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神奈川・米軍根岸住宅地にある「日本人」住宅

米軍側の身勝手が優先される一方で被害を知りながら「何もできない」と言い放つ日本側の警察。政治家も裁判所も動きが鈍く、改善の兆しは一向に見えない。日米地位協定を盾に翻弄される住民生活。米軍根岸住宅地に暮らす夫妻を取材した。

自宅前の佐治さん。この家の周囲だけ戦前の日本がそのまま残る。後方の通信塔がロケット弾で攻撃された。

家から一歩出れば米軍基地内……。関東首都圏にそんな異様な場所がある。約70年に渡って捨て置かれてきた住人は、ついに国を相手に損害賠償を求め訴え出た。

原告の佐治実さん(※2015年の取材当時67歳)と妻のみどりさん(同64歳)の自宅は、神奈川県横浜市の中心部にほど近い山手の丘の一角にある。かつて外国人居留区の一部として西洋式競馬場が設けられ、当時はまだ珍しかった西洋野菜の栽培や、乳牛の飼育が行なわれたエリアだ。日本の敗戦後に辺り一帯は接収地となり、いまも在日米軍の施設が青い芝生の海原に点在している。佐治夫妻の住まいは、その米軍根岸住宅地のど真ん中に位置していた。

「この家は船具商だった祖父母が別宅として建てた家なんです」と、みどりさんは説明する。1951年にこの家で生まれ、ずっとここで暮らしてきたという。みどりさんが生まれたとき、すでに自宅の周囲は米軍施設に囲まれていた。接収が行なわれたのは47年だが、当時10軒が徴用を免れたそうだ。ただし当時の記録がないため、なぜ取り残されたのかはわからない。

「敗戦国日本」を実感

終戦後の日米間の国力の差は歴然としており、「基地の中は高級車ばかりでした」と、みどりさんはふり返る。根岸住宅地には上級士官とその家族しかいなかった。日本人がようやく自転車を手にしたとき、基地内の駐車場には米国製のキャデラックやムスタングが並んでいた。この住宅地の近くに実家がある実さんも、当時の様子をよく覚えていると言う。みどりさんが中学校を卒業する頃まで、米軍将校たちの家々にはメイドやボーイとして働く日本人の姿があった。敷地内に彼らの独身寮があり、そこから毎日通勤していたのだ。米兵と結婚した日本人女性たちも暮らしており、基地内で日本人を見かけることは珍しくはなかった。

78年、幼馴染みだったみどりさんと実さんは結婚し、実さんは現在の住宅に移り住んだ。「当時は兵士のマナーが良くて、道端で子どもを見かけると渡りきるまで車が待っていることもありました。時代を経るに従って、どんどん悪くなっていったんです」(実さん)

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