論破したいのか?

そもそもの話で恐縮だが、「論破した!」とか、「はい、論破!」みたいなのが嫌いだ。

白黒はっきりつけなきゃいけない時に、言いくるめれば良いってのはあんまり論理的じゃない。本質的に論破ってのはそういう意味ではないだろうし、どちらが論理として正しいかであって、論理的な正解が真実でも、最善でも無いって事を忘れてる気がする。

50 vs 50 を決めなきゃいけないときは、これで良いと思う。だって、正直どっちでも良いんだから。51に見えてる人が頑張って主張してもぎ取れば良いと思う。別にそれが49で形成逆転でも良い。もたらされる結果はそんなに大差ないし、その結論で何かが吹き飛ぶとかはあんまりない。強いて言えば論破された側のテンションが下がる。51が勝っても、拮抗する状況を生みだせるエナジーが論破された側には残ってないのでテンション下がった分だけ状態は悪くなってる。全体のね。

呉越同舟で、上手いことやれればいいが、そんな簡単にもいかないのは悲しいかな事実だ。

けど、これはとんでもなく勿体無いと昔からずーーーっと思ってる。それこそ、中2ぐらいから。

会社の決定や、家族内での決議事項に全員賛成なんてそうそう無いだろう。満場一致で承認されたと議事録にあっても深い闇が蔓延ってるもんだ。

何故か?

そんなの簡単だ。感情があるからだ。

シンプルにその感情が決定自体に暗い影を落としている。

そう考えるとリーダーの仕事は調停だ。リーダーの仕事がリーダシップを発揮することなんていうけど。

優秀なリーダーは調停能力に本当長けている。

そして、そういう人が出世する。

日本ぽいなぁと思うかもしれない。

けど、全然日本だけの話ではない。世界中どこでも、人間が自身の言葉で会話してる限り存在するある種の雛形だ。

そう考えると論破になんの意味があるのだろうか?

拮抗した状態の判断をするために双方の意見を徹底的に議論しましたとか誇らしげに言うけど。それ意味あるんだっけ?

勝った方にカタルシスはもたらされるだろうが、負けた方には何回もいうけど何のメリットもない。何ならその議論って勝手に定義付けられている拷問空間での記憶がその後の人生に大きな影を落とすかもしれない。

そこにエナジーかけるぐらいなら、さっさと決めて。気にいらない人は、別の得意な分野でグイグイリーダーすればいい。

拗ねてる人間が周りにいるなら、それは完全に失敗してる。拗ねる前にさっさと決めて、拗ねそうな人に別の情熱を傾けてもらったほうがいい。トータルの損失は少ないんだから。

だから、本質的に議論すること自体が好きじゃないのかもしれない。前に進むために論破しなきゃいけないのであれば、してみようとは思うが。前に進むが指している前は。別に誰かに立ち塞がれた道を正面突破しなきゃいけないもない。

論破したいですか?
僕は、全く、そんなことは思わない。

繰り返す。

論破なんて意味ない!!

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