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ディズニーランドとジャック・ケルアック-1/5

『路上』の旅に登場しないフロリダの足跡を訪ねて

 ディズニーランドとユニバーサルスタジオ、そしてケネディー宇宙センターを抱えるフロリダ半島中部の街、オーランド。ここにジャック・ケルアックの家がある。1軒だけではない。2軒だ。大衆娯楽と観光の一大拠点として知られるこの街とケルアックの取り合わせは、とても奇妙に映る。

 ケルアックが晩年をフロリダで迎えたことはよく知られている。しかし、出世作『路上』(On the road) の出版前後1年弱、そしてその続編とも言うべき『ダルマ・バムズ(The Dharma Bums)』の執筆期間をオーランドで過ごしたことは、これまでまったく知られていなかったのではないだろうか。

 三度におよぶ『路上』の旅に登場しないフロリダ。ケルアックと言えば、ビートのメッカ、サンフランシスコやニューヨーク、あるいは住所不定のイメージ強い。しかしケルアックは断続的にではあるが、四度もフロリダで暮らしていたのだった。一方、サンフランシスコに家を持ったことは一度としてなく、ギンズバーグらの家に居候するか、ホテル暮らしするのが常であった。

 ケルアックは、なぜフロリダに拘ったのだろうか。

 フロリダ時代を調べることで、「無頼と放浪」のイメージで語られるこの作家の、意外な一面が明らかになるのだった。

●『路上』の旅で一度も立ち寄らなかった土地へ来た理由

 オーランドは典型的な郊外の街として語られる。観光客が押し寄せるテーマパークを除けば、この街にはめぼしいものが何もない。それこそアメリカのファスト風土そのものと言って間違いないような、退屈な場所だ。

 よそにないものと言えば、数百もの池や湖が点在する奇妙な風景や、モヘヤのようなスパニッシュモスが垂れ下がる巨大な木々、ロサンゼルス以上の車社会だという部分くらいだろうか。

 そんな街にケルアックがやって来たのは1956年の12月。まだディズニーランドは建設されておらず、1920年代に建設された別荘地と果樹園、それから第二次大戦の帰還兵のために量産された単身者向け住居が建ち並ぶだけの街だった。

 フロリダにやって来た理由は、じつに単純なものだった。じつの姉キャロライン(愛称ニン Nin)が夫のポール・ブレイク(Paul Blake)、息子のポール・ジュニア、そして実母ガブリエル(愛称メメール Memere)とともにノースカロライナからオーランドに移ってきたのが1956年秋。その姉夫婦の家に居候を決め込もうと考えたのだった。

 当時のケルアックは処女小説『街と都市(The Town and the City)』を1950年に出してはいたものの、ぱっとしないニートそのものだった。ありあまる時間と移動の自由こそあったものの、自立しているとは言いがたく、経済的な支援をあてにしてのオーランド入りだった。

 ちょうど寺山修司が「書を捨てよ、街に出よう」と言いながらも、その実、主催劇団「天井桟敷」の事務所が母親の経営する喫茶店の2階にあったことを彷彿とさせるエピソードである。

 姉夫婦がオーランドに移ってきたのは、折から盛んになっていた米ソの宇宙開発競争が発端だった。ケープカナベラにケネディー宇宙センターが出来た影響で、それまで単なる田舎町でしかなかったオーランド一帯に、都会のインテリ層が群れをなして移り住むことになった。田舎町でテレビの修理工を稼業としていた義兄は、活路を見いだそうと、人生の大逆転を掛けてこの街に来たのだった。

 じつはケルアックはノースカロライナ時代の1948年にもブレイク家に居候している。このときは出産後の姉の手伝いをする、という名目で母共々義兄の家に世話になっていた。しかしケルアックの反権威的な気質と退役軍人で規律にうるさい義兄とでは、ウマが合うはずがなかった。義兄は『路上』の旅をまったく理解しておらず、ケルアックを役立たずの社会不適応者だと考えていた。さらに言葉の問題があった。ケルアック家の人間はフランス系カナダ人の子孫だったため、家族同士の会話はフランス語である(だからケルアックは小学校に上がるまで英語が全く話せなかったという)。フランス語のわからない義兄は家族内で疎外感を感じており、これが問題をいっそう複雑にしていた。

 編集者からの依頼で『路上』の登場人物を仮名にする作業は義兄の家で仕上げたものの、フラストレーションに耐えかねたケルアックは自活を決意する。その舞台が「ケルアック・ハウス」と呼ばれるクラウサー・アヴェニュー1418 と 1/2番地の家だ。

#ケルアック #旅 #ビートニクス #文学 #ノンフィクション

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