて、

↓こんなテーマの話が展開された。


↓特に気になった「固有スキル」「存在スキル」における僕の解釈はこれで、


↓その場でとりあえずこんな募集が発生。


↓こんな感じの募集をすれば、でちさんがまとめてくれるらしい。スプレッドシートで管理しているっぽい。


おおよその経緯、ここまで。

以下、この一連の話やスペースでの会話から思ったことを書き残しておきたい。

必ずしも今回の話題と関係があるわけではない。
ただ、せっかくなので溜まっていた物思いをまとめて放出する。


しょぼいハロワ論考(?)

まとまってないけどぱっと浮かんだものたち↓

  • 「しょぼい」の出番はどこにあるのか

  • なぜ一般的な「就活」のマッチングコストが高くなっているのか

  • そもそも一般的な就活との概念的な結びつきは必然なのか

  • ミスマッチを減らすというよりは、ミスマッチごと「しょぼい」ものにする

  • 僕が期待するのはどんな要素なのか

  • 決めすぎるのはマイナスになりそう

上記はこれから部分的に回収する。というか書いてみたらあんまり回収できなかったのであくまで「部分的に」ということにした。
暇な人が読んでくれると嬉しい。

しょぼいハロワに対してというより、そもそも「しょぼい」ってどんな概念なのかな~とか思いつつ雑に書いた。綺麗にまとめられているわけではないし、書きなぐったものを列記しただけなのでそもそも文章にすらなっていない箇所もある。


「しょぼい」の利点は引き返せること

いわゆる「一大決心、一念発起をして踏み出す」ことへのアンチテーゼ(そもそもそんな力がないし)

常識との戦い、だからこそ「普通」をうまくできない人の受け皿的機能を有している
ただし、それはあくまで生活におけるサブ的な位置づけである

例えば「しょぼい」の界隈で、単体で生計を立てられる就労を得るに至った人はどれだけいるか
あるいは生存のために福祉につながることができた人がどれだけいるか
前者はもはや「しょぼい」の範疇ではない

後者は「しょぼい」の場そのものが直接的にというよりは、福祉への接続におけるハブ的な役割を果たしたといえるのではないか
福祉への接続に限らず、おそらくそのハブ的役割こそが「しょぼい」の界隈において得られるメリットであるものだと考えている


「しょぼい」はたぶん通過点

逆に、ずっとその場に居続けるのはあまり健康に良くない(もっと適切な表現がありそうだしこのままだと不適格な表現である自覚があるがニュアンスだけ伝わってほしい)ように思える

お湯に浸かりつづけるとのぼせるよね的な何か。適度な出入りや行ったり来たり、ちょっと顔出してたらいい感じの偶然が発生した、くらいの温度感がおそらく丁度よい塩梅

ひとつのきっかけとして機能する、そのための偶然が適度に発生する、ある意味で事故的な出来事が起こる、なぜなら各自にとって顔を出してみるための障壁が小さくて、という感じで人が集まるから

何の興味もない人には認知されない、認知されたとしても怪しんで寄り付かない、わざわざ足を運ぶ「変わった人」を前提とするというのが数少なく存在する障壁(「変わった人」の定義をちゃんとしようとするときりがない。
ただ、僕はすごく雑に「わざわざエデンに足を運ぶ時点でそこそこ変わった人だろ」くらいの認識をしている)

言い換えると、「変わった人」であれば、「ただ端っこでのんびりする」でも「最大限速度の出るイベントをする」でもよくて、無職から会社員、時には社長とかもっと変な肩書きの人とかがいるわけで、そういういろんな状態の人が来れるという意味で「障壁が小さい」

ちょっとやってみたいことがある、ちょっと面白いものを見てみたい、あるいは参加してみたい、そういう「ちょっとした」目的を充足したい時にふと出番が訪れることにおいて、「しょぼい」という概念は有用である

ガッツリちゃんと社会をするとかは、多くの人にはこの「しょぼい」場においては馴染まない要素な気がする。それをしたいだけならわざわざ「変わった人」まみれの場所に来るよりも、もっと「普通」な場にいた方がいい


「しょぼい」におけるあいまいさ

そもそも、なぜ普通は「あいまい」ではないのか
ルールを決めておくことによって、互いのやりとりを円滑にしたり第三者からの判断を求めるにあたり公正に見えたりと、「ちゃんと然るべき振る舞いをすることが身を助ける」ことにつながるからであり、またその必要があるから

なぜその必要があるかというと、それは「当然に果たされることに対して一定の報酬を与えることを保証し合う」という関係性をベースにしているから(だからこそ債務不履行責任とかの概念が存在している)

それによって疎外される存在や行動も存在する
上記に基づいた場合、労的・金銭的コストに見合うことを求めて行動するわけで、「ちょっとだけやってすぐやめる」「ダメ元でとりあえず」「なんか面白そうだから」などはその埒外に置かれることとなる

とすると、「伸びるかどうかもわからないし将来的に利益をもたらしてくれるわけでもない」「ちょっと試しに素人がやってみる」「遊びの延長として行う」「そもそも利益は見込んでいない、かといって誰かのためになるわけでもない」などの行動は真っ先に切り落とされる「あいまい」な行いとなる

そうした部分の要請に、もちろん全てではないけど結果的にちょこちょこ応えるようになったのがエデンという箱であり、「とりあえず店番」という感じの何かもおそらくその「あいまい」さである

「当然これくらいできるよね」などといったハードルが除去され、ある種のフラットさ、それこそ多少「変」であっても許容されうる
ただし、その「あいまい」さは「普通」の決めごととあまり馴染まない概念であるように見えるし、「普通」をすることによって避けられているリスクを背負うことにもなる

見ず知らずの人に何かを任せるのは怖い。約束なんてすっぽかされるかもしれない。何かやらかした時に逃げられれば泣き寝入りをすることになるかもしれない。なにより「契約書もないしそんな約束はしていない」とでも言われればそれで全てが終わってしまうかもしれない
そういうリスクも承知のうえで、ただし何らかの形で利害の一致が果たされることで、「あいまい」な関係、特に何かを任せる関係が成立する
イベントバーの一日店長についていえば、極論その気になればイベンターはお釣り用として置かれているお金をそのまま持ち逃げしてしまうことだってできてしまう(僕はもちろんそんなことをする気などないし、するような人とは関わりたくもないけど)
それを抑止する要素があるとすれば、そのイベンターがツイッターで集客をしている場合、そのフォロワー全員との社会的関係が実質的に「人質」あるいは「担保」のようなものになっていることなどがある
さすがに現金をくすねる行為は窃盗として警察のお世話になる事案だが、そういう法的な要素以外にもイベンターが背負っている要素自体は存在しているっぽい

このあたりには「あいまい」と「普通(あるいはそれに代わる何らかの概念)」との境界があるのではないかと考えている
そして、「しょぼい」からスタートした物事はいずれその「しょぼい」から外れていくことになる

慣れてくれば「しょぼい」をいわば「卒業」するということもありうるし、逆に「しょぼい」どころか無に帰することもありうるし、そうでなくても行為が形を有して実を結ぶにつれてどうしても「しょぼい」こと自体が実態にそぐわず、何らかの意味で「普通」へと寄せられていかざるを得ないかも


では「しょぼい」を維持する方法はないのか

ひとことでいうなら「あいまい」さの余地をあえて残す、というのがある。うまくいっても仕事ではなく趣味の範疇に収める、あくまで不定期にしたり、そうでなくても頻度を制限したり。かける労力が大きすぎるとそれは別の何かへと転化しうる(義務的に維持する方面に)

「なるようになる」という「遊び」の要素を残しつつ、意識的にというよりも意識せざる部分で動きの余地がある状態を維持する
ハードルが上がらないようにする、あくまでも「ただのイベント」という意義を保つ

先述の「ただの通過点」との矛盾がある気もするが、「通過点でありつづける」みたいなのをどうキープするかが「しょぼい」を維持する上でのポイントになりそう
例えば「イベントを主催する人を交代する=試みという位置づけを壊さず「しょぼ」さをキープする」などがその方法としてあるのでは


「しょぼい」をやるなら決めごとを増やすべきではない

レギュレーションが定まり、ルールが増えるほど「普通」の行いに近づいてゆく
「普通」を求めていない相手に対して「しょぼい」を提示する場合、「普通」に近づいてゆく要素は基本的に相性が悪い

もちろん治安が悪化することが懸念されたり、主催する側が想定していない事態につながりうるのは行動する上でのリスクではある
だが、そもそも「しょぼい」以上はリスクであってリスクでない、くらいの温度感で現象をとりあえずそのまま受け止めることができないと「しょぼい」をやる必要性自体が薄れていくように感じる(何かあればその都度対応する必要はあるけど)

他人を巻き込むことで物事を面白くするなら尚更、安易にルールを増やすのは悪手
他人がもたらしてくれる面白さというのは、自分が想定していない事象が発生することに起因することが多いという体感がある(きわめて解像度の低い発言だけど)


とすると、想定を順調に具現化することに寄与してくれる、ルールという本来ありがたい存在が、むしろ参加者や参加者予備軍にとっての息苦しさや「普通」的印象へとつながりかねない

最低限「私に連絡して」「このタグをつけて」くらいは決めてもいいと思うが、それ以上のルールは(少なくとも行動を起こす当初には)定めるべきではないかも

まっさらで始めて、もし「いつまでに?」と訊かれたら「あ~時間制限って必要なこともあるんだな、じゃあ必要っぽい場合はつけておこう」みたいに付加していく感じ

声掛けの補助となる連絡フォーマット、いわばハードルを下げるツールは時として有用だが、それすらも却って妨げになりうる


「しょぼい」である以上は、あらゆる出来事をネタにするくらいのつもりでいるといいかも

一つひとつの行動が元から意味を有しているとは言い難い
しかし、起こったことを後から整理して何らかの意味づけをすることはできる

「やってみたけど全部無駄でした」でもいい。行動した事実は残る
すると何かを受信した誰かが「ちょっとやり方変えてみて試してみたいな」とか思うかもしれない(そんなこと思わないのがほとんどだと思うけど)
ざっくり言うなら「無編集クソ動画」的な発想

ネタにするというか、ネタにしてもらえたことに対して意味づけを行う、くらいの感じかも

(おわり)


【2022/12/12追記】

投稿して早速ながら追記。

雑に募集かけときました。
需要というより供給する側。

興味ある方いたらお声がけください。
やりたいことに応じて内容考えます。もしくは、やりたいことがわからないけどとりあえず興味はある、くらいの温度感でも大丈夫です。なんとかします。


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