エッセイ「人間になりたかったバケモノ」

早く人間になりたい。

私は自分が人間かどうかも曖昧なまま生きている。
バケモノが「人になりたい」と言って人間をうらやんでいるような感じだ。
そう、私はどろどろで汚くてぐちゃぐちゃなものでできたバケモノ。人間などではなくバケモノなのだ。当然、人の形など持っていない。

折角読んでくれた人に向っていきなり衝撃的な告白をしてしまった。今回の記事はこの先も闇である。明るい気持ちになりたい人はひっじょーに申し訳ない。

だが、私のことを買ってくれた人に差し出せるのは、私がうまく出しきれずに抱えていた過去だと思っていた。

特に私は彼氏のいる人、結婚している人、仕事でうまく行っている人……いや、普通に仕事をしている人、学校が楽しい人、楽しくないけど自分が人間だと思える人、みんなみんな羨ましい。幸せだろうとなかろうと羨ましい。めちゃくちゃ羨ましい。羨ましい……羨ましいんだよ!!!
みんなみんな、周りを見渡せば人間ばかり。私と違って人間なのだ。人間。そう、人間。私は人間が羨ましい。人間になりたい。

私は人間扱いなどされなかった。
実を言うと、「天才」と言われることは多々あった。だが、「人間だ」と言われたことはほとんどない。当然、女性扱いはもっとされなかった。
苦手と感じた男やヤれるやつなら誰でもいいみたいな男以外、女性として扱われたことがない。

学生の頃を思い出せば、何をしても必ず「矢御の癖に」と言われた。
あの頃の私はピエロだった。珍獣だった。
当たり前のように廊下で会った特に仲良くないスクールカースト上位の女子に胸を揉まれ、「あ、カンじてるーw」と笑われて一日が始まる。

だが、高校に入った頃、珍獣である私を構ってくれる親切な人たち、「人間様」たちが沢山いた。

人間様たちは毎日私がどれだけブスなのか教えてくれて、ストパーを掛けた時、クラスの田中くん(もちろん人間様だ)に「お前がそんな事しても意味ねーんだよ」と言われた。毎日。休みなく。

それでも、教師すら私を守ってくれなかったどこにも居場所のない中学時代よりマシだった。中学時代に比べれば、本当にみんなみーんな親切。毎日私は感謝で手を合わせた。――中学時代は、もっと悲惨だったのだ。

「うちら」「仲間」「楽しい」「青春」は全部ぜんぶぜーーーんぶ、人間様のもの。
バケモノである私は人間様が「要らない」とごみ箱に放り込んだ「面白い奴」「変人」「キ〇ガイ」という僅かに残された椅子に縋るしかなく、それに尻を押し込めてなんとか居場所を得たと安堵した。
そうしてバケモノは言った。「あーあ、高校生活って楽しいな~」。思い込むしかなかった。
バケモノは、人間様を喜ばせるために必死で生きていた。

私が決定的に人間じゃないんだと思わされた出来事は、きっとあの日だ。

高校二年生に初めての恋をした。心が躍るような日々。
周りが見えなかった。バケモノが王子様の愛の力によって人間になるストーリーを思い描いた。完全に浮ついていた。

修学旅行でパリに行ったとき、私は初めて好きになった男の子にホテルの内線で告白した。
正直、告白なんてうまくいくとは思っていなかった。身分の差ぐらいは弁えていたのだ。
当然こっぴどく振られてしまった。バケモノは泣いた。

ここで話は終わらない。
……好きな子の内線の先。そこにはクラスの全員が集められていた。
私の好きで好きで仕方の無かった恋は、見世物にされたのだ。

あのトラウマで見世物になった私は一切の得をしなかった。
男性が苦手になったのだ。今も同世代の男性と話すのが怖い。物理的にも心理的にも触れられるととたんに怖くなってしまう。過剰に意識してしまうのだ。

キモがられているとか、「コイツ、人間じゃないな」とバレたり、「うわ、変なのに好かれた」とか思われてしまう気がしてしまう。

だが、傷ついた自分よりも彼らがしたのは「バケモノ退治」だと思っていた。
鈴木君に付きまとう身の程知らずのバケモノを退治しました。めでたしめでたし。
そうして彼らのストーリーは一度ハッピーエンドを迎えたのだ。

あの出来事のあと、人間様からのありがたいアドバイスを頂いた。「鈴木くんはお前のこと人間じゃないって最初は知らなかったんだよ」
そっかー、人間じゃなかったのかー。そうだよなぁ。教えてくれてありがとう。嬉しいな、やっぱり人間様って親切だ。すごい、嬉しいよ。

そして、親友やクラスメイトである人間様からはルーズリーフ一枚では書ききれない「直すべきところ」をご教授頂いた。担任からは「性格を直せ」ときつくご指導いただいた。
人間様はみんなみんな親切。バケモノの私にとっても優しかった。あまりにも優しいので、バケモノはいつも泣いていた。

バケモノは、バケモノに優しくしてくる人間様に感謝し、どうすれば「正解」になれるのか、どうすれば人間になれるのか、どうすればバケモノじゃなくなるのかわからなくて泣いていた。
わからなかった。
目いっぱいに散り積もった「人間になるための課題」に動けずに、「どうすれば」という不安ばかりが頭の中でぐるぐると回り、行動などできないまま処理能力を超えて痛いかどうかもわからずパンクしかけ、息をするのがやっとで動けなかった。
泣くことしかできなかった。泣くことしか私を表現する方法がなかった。

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その後、人間達のハッピーエンドで幕を閉じた世界で、バケモノはどうなったのだろうか。
人間たちの手によって退治されたバケモノは、その後に整形をして綺麗になって誰もが振り向く美人になったとか、仕事で大成功して日本の未来を作ってますとか、残念ながらそんな事は別にない。

バケモノは自己肯定のための器を壊したまま、「人間になりたいんだ」と叫んで30歳を終えようとしている。(※執筆当時)

その後のバケモノは普通の大学を出て、NPO法人に就職をした。そこは「障害者も健常者もみんな平等、生きやすくなろう」を掲げていた。この場所は優しくて自由だ。バケモノでも自由に生きていい場所。平等を絵に書いたような福祉の楽園だ。
……バケモノはその団体を5か月でクビになった。

バケモノの仕事を転々とする生活が始まった。

上司たちである人間様は、常に「冷めた目」で私を見ていた。

私は会社で役に立った試しがない。ミスばかりするし、コミュニケーションも自分の事を話してばかりだし、仕事はできない。何度も同じことを注意される。次第におどおどし始める。あの日退治されたバケモノは――バケモノは、バケモノのままだった。

バケモノは殺されることなく生き延び、バケモノのまま人間様に迷惑をかけ続けた。

そして、2015年、バケモノは医者にアスペルガー症候群と診断された。今でも付き合いのある主治医だ。
私はどこかですっとすることを期待したが、結局「バケモノ証明書」を発行された気がした。

あの診断が下されたころ、バケモノはずっとある結論を出そうとしていた。
「バケモノ退治をした隣のクラスの男子たちの行いは正しかった」
絶望した。泣いた。人前でも所かまわず、仕事先で、会社先で、ベッドの上で泣いた。泣くことを我慢できなかった。泣いてばかりいた。

なぜか元中日ドラゴンズの和田一浩さんのコラ画像では笑った。あの頃、誰かをバカにしたギャグやコラ画像など、人を貶めるネタでばかり笑っていた。

私はアスペルガーを、(きっと今も)差別していた。
自分以外のアスペルガーで頑張る人はともかく(これは大事なので死ぬほど言う。違う。障害があっても素敵に生きている人はたくさんいる。許せないのは自分だけだ。)、私自身のアスペルガーは究極に差別していた。

私は家族を相手にいまだに障害を盾にして「私にはできないって言ってるでしょ」と言ってしまう。私は弱い人間だ。「できない」の言い訳にアスペルガーを挙げてしまう。

障害があるという現実は、今、この時も私の自信を蝕んで不安に変えている。未だに私は、自分の障害と仲良く生きられていない。

無事バケモノ証明書を渡された正真正銘のバケモノに、人間様はありがたい言葉をかけた。
「困った子」、「山から出てきたような奴」、「お前、最低」、「は? と思った」。
バケモノは毎日泣いていた。

泣いていたバケモノを慰めたのは母だった。
母は私と同じ種族だからこうやって慰めるが、人間様はきっとそうはしてくれないと思っていた。
人間様に認められなければ意味がなんてねぇんだよ、と。

最後に勤めた会社に入り、1年10か月を越えた頃、バケモノは笑えなくなった。
バケモノはバケモノの癖して心の痛みに耐えることができない体質だった。我慢が足りずにすぐにピーピー泣いていた。

その会社で人間様である店長は仰った。
「みんな苦しいの! 辛いけど仕事してるの! お前みたいないい加減なヤツの事を呪ってやる!!!」
いい加減なバケモノは呪われた。
とっくに人間になれない呪われているのに、また呪いにかかった。

その後、バケモノは小説を出すようになった。
色んなことを思って、それを記事にして発表しているし、小説も書いている。

バケモノは死なずに30歳を終えようとしている。
生きている。どうにか生き延びている。
自殺未遂もリストカットも一度もせず、うつ病にもならず、暴飲暴食癖とストレスで頭ははげかけてる程度で済みながら、まだ生きている。

そしてバケモノは2019年の1月1日に、身の程を弁えずに人間だと宣言した。
バケモノは、バケモノではなくなろうと……している。多分。まだバケモノじゃないとは言いきれない。

失敗をすると人間の定義が危うくなる。今、この文章を書いているときも、失敗したばかりなので定義があいまいで、平気ではないが涙さえ流せば自分を「バケモノ」だと平気で言えてしまう。
そう、この文章の二稿は泣きながら書いている。

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私が「人間である」と宣言するまでのその間、よくぞ死なずに生きてきたと思う。
もしかしたら死んでいたかもしれないし、もっともっと病んでいたかもしれない。
だが、私が生き延びたのは私のことをほっとかないでくれた人の存在だったと思う。

その人たちは、私を甘やかしてくれた。感謝すると同時に、それをどこかで同情だと思って、彼らを変な人だと思っていた。
バケモノなのかもしれない、と疑った。だが、彼らは私の思う「喜ばせるべき人間様」ではなかったにしろ、間違いなく「人間」だと思った。

その人たちは沢山いた。一人じゃなかった。

めっちゃくっちゃ奢ってくれた違う部署の先輩だったりとか、いじめに加担しなかった先輩とか、スナックの二代目若マスターとか、冷静な後輩とか、私が勝手に師匠と呼んで慕っている夫婦だとか……。

私は人間様である上司たちの評価が「正しくて」「正義」だと信じていた。
だが、彼ら「人間」の存在に数多く救われてきた。

クビになって以降、東京でいろんな仕事を転々として全然うまく行かなかった私を、先輩は飲みに連れてってくれた。時々デリカシーのないことを言われて、それを怒ったり笑ったりしたけど、先輩に対して「人間様を楽しませよう」という気にはならなかった。
先輩は、私がデビューした時に「ちょっと高い食べ物を奢ってあげるよ」と言ってくれた。その約束は果たされていないが、せめて割り勘できるようにはなりたい。

人間様に認められないまま、会社を転々としていた頃、通勤ルートにスナックがあった。
バイト先の先輩の家の店で、先輩は温かく迎えてくれた。
仕事が全然集中できなくて、辛くて毎日泣いていた私に色々な漫画を教えてくれた。私の小説家としての才能を信じてくれた。

おいしいごはんを食べさせてもらって、しょっちゅう朝まで飲むのを付き合ってもらった。「好きにしな」と言ってくれた。

アスペルガーの診断を受けた時期、絶賛パワハラを受けている中でその宣告に死なずに生き延びたのは、一重にいじめに加担しなかった会社の先輩のお陰だ。
あの会社で、とうとう人間様には見えなくなってしまった。なのに、私の姿は先輩にだけは見えていた。私はつまらない話ばかりしていたと思う。人間様が話を聞いてくれなかったぶん、必死で先輩に自分の話ばかりしてしまった。

私の散々な社会人生活において、辞めた後に「やっぱり矢御は必要だった」と言ってくれたのは一社だけだ。
ミスばかりして、いい加減な仕事ばかりしていたのにかかわらず……言ってくれた。
私はその会社を辞める時、「家の仕事継ぐ」と嘘をついてしまった。アスペルガーかもしれないという現実に耐えられなかったのだ。

申し訳ないことに、後任者にめちゃくちゃ当たった末に出て行った。後任者は仕事はできるが夢がある人で、まともな人間だった。

社会での私を肯定してくれた上司は二人いる。前述の町工場の社長と、今は亡き最初に勤めたNPOの代表だ。私の採用を提案したのは彼女。そして残念ながら、私の所属はその代表の手から離れた事業だった。

私が辞めた後、代表は私を別事業の人たちのカラオケに参加させてくれた。彼女は、当時なんの生きてる意味もないと思っていた私ご飯をご馳走してくれた。「歌が上手いね」「いつでもおいで」という優しい言葉と一緒に。
だが、間もなく代表は病気になってしまい、数年後にこの世を去ってしまった。その知らせを聞いた日、今と違って滅多に自分の事を書かなかった私は代表のことを泣きながら書いた。

そして、母。

私の母は私の話をいつも辛抱強く聞いてくれた。
変なアドバイスをしては私のことを振り回して、いわゆる「いい子」でありたかった私はそれを真に受けて失敗ばかりして、親が決めた友達とうまく仲良くできなくて凹んだりもした。
今も贅沢するなと私の生活に制限をかけようとするが、私はこれを書いた日、そこそこ高いアスタリフトの化粧水っている。反抗期だ。

だが、私にとってはこの人に愛されたお陰で腕は剃るのをさぼった毛はあれど、特に傷はない。私には、天才小説家としての腕と、生きづらさだけが残っている。この生きづらさは、私の武器だ。
多分この人の娘じゃなければ私は天才じゃなかった。

「もしかしたら実写化したらイモトアヤコさんに演じてもらえるかも!」という希望など、微塵もない人生を送るハメになっていたと思う。

この人が母親じゃなければ道を踏み外していなかったみたいなご指導もあるかもしれないが、結果はわからない。もっと最悪ならば私の腕は傷だらけか、がりがりか、最悪の場合は死んでいた。多分、死んでいた可能性が一番高い。

私は身体能力がカスな上に、そこそこ成績は良かったが行動がとにかくバカだったのでスクールカースト最下層は逃れられなかったと思う。

嘘みたいに歪んでスレた奴になっていたかもしれない。その「スレ」は多分、今の私の持つ感性をザリザリに擦ったものでできているんじゃないだろうか。

私が天才小説家として31歳を迎えたのは、母親の存在も大きい。

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小説家デビューするまでの私はいつだって心をすり減らして自分を他人に捧げて見捨てられて軽蔑されてぐちゃぐちゃにじられて、嫌だとも言えずにぎりぎりで生きていた。

誰よりも大切にされたくて孤独で孤独でおかしくなりそうなのに、その感情すらわからずに「大切にして欲しい」なんていうことができなかった。
自分は大切にされないのが当然の存在だと思っていたからだ。

売れてもいないくせにデビューで変わるものか、と思う人もいるかもしれない。
実際私もそうだった。でも、私はデビューで確実に変わった。
出会ってしまったのだ。

それが、最初の編集さんだった。

私が宝島社の編集さんを過剰に愛して敬しているのは、多分、彼女だけが「私を踏みにじらずに、私が大切にしているものを一緒に大切にしながら仕事をしてくれた人間」だったからだ。単純に忙しいから私を見ることができなかったのかもしれない。

あ、好きだ……。
好きじゃないわけがない。好きで好きでたまらない。初めてお金を稼ぐために働くことを教えてくれた人。はじめて私を下に見ずに一緒に働いてくれた人。あぁ……好きだ。好き!! 超好き。

その編集さんは、私にnoteを書くことを勧めてくれた人でもある。
彼女はこう言ってくれた。

(引用)矢御さんには、矢御さんの書きたいものを書き続けてほしいと思います。
申し訳ないのですが、それをうちで書籍化できるかはわかりません。
それでも、私は矢御さんの書く物語が、いちファンとして好きです。

私も好きです!!!!!!!!!

彼女の存在は、私にとっては希望そのものだ。冗談抜きで感謝している。
実は本気でやきもちを焼くせいで彼女の別の仕事を直視できないのだが……。

また、アスペルガー症候群への意識も今では少しずつ変わっていっている。
改めたきっかけはごく最近で、笹塚チェン氏とアスペルガーについて話してきた。

笹チェン(略称)はASDだが非常に社会的だ。多分、持っている特性は私よりも際立ったものが多い可能性がある。だが、彼女は決して困った人などではない。すごくすごく素敵でかわいい女の子だ。色々なことができる才能もある。

今もこの文章を打っている中で気づいたが、私がいけなかったのは「自分の事を下だと思っている」ことだった。すべてはそれが間違っていたのだ。
色々な事象や要素を無意識に「自分を下に見るための材料」にしていたのだ。

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今、自分をバケモノと呼ぶ代わりに自分の失敗経験や障害を「天才」「才能」と呼んでいる。一見ポジティブな言葉だが、中身を剥けばドロドロと汚くて臭いものでできている。

ふと立ち止まる時、うまく行かない時、時にはうまく行きそうなとき、「お前は人間じゃない。人間じゃないんだ。生きていて恥ずかしくないのか?」と声がする。誰でもない、私自身の声だ。

この間、私は男性に一度も存在を肯定されていないまま今に至る。
カップルらしいことは一切ない。セックスもしていない。
男性に生き物として、個体として生を認められていない。

立ち止まればすぐに声がする。私の声でできたそれは、いつも「正しい」と思っていた。
今もまた、私の声がする。
私の声は「男達はお前みたいな魅力のない女は死ねって言いたかったんだぞ……」と囁いているような気がした。

だが、「うるせぇよ」と。うるせぇんだよ。
その声に対し、蚊の鳴くような声で言った。歯向かった。

そう、うるせぇんだよ!!!!!!

私はイギリスは好きだがフランスが嫌いだ。

ようやく気付いた。私はフランスが大嫌いだ。
あの時食べたフランス料理なんて全然おいしくなかった。食べてる間胃もたれした食事なんて後にも先にもこれだけだ。タイで辛いケンタッキー食べた時の方が全然おいしかったし、常陸牛と比べたら足元以下だ。

フランスで食べた料理なんかより、帰ってきて母親が作ってくれた野菜たっぷりタンメンの方が全然美味しかった。あれめっちゃくっちゃ美味しかった。お母さんありがとう!

しかも、一番役に立ったお土産とかアレだからね、お風呂用の泡立てスポンジ。そんなん茨城でも買えるわい!!!! それ以外、ろくなお土産はなかった。チョコとか特に美味しくなかった。

そもそも、学生が既定のルートで行きたくもない場所に行かされて参加者全員がいい経験になると思うなよ! みんな幸せなんて絶対無理なんだよ!!

フランスでの出来事って、糞みたいでしょう?

いやいや、ふっつーにそんなことするとか、やりすぎでしょ。
やばいでしょ。おかしいでしょ。私だって「サイテー!」ぐらい言う権利、あるでしょ?
そんなことするような男子になんて好かれなくていいよね。多分、些細な出来事にどん引きしてたわ。あー良かった。

上司とかもそんな人に気に入られなくていいわ!
今思えばパワハラ上司というか、問題のある職場だったと思う。
事実、私が最初に勤めた会社はあの後うつ病患者が大量発生した。価値感すらコントロールしようとしている人が居たのだ。

あれ、これ冷静に考えて逃げて正解じゃない?
他の職場も似たようなものだ。上司は多かれ少なかれ、私とうまくやる気がなく、私をいかに「コントロールするか」ばかり考えている人ばかりだった。

私が散々自分を攻撃するための道具にしていたアスペルガーだって結局は突き詰めれば個性だ。アスペルガー症候群はあくまで「特性」だ。

私はアスペルガー症候群を持っている「おかげ」で得意と苦手がはっきりしているし、私の苦手から生まれた経験は私が文章を作るにあたって大いに役立っている。得意ばかり書いたっていい文章は生まれない。
苦手なことはネタになる。誰かを元気にするための気づきも多い。

そんなふうに、作家としての私は「普通じゃない部分」に多いに助けられている。
これが、いわゆる「天才」たる所以。私の天才の中身は「痛み」や「失敗」と引き換えに得たものばかりだ。
わけのわからないドロドロでもなんでもない。痛みを引き換えにしたかけがえのないキラキラと輝く宝石のような宝物だ。

私はこの才能を信じている。
自分の譲れないものまで曲げて捧げる必要なんてない。自分を下に見る必要なんてない。

それを教えてくれたのは、沢山の人だ。私を「生かしてくれた人たち」だ。
彼ら、彼女らは私のその「キラキラとした何か」を信じてくれていた。

受けた恩がデカすぎるから出世払いなんてできるかはわからないけど、沢山沢山幸せになるよ。

みんなありがとう。私、みんなが大好きだよ。


※このnoteは2019年3月に書いたものです。

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