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コンプレックスとちゃんと向き合ったことでうつ病から復活できました。という体験談

【はじめに】

こんにちは、やのしんです。

僕は現在システム開発会社で、決して高くはない給料で細々と働く33歳(2019年時点)の男です。

それでも素敵な人たちが周りにたくさんいて、心から楽しいと思える日々を送っています

ただ、今でも生活の補助輪として自律神経を整える薬は飲んでいますが

抗うつ剤については、元を辿っていけば12年前まで時をさかのぼります。大学2年生の頃にうつ病になり、以降ずっとお世話になっています。(今はうつ症状を抑えるためではなく自律神経を整えることが主目的になっています)

なんで薬をやめられないのかについても言及したいところですが、今回の本題とはあまり関係ないのでまたの機会にでも。

今回の内容は、大学生の時にうつ病をわずらって人生に絶望していた僕が、うつ病とうまく付き合うために自分の過去と徹底的に向き合ったときの話です。

僕がうつ病になった主な原因は、劣等感が非常に強く、そしてそれを誰にも打ち明けられなかったことです。

病気を発症し原因も気づいて以後、それを克服するためにどうしたら良いか悩んでいる時に、大学のとある授業で「自分の長所」をテーマにした1万2000字のレポート提出が課されました。

「殻を破る突破口はこれしかない!」と感じた僕は、劣等感に苛まれながらも自分の過去と徹底的に向き合って、素直な感情を洗いざらいさらけ出した内容のレポートを書き上げました。

それを機に僕は自分との向き合い方を知り、年月をかけて徐々に劣等感を薄れさせていき、いつしか全く感じなくなりました。
自分の長所も徐々に気づけるようになって、むしろ今では自信を持てるほどになりました

ちなみに、自慢するわけではないのですが、僕は早稲田大学の卒業生です。
就活よりも自分と向き合うことを優先した結果、フリーターになる道を選び、もがき、ひらき、28歳にしてようやくエンジニアとして正社員になりました。

その頃にはとっくに早大卒という切符の有効期限が切れていたので底辺からのスタートでしたが、それでもそこから積み重ねて笑って過ごせる今があります。

さて、では果たして僕がどのように自分と向き合ったのか。それは当時提出したレポートを読んで頂くのが一番わかりやすいと思います。

これは「このくらい向き合って前に進むことを諦めなければ、徐々にうつ病とうまく付き合えるようになって笑って過ごせる日が来るよ」というひとつのサンプルです。あくまでその一例以上でも以下でもないことをご理解ください。

うつ病の真っ只中で苦しんでいる方、うつ病予備軍で心のもやもやを抱える方、またそういう家族や友人が側にいるという方に読んで参考にして頂けたら幸いです。

【レポート『自分の長所』】

①序文

僕の良い所はどんなところだろうか。考えてみると、浮かんでくるものは自分の良くないところばかりだ。そう、僕は自分の良い所を見つけるのが苦手だ。

かつてはポジティブな思考を持って少年時代を過ごしてきたが、思春期を経験し気づいてみれば完全なネクラになってしまっていた。だから、僕は小学校時代と今では大きく違う。それが悪いことだとは思わない。
確かに、ポジティブに考えられたらどれだけいいだろうと、過去の自分をうらやましく思うことは幾度と無くあるけれども、だからといって今のネガティブに考えてしまう自分が昔よりダメなのだと決め付けてしまったら僕がいまここに存在している理由が分からなくなってしまう。これまでの21年を否定してしまうことになる。それだけはしたくない。

僕は僕なりのスタイルで、今のネクラでネガティブな自分を受け入れて、そんな自分を大切にしながら未来へ歩んでいきたい。明るい未来を、待つのではなく、自らの手で掴みたい。

※ ※ ※

②父の事故

僕は今、うつ病にかかっている。二週間に一回病院でカウンセリングをうけ、デパスとドグマチールという薬を一日三回飲んでいる。
発症したのは去年の五月頃からだ。その頃の僕はやたらと目が血走っていた。どうにかして大学で自分のやりたいことを見つけなければいけない、そうしなければ駄目なんだ、絶対にやりたいことを手にしよう、そんなことで頭がいっぱいだった。
というのも、それまでは漠然とただ、やりたいことをやりながら生きていくのが一番いいんだ、なんて軽く考える程度だったのだけれども、あるきっかけがあって、否が応でも将来についてしっかりと目を向けなければならない状況におかれてしまったのだ。

それは忘れもしない、2年前の10月末のことである。
その日僕はいつものように大学に行き普通に授業を受けた。そしてその後、ぶらぶらと時間を持て余していると兄から電話が掛かってきた。
兄は実家の静岡から東京の大学に通っていて、当時は4年生だった。兄弟2人仲は良かったものの、兄から電話が掛かってくることは珍しく、何かあったのだろうかと気になりながら電話に出た。
兄の声はやけに深刻で、すぐに何かよくないことが起こったのだとわかった。詳しい事情を聴くと、兄は「親父が事故を起こした」と言った。
目の前が真っ暗になった。
どうして?僕の父は海外で仕事をしており、一年半に一度だけ、一ヶ月程度日本で滞在して次の渡航の準備をしてまた海外に行く。三十年間その繰り返しだ。そのため家にいるときはほとんど車の運転は母に任せて、自分は運転しないようにしている。その父が、どうして?

にわかには信じられなかったが、とにかく詳しい話を聞かなければいけないと思い、大急ぎで兄に会いに行った。そのときの兄の目はすこし赤かった。
話によると、父は病院に行き薬をもらいたかったのだが、あいにく母が外出していた。そのためやむなく自分で運転することにし、そのときに何らかのきっかけがあり事故を起こしてしまったのであった。
だが、程度がどのくらいなのかはよくわからない。もしかしたら軽い接触だけかもしれないし、考えたくはないが逆にもっと酷い状況かもしれない。
ニュースになっているのだろうか?更に詳しいことを知るために僕と兄はネットでニュースを調べた。
…あった。しかもトップニュースだ。信じられない。信じたくない。
しかし、無常にもパソコン上には僕の父の名前がさらされ、容疑者と呼ばれていた。父は大きな事故を起こしてしまった。そして、重軽傷者が数名いるという。

そんなに酷い状態なのか。僕たち二人は肩を大きく落とした。そして言葉を失った。
悪い夢なら、覚めてほしい。悪い夢であってくれ、お願いだ、お願いだ。
しばらく呆然とするほかなかったが、やがて気持ちを切り替え、兄と今後のことについて話し合った。
とりあえず今は自分たちのことよりも家族のこと、父や母のことが大切だと言う結論に至り、その日のうちに実家に帰ることにした。

実家に帰るといっても、僕らが着いた先は自宅ではなく親戚の家だった。自宅は報道陣が詰めかけ、また電話も鳴り響く状況で、しばらくは空けていた方が得策だろうということであった。
親戚の家で母と会ったが、母は取り乱していなかった。こういうときこそしっかりせねばという気持ちがあったのだろう、いつも以上にたくましく見えた。
いろいろと話を聞き、どうしようか考えたが何をしたらいいのか分からない。しかし、何かしなくてはと思い、僕はみんなで父に宛てて手紙を書こうと提案した。
事故が起こって一番ショックを受けているのは、間違いなくそれを引き起こしてしまった父である。父はとても律儀な人間で、周りへの気遣いをしっかりする性格だから、こうして他人を巻き込むような事故を起こしてしまったことをとても後悔しているだろうし、ひどく落ち込んでいるに決まっている。下手したら自殺だってしてしまいかねない。
だから、そんな父を少しでも励ましてあげなければいけないと思ったのだ。どんな事情であれ僕らは父の味方であると本人に伝えたかった。
みんなが賛同してくれたので、それぞれ手紙を書いて、次の日の朝に警察署に届けることとなった。

翌日、新聞・テレビを見てみると、いずれも親父の事故がトップニュースに挙げられていた。
いつも他人事のように見ていた全国のニュース番組で父の名前が出され、そして事故現場がVTRで流れ、事故の詳細を書いたフリップが出され、それに対してコメンテーターが発言をしている。不思議で仕方なかった。
どうしてこの有名人たちが僕の父のことを話しているのだろうか?何かの間違いではないのか。
まだ、僕は事実をしっかりと受け止められないでいた。
そんな気持ちのまま、昨日の手紙を渡しに母は警察へと向かい、その間僕は何をするわけでもなくその場にたたずんだ。

それから数日、実家の犬を親戚の家まで連れてきたり、父に必要な物資を届けたり、父と面会できる日はいつなのかの確認を待ち、弁護士を探すなどしながら慌ただしく時間は過ぎていった。

そんな中で、僕はどうしようもない無力さを感じていた。
僕は社会の仕組みが分からないから、父が事故を起こしたからといって、何をどうすればいいのかがわからない。
でも、自分なりにどうすべきかを整理するために、やるべきことを箇条書きしてみた。そうやってなんとか自分にもできることを探して、居場所を作った。
大事なときに大切な人を支えられないことはとても苦しい。だが、それ以上に周りで必死に動いている母や兄や親族は苦しい。そして父はもっともっと。

事故から一週間後、ようやく父との面会が許可された。父がどんな心境でいるのか計り知れないが、それでも会って少しでも勇気付けてあげたいという思いだった。
僕らは父と面会した。父は思いのほか衰弱している様子はなく、普通に見えた。そこで短い時間ではあったが話をした。15分程度の短い時間だった。
何を話したのかは忘れてしまった。ただ、海外での仕事から帰ってきて、1年半振りに会って話をするのがこういうシチュエーションになってしまったことが悲しかったという思いだけ覚えていた。

その後、裁判が行われ、保釈金を積んだことで父は保釈された。
ほとぼりが冷めるまでしばらく親戚の家で暮らすことになった。自分はどうすべきなのか考えたが、そのときの僕には特に皆にしてあげられることが無かったので、東京に戻って学生生活を送ることにした。週末だけは静岡に帰ることにして。

そうして新たに大学生活を始めたとき、僕はもう今までの考え方は改めなくてはいけないと考えた。
今までの僕はどんなだったのかというと、はっきり言って何もしていない人間だった。いや、より正確に言うと今までずっとそうだったのではなく、中学校に入ったときから急激に、そしてそれ以後は緩やかに、事なかれ主義者へと成り下がっていったのだった。

※ ※ ※

③小学時代

小学校の頃の僕は行動力に満ち溢れていた。率先してみんなの中心に立って、みんなを笑わせて楽しませていた。やさしくて人望も厚く、そしてスポーツも勉強も万能に出来た。
自分で言うのも恥ずかしい話だが、クラスのリーダー的存在だった。
バレンタインのときには机の引き出しから溢れるくらいチョコをもらっていた。

しかし、それが中学へ向かうにつれて徐々に変わっていく。一番の理由は、「コンプレックスを抱いた」ということだ。
何がコンプレックスだったのかというと、いくつかあるのだが、一番大きかったのは僕は普通の人よりもチンコがでかかったことだ。今思えば何も恥ずかしがることはなく、むしろ誇らしいことだと思えるのだが、当時の僕はそれが嫌で嫌で仕方なかった。
きっかけは、小学1年生の頃に愛知に住む親戚の家に行ったとき、近くの銭湯へ行って服を脱いでいるときに、見知らぬブリーフ一丁のおっさんに、「ボウヤのちんちん、馬みたいだなあ」と言われ、それを兄貴に目撃され、それ以来ずっとそのネタでからかわれるようになったことだ。
ことある毎に兄から「ウマちん」という不名誉なあだ名で呼ばれ続けた。

リーダー的存在であった僕は、友達のコンプレックスをからかうことでみんなの笑いを取ることも少なくなかった。そんな僕自身がコンプレックスを抱いてしまった。
誰かをからかって笑いをとっていた人間にとって、自分がからかわれる対象になるということはどうしても堪えられなかった。まさに因果応報なのだが、当然それを受け入れるだけの器量は僕には無かった。
だから、僕はずっとチンコがでかいことを他人に気づかれぬよう、友達の家に泊まりに行ったときは一緒にお風呂に入ることを避けたし、ふざけて学校のプールのときにさらけだすこともしなかったし、連れションなんていうのももってのほかだった。トイレに行くときは、必要以上に便器と体を密着させて絶対に周りに見られないようにした。

抱いたコンプレックスはそれだけではない。「人を好きになる」ということもコンプレックスだった。
僕は小学校三年生のときに初恋をした。アユちゃんという子で、その子にはクラス替えで始めて教室に入ったときから心を奪われた。断トツでかわいかった。今まで見てきたなによりも美しいものがそこにはあった。
僕はそれ以来、何かと彼女とつながりを持てるように、彼女が好きそうなCDをいっぱい買ってさりげなくそれを貸したり、彼女が好きなものだと言ったものをさりげなく僕も偶然一致しているようにふるまったり、お昼の給食のときに違う班なのにわざわざ用事を作って彼女の班にお邪魔しちょっかいをだしたりしていた。
つまり、端から見ればかなり露骨にアプローチをかけていたのである。
しかし、実際に彼女のことが好きだとは絶対に認めなかった。好意を寄せていることがバレバレだったので、いろんな友達や女の子から「アユちゃんのことが好きなんでしょ」と断定的に言われたが、そのたびに「全然違う」と虚勢を張って否定した。
やはりこの誰かのことが好き、という要素も小学校の頃にはからかいの対象になっていたわけで、僕はそこに怯えていたのだ。だから、学校の友達には誰にも言わなかったし、家族やその他の人に打ち明けることは一度も無かった。

コンプレックスはまだあった。
僕はずっと自分の体毛が濃いことに悩んできた。腕の毛やすね毛が小学生の時から人一倍濃かった。それが恥ずかしくて、体毛の濃い親父を憎んだものであった。僕がこんな思いをするのは親父の体毛が濃いせいだ。どうして遺伝してしまったのか、本当に嫌で仕方なかった。
小学校高学年からは腹毛が生えてきた。また、陰毛が生え始めるのも早かった。腕毛やすね毛は誰にでも生えているものであり、それに関してはまあ仕方ないと割り切ることがなんとかできていたのだが、腹毛は普通ではない。普通の人はほとんど生えないし、まして小学生のうちに生え始めたなど僕は聞いたことがなかった。
だから腹毛が生え始めたときから、僕は人前で着替えることがとても嫌になった。当時サッカーをやっていて、試合をやって汗をかいたユニフォームから普通のTシャツに着替える機会が幾度となくあったわけだが、その度に僕は縮こまって、なるべく人目の無いところで着替えるようにした。陰毛も同様に、人に悟られたくないがために、決して他人にさらすことはしなかったし、万が一のことを考えて剃刀で剃り続けていた。
そうしてなんとか体裁を保っていた。

こんなにコンプレックスをもっていて、それを他人に打ち明けることが出来ないでいると、どんどん人に本音を言えないようになっていく。
コンプレックスとはつまり、自分の弱いところであり、弱いところというものは誰しも多かれ少なかれ持っているわけで、弱いところがあるから駄目だというわけではない。むしろ弱いところを認めずに隠し通そうとするから結果としてそれがコンプレックスとなってしまうのだ。
僕はコンプレックスに縛られ、それを暴かれることを恐れながら、それでも人の上に立ってみんなを率いて行こうと無理をしていたのだ。

※ ※ ※

④中学時代前半

それが中学校に入ったことをきっかけとして状況が変わった。
僕の通った中学校は、二つの小学校の生徒が合わさって構成されているから、横のつながりからみてまず「僕がリーダーだった」という経歴は過去のものとなってしまう。他校から来た人たちからしたら第一印象で僕がリーダー的存在であると気づくわけではないから。
そしてさらに、縦の関係も生まれてくる。部活動というものが始まることで、1年生である僕は下っ端であり偉いのは上級生で、威張ることなど出来ない。
そのような現実に、ただでさえ臆病だった僕は更に臆病になってしまった。もし僕の弱みをさらけ出してしまったら、きっとすぐにみんなにからかわれ馬鹿にされ笑われてしまうのだと思った。

それでも中学校に入学して間もない頃は今までどおり、小学校のときのまま割とみんなの中心でわいわいふざけたことをやっていた。
しかし、大きな変化のひとつとして、女の子と全くといっていいほど話せなくなってしまった。前述のとおり小学校時代に好きな子がいたが、その子は違う中学校へ行ってしまった。入学式のときに彼女の姿が無く、必死で探していたのを覚えている。こうして、僕の初恋は相手に伝えることのないまま、誰にも話すこともないまま自然消滅していった。
それが直接のきっかけではないが、こんなことがある中で、僕は「女の子と話す=その子のことが好きと思われる」と物凄く短絡的な考えをもつようになっていて、僕は周りからそう思われてからかわれたくなかったから女の子と話さなくなった。変に恋愛というものを意識しすぎてしまったわけである。
ほんとうは僕が女の子と話をしようが誰もそんな気に留めないだろうに、ちょっとでも話したら好きと勘違いされる、と完全に自意識過剰であった。

また、あるとき僕は授業中に先生たちに呼び出され、こっぴどく叱られてしまった。
どうして叱られたのかというと、女の子に暴力を振るっていたことが原因である。女の子といっても、誰かれとなく無差別にではなく、特定の一人の女の子に対して。
その子とは小学校が一緒で、実は小学校の頃からその子に暴力を振るっていた。いじめ、と思われるかもしれないが、ちょっと普通のそれとは様子が違った。
その子は見た目があまりよろしくなく、それ自体がからかいの対象になるのだが、それ以上に性格にクセがあって、自分から進んで男子をおちょくりに行くタフさを備えていた。
僕の場合は、彼女は僕のことをわざと「さん付け」で呼んだ。僕は、さん付けで呼ばれるのは気分が良くなかったのでやめてくれと頼んだ、これは普通に。そう頼んだ直後に彼女は「はいわかりました、やのしんさん」というのだ。これは完全に僕を怒らせにきている。
その馬鹿にされたこと対して腹を立て僕は手を出し、やめるように迫った。それでも彼女はさん付けをやめることはなく、その度に僕は彼女に暴力を振るった。
けっこう酷いことをしていた。腕に爪あとが残るくらい爪を立てて押し付けたり、お腹や肩を殴ったり、とび蹴りしたり。
僕以外にも彼女に暴力を振るっていたのは6,7人いた。彼らも僕と同じように、彼女からの挑発を受けて怒り、手を出していた。挑発を決してやめない彼女に対する暴力があまりにエスカレートしてしまい、小学校のときに加害者みんなが呼び出され叱られた。

しかし、中学に入っても彼女の挑発精神は不屈だったため、また暴力を振るうようになってしまい、再びその子絡みで先生から叱られることになった。
先生はとても怖い人で、とても高圧的に叱られた。
中学校で彼女に少し暴力を振るってしまったことは紛れもない事実であり、それで怒られるのは自分でも納得がいったのだが、なぜか叱られる焦点が次第に小学校のときの暴力のことに変わっていて、それはすごい違和感だった。
どうして中学校で過去のことを、しかももうそれは小学校で厳格に注意されて終わった過去の出来事なのにほじくりかえされて、まるで今やったことのように叱られなくてはならないのか?過去の出来事はずっと僕に付きまとい、僕を悩ませるというのか。

それ以来、僕はこの理不尽さに耐えられずふさぎ込むようになる。また単純に先生に怒られるということにも怯えるようになった。
自分のコンプレックスを隠し続けて友達とはそれなりの付き合いをし、先生には良い顔をして怒られないようにしよう。そう思うようになっていた。
その逃げ道として打ち込んだものが勉強だった。

僕は小学校のころから勉強はできる方だった。
もともと勉強が嫌いではなかったし、勉強が出来ることによって友達からは一目置かれるし、親からも先生からも喜ばれる。自分の地位を保つツールとして勉強というものを捉えていた。
そして、コンプレックスを隠すのにも最適だった。
勉強に打ち込んでいれば、友達と関わらずに済むから体毛が濃い悩みなど関係ないし、好きな子がどうだということもない。そして先生にも怒られないどころか、むしろとても褒められるのだから。

そうして僕は勉強に打ち込み、中学校では学年一、二を争う優等生となった。
中学一年生のころから自発的に週四日も塾に通い、家でも暇があれば勉強をしていた。自分の居場所が欲しかった。
コンプレックスの塊となって、どこにも本当の自分をさらけ出せない僕にとって、勉強をすることは安らぎだった。教科書や問題集に向き合っている限りコンプレックスをほじくりかえされる心配はないのだ。そこに必要とされるのは頭脳だけ。
だから、自ら進んで勉強という道を選んだ。

そうして優等生として勉強に注力したことで、僕は人との関わりをあまり持たなくなった。もう小学校のころの以上にみんなでわいわいするようなことはなくなった。
それでも、自分を隠しつつも割とみんなをまとめるような立場にいたとも思う。なんだろうか、自分でも不思議なのだが、確かに中心からは外れていなかった。
なんだかんだ目立つ存在で、人に慕われる、もしかしたらそんな長所が僕にあったのかもしれない。
ただ、女の子とだけはめっきり話さなくなって、というか話せなくなって、出来る限り女の子のことは避けた。
中学校で女の子と世間話した時間なんて全てを総合しても1時間にも満たなかったのではないかと思う。

中学では脇毛も剃っていた。これもまた人よりも発育が早く、それが恥ずかしくて剃り続けた。
小学校から剃り続けた腹毛や陰毛はもう後戻りできないくらい濃くなってしまっていた。
また、初恋の子以来の好きな子もできた。顔はそれほどかわいくはなかったのだが、それでも人をひきつける魅力があり、好きになった。
しかし、これも本人はもちろんのことその他の人に打ち明けられるはずもなかった。
こうして、僕のコンプレックスは積もり積もっていき、更に心をふさぐようになり、ますます勉強へと身を投じていった。

※ ※ ※

⑤中学時代後半 ~パンクロックとの出会い~

そんな僕にある日衝撃が襲った。僕は、パンクロックと出会った。
いつも兄貴の影響で色々な音楽を聴かせてもらっていたのだが、あるとき兄が3枚のCDを持ってきて流した。
聴いた瞬間に「なんだこれは?!」と思った。
かっこいい、すごくかっこいい。ドカンドカンとうるさくて、ギターとベースとドラムだけのシンプルな音で、それがストレートに僕を刺激する。
兄がかけてくれたのは、「MONGOL800」と「B-DASH」、そして「BRAHMAN」というパンクバンドだった。
内側にたまったフラストレーション、僕の中のコンプレックスの塊を代わりに外へぶちまけてくれるもののように思えた。パンクロックこそ僕の救世主かもしれない、と。

それから僕はパンクロックのCDを買い漁るようになった。
ブルーハーツを知り、甲本ヒロトという偉大な人物を知った。Jelly→というバンドを知り、のめり込んだ。GOING STEADYに出会い、衝動を吐き出すかっこよさに惚れた。
とにかくお金はCDを買うことだけに使ったといっても過言ではない。そのくらい夢中になって、いつも雑誌のパンクコーナーの人気のものを探しては手当たり次第に買った。

そうして僕は希望の光を見つけたわけだが、それでもまだ、僕がコンプレックスから解き放たれることはなかった。
コンプレックスを抱え込むことによって生まれた不満・不安の部分的な解放としてパンクロックがあっただけで、僕はまだ自分を変えられずにいた。
むしろ、パンクロックが好きになったことで悪い方向へと向かってしまった面もある。
というのは、僕は将来何になりたいか、将来の夢は、と聞かれたときいつも答えられなかった。みんなはサッカー選手になりたいとか、お金持ちになりたいとかいうのだけれど、僕には全くそういうものがなかった。今まで夢中になれるものがなかったのだ。
小学校でピアノをやってきた。習字も水泳もサッカーも習い事をした。でも、それらは全部楽しいのは始めのうちだけで、あっという間に飽きてしまい、その後はダラダラとやめるわけでもなくただ続けてきた。やめたいけど一度始めたものを途中で投げ出すと気まずいという理由で続けてきた。
だが、僕はいまパンクロックという夢中になれるものを見つけた。そのときに僕は結論付けた。これこそ僕のやるべきことなのだ。僕はパンクロックで飯を食っていくのだ、そうすべきなのだ、と。

そう思い、僕はエレキギターを買った。友達を誘ってバンドを始めた。なかなかうまくならなかったが、心の中で「毎日少しずつ練習を重ね、いずれうまくなってやるのだ。これこそ僕のやるべきことなのだから」と自分自身に言い聞かせていた。
だが、実際には僕の情熱はすぐに冷めてしまっていた。本気でやる気ならば、毎日練習を重ね、暇があればギターをさわり、曲を作り、ということをやらなければならないのに、僕は何もその努力を続けなかった。いや、少しは練習をしていたのだが、ちょっとやってはすぐやめて、またちょっとやって…という繰り返しで、はっきりいって前進のない、足踏みをしているだけの状態だった。
そんな中途半端な自分が嫌に思ったが、それでもなお僕は自分が音楽でやっていかなければならないという気持ちを持ち続けた。

僕は、物心ついたころから、何になりたいという将来の具体的な展望は持っていなかったが、こうはなりたくない、という願望は持っていた。毎日やりたくもない仕事をただただ目の前に積み上げられているから、と言う理由で片付けて一生を終えるようなサラリーマンには絶対になりたくないという思いがあった。
それだけは、唯一昔から今まで変わらず持ち続けている気持ちかもしれない。
だから、そうならないためには、僕は一芸に秀でなければならない。その道を極めることで、それで生計を立てていけたらいいじゃないか。お金を求めて仕事をするのではなく、自分のやりたいことをやった結果としてお金が入ってくる、そうあればいいなと思っていた。
その気持ちがあったから、僕が音楽に夢中になったときに、「これだ!」と思ったのだ。そしてまだ始めてみる前からそうだと自分に言い聞かせてきた。

しかし、その「自分に言い聞かせすぎてしまうこと」は僕の良くない点である。始める前からもう他の可能性を捨て去ってしまうのだ。
敷かれたレールを歩きたくないといって、自分で無理やりレールを別の方向で固定して、「よし、これで他人と違う向きになれたぞ」と満足して、その方向が本当に自分が進みたい方位だったのかどうかに対しては目を背けた。そのレールを進む努力も怠った。
その結果として、僕自身は何も成長しなかったし、柔軟性もなくしてしまった。なおかつ、夢中になれない自自身分に苛立ちを感じたし、責めもした。

※ ※ ※

⑥高校時代→大学入学

高校時代はもう中学校の延長。
コンプレックスを抱えたままで、好きな子などの打ち明け話もできなかったし、音楽も中途半端に続けた。認めたくはないが、不毛と言わざるを得ない3年間だった。

大学に入ってからも、はじめのうちは中高のころとあまり変わらなかった。

こうして僕は徐々に徐々に何事も起こさずにひっそりと過ごすことを望み、変化を恐れる事なかれ主義者へと堕ちていってしまったのだ。

※ ※ ※

⑦大学1年

しかし、父の事故をきっかけにようやくそんな甘ったれた自分と向き合うようになった。
このままではいけない。このままでは僕は口だけの何も出来ない人間じゃないか。動かなければいけない。そうして、本当に僕がやりたいことを見つけてやりたいことをやって大きくなって、家族を精神的に支えてやるんだ。
そう、僕はいち学生であり金銭的に家族を支えるなんてことは出来ないから、精神的に支えるしかない。それが最善の策だと考えた。

とにかく動かなくては、という気持ちから、今までの甘えた環境を変えるために僕は引っ越しをすることにした。
家賃6万5000円のマンションに住んでいたのだが、それでは親の負担が大きすぎると思い、もっと安いところを探し、結果、家賃3万5000円のところに住むことにした。
そもそも僕にとって一人暮らしの家に対する優先順位というものは低く、ただ帰って寝られればいい、あと風呂さえあれば。そんなふうに思っていたので、これについてはそんなに思い切った決断をしたわけではない。

そんな気持ちのままあっという間に春休みになり、僕は自分のやりたいこととはなんだろうかと考え始めた。
かつて、自分には音楽しかないと言い聞かせていたことの間違いは知っていたから、今回はそのように「なにかやらねば」と自分に束縛をかけながら行くのはよそうと思っていた。
そうして考えてみたときに、僕はまず思ったことを行動に移そうと考えた。

親父の事故があってから春休みに入るまでの間、年末に実家に帰る機会があって、僕はその時ある友達と会うことにした。
高校時代の友達なのだけれど、凄く仲が良かった友達ではない。一言二言はなす程度の友達だったのだけれど、僕は彼のことを高校時代から一目置いていた。寡黙で、社交的ではないけれども自分をしっかり持っていて頭が良い。
一度しっかり話をしてみたいな、と思っていたから思い切ってメールをして話をすることにした。向こうも突然会いたいという連絡に驚いていたようだが、それでも快く会うことを承諾してくれた。そして実際に会い、話をした。はじめは慣れないことで上手く話せなかったけど、次第に打ち解けてざっくばらんに話をすることができた。
高校時代の友達にあれだけ自己開示をしたのは初めてで、やはりそれは「自分を変えなくては」という強い欲求により引き起こされたものであったと思う。

また、僕は昔から歌うことが好きだった。
だけど自分の声はとても低く、自分が歌いたい歌を満足に歌うことが出来ない。加えて、喉が弱いのか歌い方が下手なのか、すぐに喉も潰れてしまう。
だから、ボイストレーニングというものをやってみたかった。ボイトレをやることで、自分の声を潰れないように強くして、そして好きな歌を歌えるようになろうとした。
このときに少しずつ気づき始めたのだが、僕がやりたかったことは、パンクロックをやる、ということ以上に歌を歌うことじゃないのだろうか、と考えるようになった。
そこで、僕は春休みの間に行動を起こした。ボイトレに通うことに決めた。
まずはどうしたらいいのかよくわからないので、同じ志をもつ友達と一緒にボイトレの体験授業を受けた。五回くらいそれぞれ別の場所でやってみた。いろいろ試してみて、その中で自分に最も合った場所を見つけようとした。

実際にやってみて、自分に欠けているというか、今まで歌い方で自分の悪かった部分があるということを知り、いろんな指摘を受けて目から沢山のウロコが落ちた。
僕はどんなに自分の狭い価値観の中で生きてきたのだろう。世の中にはもっともっと様々な価値観があって、それぞれの道を進んでいく人たちがいるのだ。
そのような衝撃を受けたのだが、すぐにボイトレを始めることはしなかった。僕の、親父が事故を起こした後に固めた決意は自分で思うよりもずっとずっと脆く、新しいことを始めることに臆病になってブレーキをかけてしまったのだ。

※ ※ ※

⑧大学2年前半 ~うつの発症~

そんな宙ぶらりんな気持ちで、はっきりとした態度を固められない状態で大学の2年目がスタートしてしまった。
何かやりたいことを見つけたいという気持ちがありつつも、勇気のある一歩を踏み出すことが出来ない。
その狭間でもがき苦しみ、自分を責め続けていたら僕はいつの間にかうつ状態になっていた。
考えれば考えるほど落ち込んでしまう。何もやりたくない、何も考えたくない。というか、何がやりたいのか自分ですらよくわからなくなってしまい、家に閉じこもってしまった。
何もせず、布団にうずくまり、暗い部屋の中でただただ時間がすぎるのを待っていた。明日が来るなんて、明るい未来がやってくるなんてとてもじゃないけど信じられなくて、そこに見えたのは絶望。行く先のない世界。道がないから動けない。道を作ればよかったのにその勇気すらなかった。
そのせいで、バイトはサボるようになり、学校にもあまり行かなくなった。

このままではいけない。そう思い、僕は突破口を探した。まずはこの溜まった感情を外に吐き出すことが大事ではないのかと思い、はけ口を探した。
普通ならば友達に話せばいいのかもしれない。しかし、そのときの僕には自分の本当の心のうちを話せる友達がいなかった。それは友達のほうに問題があったというより、僕自身が心を閉ざしていたからなのではあるが。
友達には話せない、身近に頼れる人が浮かばなかったので、僕は考えた結果大学の相談室に通うことにした。相手は知らない人だけどカウンセラーなわけだから素直に打ち明けても受け止めてもらえるだろう。
とりあえず今は僕の気持ちを受け止めてくれる存在が欲しい、という気持ちだった。

カウンセラーへの相談を始めたことで僕の状態は格段に良くなった。相談に対して何かアドバイスをもらうことが重要だったわけではなく、そこで僕の内面を打ち明けることで、自分の中に溜まっていた排泄物を外に出せたことが良かったのだと思う。
自分の根っこにあるコンプレックスに関しては打ち明けることはできなかったのだが、それでも自分がいま感じている漠然とした不安や絶望感などの自分のネガティブな部分をさらけ出すことはできた。

そして僕は少し前向きになり、何かを始めよう、そしてその中で新しい何かを見つけようと思い、地元の成人式の実行委員になり、学園祭の運営スタッフに参加し、また、ボイストレーニングを始めた。
自分で一歩を踏み出したという意味で、この3つの決断は自分を変えようとする、もしかしたら変われる一歩であったのだが、結論から言ってしまえばこれらをしたことによって僕がガラリと変わることはなかった。

僕は一歩は踏み出した。ただ、踏み出したことはきっかけでしかない。
山に一歩足を踏み入れたら、その後しばらく傾斜のある道を歩き続けなければならないということに僕は気づいていなかった。
成人式の実行委員ではいろいろ物事を計画しながら知らない人と会って交渉しなければならず、それは僕にとってとても辛くて足取りの重いことであった。実際大事な仕事を後回しにして迷惑をかけてしまうことがあった。
また、学園祭の運営スタッフになったはいいが、そこでの新たな出会い、知らない人との出会いに完全に臆してしまった。
なので、入ってすぐのうちは会議に参加していたのだが、ほどなく自分にとって会議に出ることが苦痛になってゆき、何かと自分の中で理由をつけて会議を欠席しがちになってしまった。

数ヶ月経った冬頃、僕は以前よりもずっとうつ状態が酷くなってしまっていた。
本当にそのころは光が見えなかった。
学園祭の仕事はその頃はもう本番が11月だったため仕事が終わって、苦しさから開放されていた。といっても、本番直前期は運営スタッフの仕事はあまり重荷にはならなかった。
そもそも学園祭が好きで始めたわけではなかったため、学園祭が好きだという仲間との意識のズレに対して僕は罪悪感があったのだが、それでも直前期にビラ配りのリーダーという具体的な仕事を与えられて、それに向かって夢中で動いていると不思議と悪い気分はせず、むしろちょっと楽しかった。
そしてそのまま本番まで駆け抜けた。直前になって運営スタッフをやったことが自分にとってプラスになった。
でも波に乗ってきたな、と思ったところで終わってしまい、その後は何かやることを失ってしまったような喪失感を少し感じた。
それとは別で、休む暇もなく成人式の仕事が入ってくる。はっきりいって成人式の仕事をやろうと思ったのは成人式を企画することに魅力を感じていたわけではない。そんなものは全くどうでも良かった。自分が新しい環境で動くことで何か見つかるかもしれないと考えたのだ。
しかし、新しい環境で実際に動くことの難しさ、というか更に一歩を踏み出すことの怖さに心が負けてしまい、ずっとこの仕事が苦痛でならなかった。
学園祭が終わってこの成人式の仕事一本になり、その重責が僕を押しつぶしそうになった。
そうして、嫌だ嫌だと思っているうちに気持ちは落ち込み、僕はこれから何をしていけばいいのだろうかというかつて悩んだことと同じことにまた考え込んでしまい、先には何もないんじゃないかという不安に駆られてうつ状態になってしまったのだ。

前にうつ状態になったときのように僕は学校を休みがちになり、ひとり部屋で朝から晩まで布団にうずくまって時間がすぎるのをただただ待っていた。
そんな自分が情けなくて悔しかった。
どうして神様は、こんな不甲斐ない僕がいるというのに、頑張っている人間であるうちの父を不幸な目にあわせてしまったのだろうか。
それが本当にやりきれなくて、僕は大きくなって初めて声を出して泣いた。
いままで僕は泣いたことなんてなかった。別に我慢していたわけでもないが、心を閉ざしているうちに泣くという機能が僕の中で欠如してしまったのだ。
それがようやく、自分が本当に追い詰められたことで本来の機能を取り戻して、馬鹿みたいに泣いた。ただただ、心を閉ざしていた期間にたまりたまった涙を出し切るように泣いた。

※ ※ ※

⑨大学2年後半 ~心療内科の受診~

このままではもうどうしても自分を保つことはできない。そう考えて僕は悩んだ末に心療内科の病院に行くことを決めた。
それはとても後ろめたいことだった。自分が精神的に病んでいてそれを自分自身で認めてしまうことがいやだった、というのがまずひとつある。
それに、一度薬を飲むようになってしまったら以降ずっと薬漬けの日々となってしまうのではないかということが怖くてためらった。
それに、これが更なる自分のコンプレックスになってしまうのではないかという懸念もあった。
いろいろ行きたくない理由付けはあったのだが、結局それを凌駕するほどの気持ちの落ち込みの酷さがあったため、病院に行って薬を処方してもらった。

薬を飲むことでそれはもう、魔法のように自分の中の不安というものが消えていった。
前向きになって、まずやるべきことをやろう、という気持ちになって、正直逃げ出したかったくらいの成人式の仕事も何とか形にすることができた。
そしてボイトレも順調に通い、何かが見つかりそうな、そんな予感を持つようになった。
それでも、気持ちの落ち込みが完全になくなることはなく、周期的に、大体2週間周期ぐらいで気分の良いときや悪いときが波打つようになった。
とにかく、前回の失敗でも学んだように、何かせねばならないと自分に過度のプレッシャーを与えないことと、心のうちを話すことを意識して過ごすようになった。

僕は自分の心のうちを話せるようになり、大学2年生の終わり頃になってはじめて、心から話せる友達というものができた。それも複数人。といっても新しい友達が出来たのではなく、今までの友達に自分の過去を話したのだ。
正直それを受け入れてもらえるのかが不安だったのだけれども、みんなそれを受け入れてくれた。
友達も、それに応えるかのように自分の心のうちを語ってくれた。それがとてもうれしかった。

それなのに僕はまた春休みの終わり頃に、ひどいうつ症状に襲われてしまった。
もう安定してきたから薬を飲まなくても大丈夫だろう、と独断で薬を飲まなくなったのがきっかけで調子を悪くしてしまったのだ。
友達に打ち明けることもうまくできなくなってしまい、自己解決をしようとしてどんどん深みにはまっていった。

※ ※ ※

⑩大学3年 ~「自己表現論」との出会い~

そんな最悪の精神状態のなか、大学3年生を迎えた。

そこで運命の出会いに恵まれる。「自己表現論」という授業との出会いだ。
授業の履修登録のときに何となしにぱらぱらと冊子を眺めていたときに目に飛び込んできた。不思議な感覚だったのだが、迷わずに僕はこれを受講しようとその瞬間に思った。
僕にとって、「自己表現」というものがいま自分に足りないものだと直感したのだった。

そうしてこの授業を受けることになったわけだが、初回からこの授業を受けて、僕は、自分の選択に間違いはなかったことを確信した。
自己表現論の授業では、いい人生にするためには「自己を表現すること」がとても大事なことであり、自己を表現するためには他者との関係というものが不可欠になってくる。他者関係の中で自己表現をする。
他者関係を密に持つためには、自分から好意を示していくこと、自分から心のうちを開いていくことが大事なのだということも学んだ。僕にとっては目からウロコがポロポロと落ちるようで、衝撃的だった。
これを実践してみれば僕は僕がなりたかった目指すものになれるかもしれない、薬なしでやっていける人間力のある人になれるかもしれない、きっとそうに違いないと直感した。

これを期に、僕は自分から勇気を出して一歩を踏み出すということを意識して人との付き合いをしていくようになった。
自己開示が上手くできたときは、とても心が満たされた感覚になる。自分を開示することにはとてもエネルギーが必要で、ともすればそれで心が疲れてしまいかねないのだけれど、そうしたときにもし共感と言う形で自分の開示に対して他者が反応してくれると、それは消費した以上のエネルギーを与えてもらえる。
ちょっとリスキーだから、常に開示し続けることは難しいけれど、要所要所で自己開示をし、次第に慣れていって、最終的には心を素直に開ける人間になれたらいいと思う。

※ ※ ※

⑪現在(※レポートを書いた直後)

いま僕は、変化の途中にいる。コンプレックスの塊だったころを越え、父の事故を越え、いまを生きている。
まだ、将来のことは考えられない。はっきりいってそんな余裕はない。僕は今をどう生きて、そして僕がこうありたいと思い描く姿になれるかを模索している。
僕だけではない。父は不安定になりながらも、それでも自分のやるべきことをやってきている。母にしても然り、前向きにひたむきに生きている。兄もそう、父と母の間で頻繁に起こる喧嘩に神経をすり減らしながらも、自分のなりたいものになろうと、社会人になる直前に気づいた。自分はこのままではいけない、もっと上を目指さなければならないという大いなる目標のために努力を重ねている。
彼らと比較すると今の僕はまだまだ、ぬるま湯に浸かっている状態である。でも、僕はいま心を病んでいるから、杖をつきながら少しずつ歩いていこうと思う。
確かに、ぬるま湯に浸かっているのはとても後ろめたいことで、はやく熱湯の中にとびこむべきなのかもしれないのだが、それでは僕の心が持たないのだ。幾多の失敗を繰り返しながらそれは学んできた。僕は自分に「must」の感情を押し付ける傾向があり、それが苦しみや葛藤を生んで歯車を狂わせてきた。
だから、僕は自分のペースに合わせて、かといって自己満足にはならず、他人の動きを見て、他者と互いに切磋琢磨し合いながら人間力を高めていきたい。
みんなで前に進んでいくのだ。いろんな人と関わって、一人で走るのではなく、二人三脚、いやもっと、三十人三十一脚、それよりもっと大人数でデコボコ道を走っていけるようになる。人が多くなればなるほど難しくなる。でも、その分走りきったよろこびは大きくなる。
困難なほうでいい、僕は残りの人生、難しい道をみんなで走りきってみたい。

コンプレックスを抱え込まず、過去の後悔を引きずらず、いわばその自分の負の部分をプラスの力に変えていく、変えていこうとする姿勢が大事であり、そうして行こうという意思がある。
時おり逃げながらも自分と向き合うことやめずに、気付きを得ることができたということが、僕の長所であり財産なのだと思う。
僕の長所というものは、短所があってはじめて成立するものなのである。
だから、短所こそ自分を伸ばすための糧であると捉えて、そこから目を背けずに自分と向き合っていきたい。
そして、自分と向き合うことだけでなく、他人とも向き合って、皆と向き合っていきたい。
そういう存在に、いつか僕は、なる。何ヶ月、いや、何年かかるかわからない。でも、そんな未来をつかむ。

僕は、つかむ。

【おわりに】

こんなめちゃくちゃ長いものを最後まで読んで下さった方、どうもありがとうございます。

自己表現論で課題として出された12000字レポートの提出が、僕にとっては転機となったわけですが、これが全員に当てはまるかどうかはわかりません。あくまで僕の場合です。

でも、うつ病の予防および克服には、どこかで自分の弱い部分と向き合っておく必要があるというのは確信を持って言うことができます。

そのタイミングがどこなのか。それが非常に難しいのです。

でも、どこかで自分の意思で一歩を踏み出さなきゃいけない。一歩歩いて二歩下がる、それでも良いから、自分の意思で足を前に出す。
その積み重ねがきっと、あなたを強くすると思います。

自分の一番の味方は自分です。最後まで自分の可能性を信じ抜いてください。

以上、最後まで本当にどうもありがとうございました。


(おわり)

もしめちゃめちゃ満足して頂けるようなことがあれば!