天河参拝記 50代からの神社巡礼

はじめに

 これが初めてのnoteへの投稿となる。
 2019年3月末、私は妻と高1の娘と3人で2日間の奈良県の神社巡りをした。主な目的地は天河神社と玉置神社で、20年ぶりの参拝になる。どちらも思い出深い神社だ。
 今回は天河神社への参拝だけにしぼって紀行文を書いてみた。少しでも楽しんでもらえると嬉しい。

20年ぶりに天河と向き合って

 娘が生まれて以来、天河と玉置を一度は彼女に見せてやりたいと思っていた。しかし彼女とは今まであまり天河・玉置の話をしたことがなかった。のみならず時々出かける家族の神社巡りでも、神社や神様について特別な話をしてこなかった。今回の旅でも今まで通り、最低限の情報や思い出話を話すにとどめておこうと思っていた。
 私は人と宗教的な話題やスピリチュアルの話をするのがあまり好きではない。それは一緒に神社巡りをしてきた家族や友人とでも変わらない。自分自身の信仰にのめり込めない性質ゆえに、どんなに親しくなった人とでも神社や神さまの話をすると受け身になっていた。
 ただ、友人やその場で知り合った人たちの話を聞くのは大好きだ。神社を好きになったきっかけは人それぞれだが、何もかもが興味深かった。時に「まだ心を開いていないね」と言われることもあったが、処世術に長けているつもりだった私の本質を見抜いてもらえたことが嬉しかった。
 人が神社に求めるものは様々だと思うが、私は拝殿ではいつも神さまに挨拶をするだけで、御利益は特に求めていない。私が神社に行く理由は、ただ杜の静謐な空気が好きだということだけだ。

 そういった意味で天河は私にとってはちょっと異質な神社だった。ここは少し賑やかな印象がある。山奥深くにあるにもかかわらず、いつ訪れても誰かしらいる。そんな処はめったにない。
 今回の旅では20年ぶりに訪れる天河がどのようになっているか、ちょっと知るのが怖かった。私が知っている天河は本殿や拝殿、神楽殿の新築工事が終わった後の天河ブームの頃だけだ。その頃の私はまだ若く、宗教的には覚めていたはずの私も天河ブームに浮かれていた。そんな私は今回の旅で天河の変化だけでなく、自分の老いと向き合うことが怖かったのかもしれない。

天河神社へ

 この日は石上神宮、箸墓古墳、檜原神社、大神神社、談山神社とまわって天河神社へ行った。
 車を一人で運転していたこと、思ったより暑かったこと、もともと体調が悪かったことなどが重なり、談山神社ではほとんど動けなくなっていた。あんなに楽しみにしていた天河へ行くことすら面倒に思いながら、慣れない道を車を走らせた。いつもなら道路地図を買って地図を頭に入れて走るのだが、今回はスマホのナビだけを頼りにしていたので自分が今どこを走っているのかをイメージしづらく、余計に疲れてしまった。
 途中から二十回は通った見なれた道に出た。地図を見なくてもわかる道はほっとする。旅行から家に帰るとき、家の近くの街にたどり着いた時の感覚によく似ていた。天川村の川合の三叉路まで来ると懐かしさがこみ上げて来て、ちょっと涙ぐみそうになった。
 すずかけの道と言われる県道53号線を走り、日裏の弁天橋を渡って天の川を越えると天河神社のある坪内に入る。いつも目印にしていた柿坂商店の手前の細い道を左に曲がると天河神社の境内駐車場に入れる。だが柿坂商店はすでに閉店されているようで、寂しい思いをしながらこの日宿泊するペンション・ミルキーウェイの近くに駐車した。日も暮れ、あたりが暗くなりかかっていたので先に神社に参拝することにした。

黄昏の天河神社参拝

 車で来る時はいつも正面からでなく、駐車場の横にある社務所の前から境内に入る。片づけ始めている社務所の前を通ろうとすると中に人がいたので軽く会釈をした。平日の夕暮れ時にもかかわらず境内には元気そうな私と同年代くらいの女性がいた。さすがは天河だ。
 手水舎は相変わらず龍の口から勢いよく水を吐き出している。参拝前にまずここで身を浄める。
 ここにきて気付いたが、天河に20年も来ていなかったというブランクは全く感じられなかった。いつもと何も変わらない自然体で私はここにいた。家の周りを散歩している途中に立ち寄る神社と同じ感覚だ。
 拝殿へ至る階段の両脇の常夜燈には明かりがともされていた。階段の下から見上げる神楽殿と拝殿は普段でも薄暗いが、この時は闇のように暗く感じられた。娘に「大丈夫か」と聞くと普通に「大丈夫」と答えた。何が大丈夫か娘は訳がわからなかったかもしれない。聞いた自分も良くわかっていなかった。ただなんとなく聞かずにいられなかった。
 天河の拝殿は一般的な神社と違って、拝礼する場所が拝殿と神楽殿の間の狭いところになっている。屋根があり雨風が凌げるのは有難いが、空に抜けるような清々しさはない。神社建築として珍しい造りだと思う。
 仄暗い光に包まれた御神前で、家族三人揃って参拝をした。一人だったらこの日限っては怖かったかもしれない。今までそんな風に感じたことがなかったので、もしかしたら私は天河に来るべきではなかったのか、呼ばれてもいないのにそこにいる場違いの人のような焦燥感を感じはじめた。
 そもそも逢魔が時に参拝をすることが間違いで、この時間帯はいくら神域とはいえ悪しきものを警戒しなくてはならない。たとえ信心がなくても少しは気にした方がいい。逢魔が時は大禍時でもあるのだから、良くないことが起こらないようにと周囲に気を配るようにすると災いを未然に防げると思う。霊感の全くない私のことだ、きっと疲れきっていてナーバスになっていただけだ。

天の川で宿泊

 私たちはペンション・ミルキーウェイに泊った。白い壁が印象的なおしゃれでかわいい建物は、今まで天河では民宿しか利用したことのなかった私たち夫婦には新鮮だった。館内は清潔で、生花や絵画が飾られていて、心から歓迎されているようで嬉しい。家族3人で泊まれる洋室があり、ビジネスホテルを利用して家族別室で宿泊する旅行のような寂しさを味わうこともなかった。
 夕食前に近くの天の川温泉へ行った。歩いていける距離ではあったが、疲れていたので車で行ってしまった。私は温泉というか、人と風呂に入ることが苦手だから気が重かった。幸い人が少なく、一人になれる時間があったので十分くつろぐことができた。
 若い頃に常宿にしていたのは民宿・柿坂だった。柿坂は天河友だちが増えた思い出深い宿だった。友人たちととりとめのない話をしながら柿坂から天の川温泉へ行ったり、夕食後に夜遅くまでいろいろなことを話して盛り上がったことは今でも鮮明に覚えている。いつもと違う人たちと共にいることだけで楽しかった。柿坂はもう営業をしていない。いつも出された河原決明茶の味が忘れられないくらいおいしかった。
 ミルキーウェイに戻るとちょうど夕食の時間だった。料理は和食と洋食を選ぶことができる。私たちは洋食の創作料理をお願いしていた。もしかしたら他のお客さんの人数の都合で和食に変更されてしまうかもしれなかったが、私たち以外に女性客が一人いただけだったからなのか、洋食を食べることができた。料理は素晴らしく、とても美味しかった。
 部屋に戻る前にフロントに立ち寄り、無料WiFiを使える設定を教えてもらった。こういうサービスは地味に嬉しい。
 私は自分のスマホを持っていないので、娘がSNSをしている間に読む郷土史の本を借りた。本格的に読もうというわけではなかったが、天河の歴史に思いを馳せて旅情を味わいたかった。天河に何度も来ているくせに、まともに歴史の勉強をしていないものだから我ながら情けない。家族に天河について語ることすらできない。夏目漱石の『こころ』の中でKは『精神的に向上心のない者は馬鹿だ』と言ったが、知的向上心に欠ける私は間違いなくバカだ。

かわたれの禊殿

 翌朝、ちょっと遅れて朝拝に家族で参加した。拝殿前に並べられた木製の折りたたみ椅子が懐かしかった。私たち以外には同宿の女性が一人いるだけなのと、並べられていた椅子の数が少なかったのが少し寂しい。
 ちょうど祝詞の祓詞が終わり間が空いているタイミングで席に着いた。これから般若心経が太鼓の音に乗って奏上されることになる。この時の朝の冷気が心地よい。最期にお祓いをしてもらい、お神酒をいただき、朝のお勤めが終わった。
 娘は寒いからと一人で先に宿へ戻った。私たち夫婦は禊殿に行くことにした。小雨の中を歩くのはあまり気が進まなかったが、禊殿だけはどうしても行きたかった。今回の天河行きの個人的な最重要スポットが禊殿なのだ。私が書きたいと思っている小説のアイデアの一つに天河で出会った人たちの話があり、その話の舞台の一つを禊殿にしたいと思っていて、どうしても直接見て取材をしたかった。
 禊殿が木々の隙間から見えた。何か違和感を感じる。ざわつく胸を抑えながら正面に回ると、その禊殿の姿に驚いた。
 なんて新しいのだろう。これじゃまるで新築じゃないか。天河神社本殿はもうだいぶ神さびていたのに、禊殿はまるで初めて見た時よりも新しく見える。時間の感覚がおかしくなった。
 禊殿で参拝し、橋の横から河原へ降りようと思ったが、橋周辺が大規模な工事がされているのが見えていたので嫌な予感があった。禊殿の隣にある鳥居のそばに工事現場などで用いられるカラーコーンとA型バリケードが私の気持ちを暗くさせる。
 河原へ降りようと鳥居をくぐり奥へ行くと勝手に入らないようお願いしている紙が貼られていた。そして不粋な黄色と黒の標識ロープが行く手を阻んでいる。
 ロープ越しに見える景観は異様で、大倉山の脇を流れる細い川なのに河川工事が施されていた。しかも砂防ダムが2つもある。その辺りは確か小さな滝のある処だった。天の川と合流するあたりまではまだ工事の途中だ。一体ここで何があった?
 私は滝を見るためにここに来たようなものだった。そこでの出会いを物語の始まりにしたかった。そして、それは私の思い出の場所でもあった。自分の体験を物語に込めようと思っていた。
 私の見た光景はあの天河とは思えない。もう20年前の思い出は朧気にしか残っていない。大切な物をなくした時と同じような喪失感に襲われ、悲しみも怒りの感情も湧くこともなく、ただ気持ちが沈むだけだった。私たちは失意のうちにペンションへ戻り、次の目的地の玉置神社へと向かった。

天川村の水害

 禊殿の違和感が気になり旅が終わった後で調べたら、2011年の台風で天河神社周辺が大規模な水害にあっっていたことを知った。こんな災害があったなんて全然知らなかった。当時の状況をネットで調べていて詳細を知るにつれて血の気が引いてきた。
 私が感じた違和感、禊殿の本殿が新しかったのはこの水害によって土砂に埋もれてしまったので本殿が建て替えられたからだ。天の川に面した斜面が深層崩壊によって地滑りし、川を堰き止めてしまい、溢れた水が坪ノ内の集落を襲った。その時、禊殿近くで30メートル以上の水柱が上がったと水害報告書に書かれている。
 ネットで調べたことを軽々しく書くことはできないので詳細はネットで検索していただきたい。ただ天河に興味を持ってこの駄文に辿りつき、私のようにこのような災害があったことを知らなかった人に知っておいてもらいたいと思い、ここに水害のことを書き留めておこうと思った。
 私たちが宿泊したペンションも被害にあわれていたこともネットで知った。水害を機に営業をやめた民宿がいくつかあったこともわかった。詳しい話を知りたい気持ちはいまだにあるが、当時のことを地元の人に話をうかがうことは私にはできないだろう。

国之常立神

 大水で高倉山の一部が崩れ、禊殿を水の底に沈めた。その復旧作業の折り、古文書が発見されたという。そしてその古文書によると、天河には国之常立神が祀られていたという。これには驚いた。天河神社の公式サイトによると御祭神は市杵島姫命であり辨財天として信仰されている神様となっている。
 国之常立神といえば玉置神社の御祭神だ。国之常立神はいわば地球そのものの神で、世界各地でも地母神としてガイアなど、いろいろな名前で崇められてきた最古の神だ。『日本書紀』には天地開闢の初発に出てくる神が国之常立神で、『古事記』では別天津神の次に現れた十二柱七代の神の筆頭だ。日本神話においては日本最古の神様と言っていいだろう。

 2011年、東日本大震災により日本の艮の方角より原子の青い焔が上がり、水底から国之常立神が復活した。このことが何を象徴しているのか、どんな意味があるのかは私にはわからない。

天河を振り返って

 私が恐れていた自分の老いと直面することになってしまった。
 特に恐れていたのが高揚感の喪失だ。若い頃は何度天河に来てもわくわくしていた。その時の気持ちはまるで昨日のようにはっきりと覚えているし、その時の魂振りも少しは再現できる。それが今回の天河行きでは活力を失った魂を再生することができなかった。
 今回の天河行きはいろいろな意味を重ね合わせて決めた。その中の一つに私自身の1年以上続いた抑鬱状態を打開したいという祈りを込めていた。しかしこの目論見は失敗に終わってしまった。原因は何か。年を取ったからなのか、体調不良か、あるいは当日の過労か。……おそらくその全てであろう。それ以上にここには書き出せていない小さな要因も含めて組紐のように編まれ、私の心を締めつけているのだろう。

 2019年今回の私の旅は偶然にも国之常立神を巡るものだったと、旅が終わって知ることとなった。この旅は私にとってどんな意味があるのか、今はまだわからない。これからもわからないまま死ぬことになるのかもしれない。
 娘を天河へ連れて行くことができたことには意義があったと思う。彼女がこの旅をどのように受け止めたのかはわからないし、彼女の未来にどのような影響を与えるかもわからない。でもそれでいいと思っている。ただ一つ彼女に願うことは、日本の神話や神社に少しでも興味を持ってもらえたらなということだけだ。言い換えれば、父の好きだったことに少しは興味を持ってほしいという、しょうもないことだったりする。
 3月に天河へ行き、8月にこの紀行文を書いているが、振り返ると楽しかった思い出しかない。また天河へ行きたくなってきた。この文を読んで天河へ行く人が増えたら嬉しい。

最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。