何かに例える

説明をしなければいけない時がある。聴き手も種々雑多で、何が理解の助けになるかは分からないシーンってよくある。

人は勝手にわかったふりをする

僕はそう思ってる。だったら、分かったふりをしてもらう事が満足につながるという逆説なんだけど、何とも言えず的を得ている感覚も分かる。

けど、僕は欲張りなので自分が何かを誰かに喋らないといけない時には、それがマンツーであれ、マス向けであれ、会議であれ、上司との1 on 1であれ何かを伝えたい思ってしまう。

真実は歪めない程度に脚色はするしそこに笑いがあるほうが良いんだと思ってる派で、盛りすぎない程度に盛って話に色を添えるのは日本人ならではの遊び方な感じがして好きだ。

理解を促すには、僕みたいな頭の構造をしている人には例え話はとても役に立つ。逆に理系一直線な論理の塊な人には、理路整然と話した方が良い。自分が喋る時に聴衆は選べない。選べたとしても本質的にどちら側の人間がどれぐらいの割合でいるから、こちら側の伝え方で行け!なんて把握の仕様がない。居酒屋で友だちや、気心の知れた先輩や、恋人ならまだ分かるもんだろが、喋らないといけない状況下でそんな事はありえないと思った方が幸せだろう。

じゃあ、例え話をする意味って何だろうか?実は、二つの効能があるんだと思ってる。一個は当たり前だけど卑近なものにたとえてあげることで、身近なものとして捉えやすくしてあげるということ。もう一つは、自分の理解を助けるということ。

後者の方が実は大事で、メカニズムや構造なんかを話さなきゃいけないときには、世の中にある何かに絶対に似ているはずなので、(ビジネスはパクりなのでね。)それを見つけだすのはとても大事だからだ。

ソフトウェアの話も、同じアーキテクトでも全然違う建築界隈のアーキテクトと話をしたらすごく面白かった。てかfaçadeって普通に使うんやぁとか、なんでそんな言葉知ってるの?とか、こっちが二番煎じなんだけど、そういう新たな発見があったりするもんで……。

結果的に、自然の中にある何かからヒントをもらってる。絶対的にヒントをもらってる。だから、そこに辿り着けるっと事が、物事の本質をつくためには大事なことだと思ってるのね。以前に、名前は大事だって話をしたのも実はそれ。自然をよーく観察してつけた名前だったりするので、その由来にまで触れられてると己の裾野は増えるし、増えた裾野の分だけで自分の説明に厚みが増えるという事だと思ってる。

ちゃんと話さなきゃ、面白いこと言わなきゃとか言って変な盛り方するぐらいだったら、物事のコアに目を向けた方が良質なものになるよということでもある。

こんなしょうもない観察範囲でも色々と繋がってる、本当にこの世の中は無駄がないんだなぁと思うよ。頭の使い方が大事なんだけどさ。

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