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No.2:京都のことを知りたい人。観光地以外のあれこれ。ガイドに載らない地元民の生活文化。おもばな満載!

まずは、No.1と目次を見てください。

・京都人はポジティブ思考

京都人は「はんなり」とか「ワビさび」とかという言葉のイメージでおっとりしている印象があるようだが、それも大きな間違い。

京都に住むと、たぶんわかるが、京都人は意外にせっかちで、ダラダラしたり、井戸端会議のようなぺちゃくちゃ無駄話をしたり、のんびりお茶するようなリズムはあまり好きじゃない。

無駄を嫌い、ケジメがあることを好み、意外とシャンシャンしているのだ。下町は特にそうであるし、芸の世界でも「シンキクサイ」「ノロイ」は大嫌いである。「ちゃっちゃとし~(おしやす)」なんて言葉もよく言われた。

(お漬けもんが乗ったぶぶ茶漬け)


「ぶぶ茶漬け(お茶漬け)とか「お茶」を出されたら帰れという合図」「もうそろそろ、帰ってください」のサインだ。これも、よく聞くと思うが、俺が思うに、これも京都人の気質を表した、いい例だと思う。それを好意と勘違いして、うっかりいただいてはダメ!

正面切って、「もう帰れば・・・」っていうと、気が悪いので、こういうサインを考えたわけで、「まだ、いはんの?いつまでいはりますの?用が済んだら、ちゃっちゃと いんでんか(帰ってくれ)」という、気持ちが込められている。

決して嫌いだからとか「いけず=意地悪」でのことではなく、単純にダラダラが嫌なだけで、立派な、心遣いで、表現なのだ。是非、誤解のないように。

・躾にうるさい、礼儀作法にうるさい

俺のおかんは市内の真ん中で生まれた典型的な京都人で、京都人はこうあるべきだと思い込んでいた京女だ。

というのも、「京都人は日本人の代表みたいなもんやから、どこへ行っても恥かかんように、ちゃんとあいさつやら作法やらを身に付けんとあかんのや」という考えが強かった。

その背景には、親戚のおじさんに三菱商事のドイツ支店長までやった、一流商社マンがいて「あちらでも、東京よりむしろ京都の方が中心だったことはよく知られている」という、話を若いころからよく聞いていたらしい。

おかあちゃんだけではなく、ほとんどの人が、京都から出たときに、恥をかかないことが最も大事で、絶対に京都の恥をさらさない。という、これも一流意識とでもいうか、京都人のプライドになっていた。

門限は5時、チョットでも遅れると鍵をかけられ入れてもらえなかったり、口ごたえすると、しばかれて(叩かれて)裸で追い出されたり、躾というか、せっかんというような、今ならDVで訴えられるようなことをショッチュウされた。約束を守れないのは2流の証と言わんばかりに・・・トホホ

(お箸のマナーはうるさい)


お箸の持ち方、置き方、使い方から、タブー、姿勢、音を立てず口を閉じて食べる、ダラダラ歩かない、きちっとあいさつする、など、数えきれないくらい「そんなんええやん」というような、礼儀作法もたくさん教えこまれた。  ただ、今ではそれがめっちゃ役立っている。感謝!

京都は一流、一流だから知ってて当然、トップは常にトップ、常に完璧を目指すことがポリシーになっていた。(ここまでくると笑い)

・京都人はこてこてラーメンがお好き!

京都の味は薄口なので、ラーメンも見た目、どんぶりの底の方が見える薄口しょうゆ味のようなイメージがあるが、とんでもない間違いで、そんなラーメンを京都市内で探すのは、逆に至難の業である。

いまは、そういう店もできているようだが、還暦過ぎた俺の年周りの人だとまず、若いころにそんなのは食べたことがないと思う。

一部、祇園花街界隈の上品な店では出汁味にちょいとしょうゆなどを入れて薄口ラーメンを出すところもあるとは思うけど、庶民は食べなかった。

(「天下一品」のこてこてラーメン、たまに無性に食べたくなる)

俺なんぞは、通常食べる店のラーメンといえば「こってりとんこつ」「こてこてトリ白湯系」「濃い口醤油味」がメインだ。

その証拠に、「天下一品」という東京でも有名な「こてこてトリスープのラーメン店」は京都が発祥地で本店は京都である。

京都の屋台ラーメンも基本はとんこつだ。今もあるかどうかは定かじゃないが、京都駅八条口を出てすぐ、ニッポンレンタカーの横には、夕方5時から開店のお馴染みの有名屋台があったが、ブリブリトンコツだった。

八条口東側高ばし下の「第一旭」は今では有名店で、バラ肉がいっぱいの屋台風ラーメンだ。昔はここより、うまい店がもっとあったけど・・・

西大路八条下の丸久(友達んち)という屋台もとんこつ、中心地の木屋町に出てた屋台は「濃い口しょうゆ味」だった。

京都はラーメン屋が大変多い街だが、とにかくショッパイわけではなく、濃い味の店が多かったし、売れていた。

(屋台ラーメンの元祖:「横綱」関西に36店舗もある:タクシーの運ちゃん御用達)

結局、地元民はほとんどが、濃い口こってり系が好みだったということだ。今は、観光局も増えてさっぱり仕上げも増えてるらしい。

一度「京風ラーメン」というものを、東京で食べたことがあるが「なんじゃこれ?こんなもん、京都にあるか~」っていう、全く食べたことがないラーメンだった。

・京都はから揚げ屋が多い


(今はなき大徳寺:金ちゃんのから揚げ、うまかったのにな~)

ラーメンとライスや餃子より、ダントツでかしわ(鶏肉)のカラ揚げを良くセットする。

から揚げのみでも、酒のつまみによく買って帰った。

昔は、庶民は鶏肉がメインで2番目に豚肉、牛肉は高価で滅多と食べられない肉だった。牛肉が出てきたら「今日、どうしたん?」「なんかあったん」とおどろいたもんだ。

ということで、「かしわ」という言葉も京都弁の一つで、肉と共にポピュラーなもんだ。

鍋も、ダントツで「かしわの水炊き」だし、とにかく「かしわ」は身近な食材だった。その名残が、今も「から揚げ」として残っている。

・京都市内と市外(府下)の区別

最近は、京都市ではなく「京都府」とTVなども出るが、おそらく市内の人は「なんで?!」って思っている。

当時は、京都というと、明らかに京都市内のことを言った。

さっきも触れたが、昭和60年ごろは車のナンバーで「京」一文字と「京都」の2種類あり、市内は「京」、「京都」は市外や郡部のナンバーだった。(これ、以外と市内でも知らない人もいる)車にうるさい人なら知っている。

(「京」ナンバー、今はない。俺もこれに乗った:ケンメリのGTR)

当時はそれぐらい、区別していた。これは決していいことではないが、市外はどこであろうと、「京都市民=都びと」ではないのだ。

俺が通った高校は市内の私立だったので、当然市外からもそこそこ通って来てた。

俺たちの頃は、最近の様に、いじめたり、無視したり、そういうことはしなかった。が、・・・

話によっては、あまり相手にしない雰囲気はあった。「部外者は黙っとれ!」みたいな。(偏見差別?!ごめんね~)

●京都を4つに分ける

京都市内でも地域差が大きい

京都市の面積は約828㎡だが、山間部を除く平地部はで東京23区、にすっぽり入るような小さなところだ。東西南北、車で30分あれば端から端へ行ける。

しかし、昔から地域差がかなりあり、これを知らないと、京都を知ってるとは言えない。(注意:今はかなり、差はないようには思うけど?)

じゃあ、当時京都人はどう分けていたかというと・・・

俺流ではあるが・・・

・文化的に分けると

1、雅な京都、2、職人と芸人の京都、3、一般庶民の京都、そして4、ディープな京都 である。

(大体このように分ける。もちろんザックリね)

1、雅な京都は知っての通り「祇園界隈の花街」で、舞妓や芸子、お茶屋などが軒を連ねる、大昔から栄えた都文化

2、職人と芸人の京都も「西陣織や清水焼」「芸を支える小物や趣向品から、「神社仏閣を築く、宮大工の文化」

3、庶民の京都とは、いわゆる都に住みついた生活者の文化

4、ディープな京都は、あとで触れるが、途中、行政からも忘れられた、日本一の同和「えた村=六条村」や「在日コリア」の世界

である。

1と2はガイドブック等でクローズアップされてきたが、京都という町は、この4つの文化で成り立ってきた、複合都市であることを忘れてはいけない。

・地域で分ける(点線)

【南北】

「JR(旧国鉄)」から上(かみ=北)と下(しも=南)

これが一番違いのある分け方だ。というのは、京都駅でも昔の人は「表=北側=おもて、または「正面=しょうめん」と裏=うら、南口または「八条口(はっちょうぐち):京都弁)で分けている。

(京都駅正面:北側)

言葉も、南の地域(今の南区、伏見区)は、みんながイメージする「・・・どす」とか「すんまへん」「堪忍どすえ~」「お~きに」といった、物腰の柔らかい、上品な京都弁ではなく、「九条弁」とでもいう、巻き舌を使ういわゆる、ガラの悪い関西弁である。詳しくは後述する。

九条ネギで知られるようになった九条ね

とくに駅裏は、終戦後は大規模なヤミ市があった場所で、行き場のなくなった帰還兵や上(かみ)に住めなくなった京都人、本国に帰れなくなった朝鮮人などが職を求めて、あちこちから集まっていた場所だ。

純粋な京都人は少なく、混在していた地域なので、ケンカや犯罪も後を絶たず、ヤクザの事務所などもあり、アンタッチャブルな地域だった。詳細は後述。

(八条口:新幹線側:実家から歩き10分で行けた。駅でバイトしてる子も多かったな~)

人種的にも、北のもん(者)と南または九条のもんとに分かれ、繁華街でも、北のもんが知らないで、南のもんにからむと、一気に形成が逆転するぐらい、南のもんは(九条もん)は、怖がられていた。

そのくらい、ガラ悪い地域で、行く末はやくざかテキヤかっていう地域だ。実は、俺はそれが嫌で高校卒業して、すぐにこの地域を出た。

白昼のチャカ(ピストル)の撃ち合いを2度見たことがある。

当時、「仁義なき戦い」という映画がヒットしていたことも、大きく影響していたと思うが。

京都市は碁盤の目で、東西(横)の通りが、最南の上鳥羽通り、十条、九条から・・・一条、北山通まであり、南北(縦)の通りは東大路通から西大路通りの間に数本の大きな通りがある。

南北では、四条通ぐらいまではいわゆる一般庶民が多く、四条より北(前地図の2、付近)は、職人や商売人の町で、雅な京都を支える人たちが多く住んでいる地域と言える。あくまでアバウトね!

ゆえに、俺たちの頃は、上鳥羽十条から七条ぐらいまでは比較的ガラが悪く、似たような人柄で、それより上(かみという)の人は、比較的上品とされていた。(下「しも」の人ゴメンなさいね。当時はです)

【東西】

南北に通る「大宮通=おおみやどおり」から西と東に分けてみると、

大宮通から西は、比較的住宅街で東は、職人商人混在で、河原町通から東の東大路通まで、四条通の北側、三条通までの小さな一角がみなさんが京都をイメージする代表的な京町地域(前地図の1、)だ。

四条烏丸(からすま)から祇園まで、が中心地とされている。いまは、その周辺も中心地とそん色ないぐらい発展しているが・・・

小さい頃の繁華街は京都駅のおもて付近(今の近鉄百貨店あたり)とこの四条界隈だけだった。

チョトおしゃれをしていると、近所のオバちゃんに「いや、四条行かはんの、ええな~」といわれた。これは、今でもそうだと思う。

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