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目を閉じなければ入れないもう一つの世界(皐月物語 88)

 明日美あすみを家まで送り、帰途についた藤城皐月ふじしろさつきは服に移っていた明日美の匂いを気にしていた。検番けんばんにいた時、今日は百合ゆりにお座敷が入っていないことを京子きょうこから聞いていたので、家に帰れば母がいることはわかっている。いつもならホッとするのだが、今日ばかりは少し緊張する。
 皐月の母は鼻が利く。嗅覚が敏感なうえ洞察力にも優れているので、明日美と会っていたことは必ず見抜かれる。迂闊うかつなことを口にすると明日美との関係に疑念を抱かれかねない。誘導するべき話の方向性と、考えられる限りの想定問答を用意しておかなければ安心できない。
 余韻に浸ることもなく、あっという間に家についてしまった。小百合さゆり寮の行燈あんどん看板にはすでに明かりが灯っていた。皐月が小学校から帰る時間になると、住み込みの及川頼子おいかわよりこがいつも玄関の鍵を開けておいてくれるようになったが、この時間になると防犯を考えて鍵をかけてしまう。皐月のランドセルの肩ベルトのDカンにはキーケースがぶら下がっている。皐月はキーケースから鍵を付けたリールを引っ張り出し、玄関の鍵を開けた。
 三和土たたきにはスニーカーがなかった。及川祐希おいかわゆうきはまだ高校から帰ってきていないようだ。居間には誰もいないので、小百合と頼子は台所にいるのだろう。
「ただいま」
 二人は楽しそうにおしゃべりをしながら食事の用意をしていた。頼子がこの家に来てから、母はいつも楽しそうだ。
「遅かったね」
「うん。委員会が終わった後、検番に寄ってたら遅くなっちゃった」
「ふ~ん。明日美に会ってたの?」
 小百合とは距離が離れているので、明日美の匂いはわからないはずだ。当てずっぽうで言われたことだと思うが、母の勘の良さに皐月はびびった。
「うん。帰り道に検番の稽古場の窓から声をかけられた」
「明日美ちゃん、元気だった?」
「ん……少し疲れてたかな。根を詰めて稽古に打ち込んでいたみたいだから」
 小百合が明日美のことをちゃん付けで呼ぶのは珍しい。皐月にはその意図を測りかねたが、少なくとも明日美と会っていたことに悪感情を抱いているわけではなさそうなので安心した。
「あの子らしいわね。休みの日くらい家でゴロゴロしていればいいのに」
「お母さんも心配していたみたいで、俺に明日美の稽古の邪魔をしてこいって言ってきた」
「うちの芸妓げいこ組合のレベルだと、明日美がこれ以上研鑽けんさんを積んでもあまり意味がないんだけどね……」
 京子が明日美のことを心配しているのと対照的に、母は明日美の行動に若干の不快感を感じているようだった。皐月にはそれが寂しくて、これ以上母の心境を深く推察する気にはなれなかった。

 小百合と頼子が珍しい料理を作っていた。家では食べたことのないビーフシチューだ。部屋が少しお酒臭いな、と思って台所を観察してみると、輸入物の赤ワインと、ワインを飲んだ形跡のあるグラスが二つ見えた。これならアルコールの臭いに紛れて明日美の匂いに気付かれずに済むかもしれないと、皐月の気持ちは軽くなった。
 皐月に少し遅れて祐希が帰ってきた。祐希はいつも同じ時間の電車に乗り、夕食の時間に間に合うようにしている。一度だけ電車を一本送らせて帰ってきた時、祐希は頼子にひどく怒られていたことがあった。二人の様子を見ていた皐月には頼子がなぜ怒っていたのかがわからなかった。その件以来、夕食の時間の午後6時が祐希の門限になり、それが皐月の門限にもなっている。
 門限は祐希が恋人と会う時間を制限している。これまではそんなことを気にしたことがなかったが、今日になって初めて皐月は門限を鬱陶しく思った。夕食に間に合わせるためだけに、皐月は明日美と一緒にいたい気持ちを振り切って、明日美のマンションに寄らずに帰ってきたからだ。
 この家では疑似家族の団欒の時間が大切なものだとされている。小百合が家にいる時の夕食は楽しい時間だ。しかしそれは小百合が上手く場の空気を治めているからだ。宴席の客を捌くことに長けている小百合にとって、この疑似家族をまとめることなど容易(たやす)いことだ。
 頼子と祐希と三人の時は皐月にとって心から安らげる時間ではない。決してギクシャクしているわけではないけれど、及川親子が皐月に気を使っているのがわかって心苦しい。皐月には母のように上手く二人を扱うことができないので、学校での様子を面白おかしく話すことで、少しでも二人を楽しませるように心掛けている。
「祐希、おかえり」
「ただいま。……あれっ? 皐月、制汗剤つけてる?」
「あっ、わかった? クラスの女子から借りてつけたんだ。何種類か試してみたから匂いが混じっていて臭いかもしれない。匂い、まだ残ってたんだ」
「大丈夫だよ。そんなに匂いは残っていないし、いい香りがするよ」
 祐希は皐月のついた嘘を簡単に信じてくれた。皐月には祐希の素直さがありがたかった。祐希の反応を見て、小百合から明日美のことを深く追及をされることはないだろう、という楽観的な見通しが立った。

 祐希が制服を着替え終わって居間に戻ってくると、小百合と頼子が夕食を運んできた。祐希が配膳の手伝い始めたので皐月も手伝おうとしたが、この日は品数が少なかったので皐月の出番はなかった。
 テーブルにはビーフシチューとコンソメスープ、アボカド入りのサラダにガーリックトーストが広げられた。皐月は大蒜にんにくが苦手なので、大蒜をつけないでバターを増し増しにしてもらった。小百合と頼子には赤ワインを、祐希と皐月にはノンアルコールの赤ワインを用意された。
「今日はお座敷がないから、頼子と一緒に洋食屋みたいな夕食にしようって作ったのよ」
「まあまあ本格的よね。デミグラスソースを使っちゃったから、あまり偉そうなことは言えないけど」
「でもこんなの、今まで家で作ったことなかったな」
「私も。忙しいとじっくり煮込むなんてできないもんね」
「大勢で食べると思うと、作ってて気合が入るよね」
「そうそう。祐希と二人の食事だと、つい簡単に済ましちゃおうって考えちゃう」
 ワインを飲みながら作ったからだろうか、二人のテンションがいつもよりも高い。祐希と顔を見合わせると、二人が楽しそうで良かったという思いが通じ合ったような気がした。
 出された料理は何もかもが素晴らしかった。ビーフシチューの肉はとろけるほど柔らかかった。皐月が一人で晩御飯を食べていた頃、レトルトのビーフシチューを食べたことがあったが、それとは全然比べ物にならないくらい美味しかった。
「今日の晩ご飯、めっちゃ美味しいね。ママでもこんな料理、できるんだ」
「頼子がいてくれたからね~。あと、材料もいいの使ったから」
「私が安いお肉を買おうとすると、小百合が『今日はいいお肉を食べましょ』って言って、和牛をかごに入れるのよ。そんな高いお肉なんて買ったことなかったからびっくりしちゃった」
「短期売買の株で利益が出たからね。ちょっとくらい奮発してもいいかなって思ったの」
 小百合はタクシー乗務員の永井ながいの勧めで株式投資をするようになり、時々利益を上げるようになった。頼子が家に来る前は仕事をセーブしていたので、株式での利益が家計の足しになっていた。そんなに儲かるなら芸妓なんかやめて家で株をやればいいじゃん、と皐月は小百合に言ったことがあるが、今はたまたま時期がいいだけと素っ気ない返事だった。

「皐月、さっきお母さんから明日美の稽古の邪魔をしてこいって言われたみたいだけど、それってどういうこと?」
「お母さんが言うには、明日美が昼に検番に来てから夕方まで休みなしで稽古してたんだって。で、心配になって『少しは休んだら』って言うと、怒るんだって。疲れてて、気が立っていたのかな。で、お母さんに『私の言うことなんて聞いてくれないから、皐月お願い』って言われたんだ」
「そう……」
 小百合の顔が曇った。母は明日美の病気の詳細を知っているのだろう。京子と同じ心配顔をしているからだ。
「明日美って心臓の病気だったんだね。ママ、知ってたんでしょ? どうして俺に教えてくれなかったの?」
「……あんたに明日美のことを聞かれたのは、頼子たちが引っ越して来た時だったわね。あの時に話せるようなことじゃなかったからね」
「『あんたは知らなくていい』なんて言われたから、ずっと気になってた」
「あの場にはそぐわない話題だったから、ちょっと強引だったけど話を打ち切ったのよ」
「そっか……それもそうだよね」
 ここはしおらしく、一度引くことにした。皐月は祐希が帰宅して着替えをして下に下りてくるまでの間に、慌てて明日美の病気のことを調べた。病名を聞いていなかったのでぼんやりとした知識しか得られなかったが、命に関わることと、完治はしないことだけはわかった。皐月の想像以上に重く、深刻な病気だった。
 これ以上深掘りして明日美の病気のことを聞くことはこの場にはそぐわない。時を改めて明日美の病名を聞けばいいと思った。だが、聞いたところで安心できるようなことは何もなさそうな気がするので、知りたくないという気持ちもある。
「明日美、もう稽古も仕事も頑張り過ぎないって言ってたよ」
「えっ? そうなの?」
「うん」
「あの子がそんなこと言うなんてね……何か心境の変化でもあったのかしら」
 そのきっかけは自分だよ、と皐月は北叟笑ほくそえんだ。背徳感に思わずゾクっとした。この悪魔的な感覚は癖になりそうだが、明日美の今の状況を考えると、こんなことで喜んでいる自分こそが悪魔みたいな奴なのかもしれない。
「高卒認定試験に受かったら大学受験をするように凛姐さんから勧められたって言ってたよ」
「その話は知らないな……。高卒認定試験の勉強をしていることはお母さんから聞いて知ってたけど、大学受験か……」
 皐月は小百合と明日美の関係をよく知らない。明日美の話しぶりからあまり親しくないことはわかっていたが、母の話しぶりだと二人の関係は明日美が言うほど悪くないような気もする。
「ママ、知らなかったんだ」
「うん、知らない。りんは口が堅いから、明日美の大学受験のことは誰にも話していないんだろうね。だったらこの話は聞かなかったことにしなきゃいけないわね。皐月、あんたも真理まりちゃんに話しちゃダメだよ」
「あっ、うん。わかった」
「凛と明日美は馬が合うみたいだからね。凛なら大卒だし、明日美のいい相談相手になれるだろうね」
 凛は明日美と一緒に仕事をしたがると真理から聞いたことがあった。凛が明日美と同じ遠方のお座敷に出る時は、家に帰って来ないことが多いらしく、真理はそのことを嫌がっていた。そのせいか、真理は明日美に対してあまりいい感情を抱いていない。凛と明日美の関係性がわかった今では、皐月は真理の気持ちをを逆恨みだと思っている。
「ママは明日美の相談相手にはなれないの?」
「私? 私は明日美の新人時代のお世話係だったからね。仕事以外の相談は私以外の人にした方がいいの。役割がはっきりしていた方があの子にとってもいいでしょ」
 皐月は明日美からよく「あなたのお母さんにはいつも迷惑をかけている」と聞かされてきた。母からも「明日美のフォローは大変」という話を聞いたことがある。二人が皐月に具体的な話をしなかったのは、皐月がまだ幼い子供だったからか。芸妓の百合と明日美の関係については、もう少し先になってからそれぞれに聞いてみたいと思った。
 皐月は話題を修学旅行のお土産に変えた。みんなに何が欲しいかを聞き、明るい話へと誘導した。みんなが好き勝手なことを言うので、お小遣いの上限の七千円を超えてしまいそうだ。この金額をなんとか一万円まで引き上げられないだろうかと、修学旅行実行委員会で協議をしようと思った。

 夕食が終わって風呂に入り、皐月は部屋に戻ってPCを起動した。明日の委員会に備えて今日中に『修学旅行のしおりを2ページでまとめる』の草稿を書いてしまおうと思った。修学旅行の全体像がわかるようにするため、まずは修学旅行の目的や特に重要な規則の要点を書き出しておけばいい。過去のしおりを参考にすればよいので、作業としては大したことない。
 修学旅行実行委員の担当をしている北川先生から渡された資料の「集団行動と約束」と「旅館での過ごし方」をじっくり読むことから始めた。規則なんか読んでもつまらないだろうと思っていたが、実際に読んでみると修学旅行の様子がリアルに想像できてなかなか面白い。
 だが不満も見つかった。過去の栞には細かい規則が箇条書きにされているが、その規則には理由が何も書かれていない。皐月が考えた修正案は、全ての規則に一行ずつ理由を書く、ということだ。理由を記しておけば反発や無視する者も減るだろうし、旅行中の治安も守れる。明日、このアイデアを副委員長の江嶋華鈴えじまかりんと書記の水野真帆みずのまほに提案してみることにした。

 部屋の扉の向こうからドライヤーの音が聞こえてきた。祐希が風呂から上がってきて、洗面所で髪を乾かし始めたようだ。皐月は祐希に聞きたいことがあったので、祐希が部屋に戻ったのを見計らって声をかけた。
「ねえ祐希、今ちょっといい?」
「どうぞ」
 二人の部屋を隔てている襖を開け、皐月は自分のベッドに腰掛けた。
「ちょっと高校の勉強について聞きたいんだけど……」
「いいよ。何でも聞いて。難しいこと聞かれてもわかんないけど」
 風呂上がりの祐希はいつもよりも色気があった。風呂上がりはどうして人を魅力的にするのだろう。自分自身でさえ風呂上がりに鏡を見るとイケメン度が上がっているような気がする。
 祐希には明日美や入屋千智いりやちさととは違った魅力がある。大人と子供の狭間にある高校生は、小学生にとってはかなり大人っぽく見える。だが大人ほど手の届かない存在ではなく、現実的な恋愛対象として考えられる。同級生で幼馴染の月花博紀げっかひろきが祐希に熱を上げるのも無理はない。小学校にファンクラブがあるくらいモテる博紀だが、同級生の女子が束になっても女子高生の祐希には敵わない。
「祐希ってさ、高校の勉強をしていて中学時代と変わったことってある?」
「ん? なんか難しい質問だね」
「そうだよね……。例えばなんだけど、高校だと中学よりも難しい勉強をするよね。で、自分が成長したような感じがするとか、世界が広がったような感じがするとか、そういうのって何かある?」
「そうだな……特にないかな」
「えっ? そうなの?」
「うん。中学の延長って感じで、特にこれといった変化はなかったかな。小学校から中学校に上がった時は思いっきりランクアップした感じはしたけどね」
「へ~。そうなんだ」
「うん。やっぱり制服を着て、違う小学校の子たちと同じクラスになるって衝撃的だったよね。でも、高校生になるとそういう環境の変化に慣れちゃってたみたい」
「ふ~ん。そんなもんなのか……」
 皐月にしてみれば小学生が中学生になる感覚すらわからない。中学生が高校生になるってことは、皐月にしてみればまるで想像がつかないことだ。でも環境の変化は一度でも経験したら慣れるものだということは皐月には大きな収穫だった。
「皐月が高校の勉強の話を聞くのって、夕食の時に話していた明日美さんのこと? 高認の話が出たから、私も気になってた」
「そう。どうして明日美が高卒認定試験を受けようと思ったのかなってさ、高校生の祐希に話を聞いてみたくなったんだ。もしかしたら何かわかるかもしれないって」
「私の話じゃ何の参考にもならなかったね」
「そんなことない。中学生から高校生になって、特に変化がなかったっていうのは自分には想像もつかなかったから勉強になったよ」
「へへっ、ちょっと恥ずかしいな……私、バカみたいで。少しは成長したり世界が広がったりしろよなって自分でも思うよ」
 皐月には恥ずかしがる祐希が子供っぽく見えた。自分よりもずっと大人だと思っていた祐希なのに、祐希の自己評価が自虐的でおかしかった。
「でもね、同級生で高校中退した友だちが高認受けるって言ってたよ。その子はどこでもいいから大学に行きたいって言ってた」
「大学か……。明日美って大学に行きたいのかな?」
「直接本人に聞いてみたら? 答えにくい質問じゃないと思うから、快く答えてくれると思うよ」
「……そうだよな。聞くのに躊躇ちゅうちょするようなことじゃないよな。なかなか明日美とゆっくり話せる機会がないけど、聞ける時があったら聞いてみる」

 祐希から聞きたいことは聞けたので、皐月は自分の部屋に戻ろうと思った。祐希と話しているのは楽しいが、今は明日美のことを考えたい。祐希に対してドキドキした頃もあったはずなのに、今の皐月は祐希に対して学校の同級生のように明鏡止水の心境でいられる。
「ねえ、皐月って格好よくなったね」
「祐希も? 最近よく言われるんだ」
「自分で言う?」
 祐希がゲラゲラと笑い出した。あまりにも笑い方がひどかったので、皐月はバカにされたのかと思ってムッとした。ひとしきり笑った後、涙目で軽く謝られた。
「皐月が格好よくなったのは日焼けが取れてきたからかな。肌の色が白くなってきたね」
「なんだ、そんな理由か……」
「いいじゃない! 肌が白くなったんだから。私なんかなかなか白くならなくて……もう皐月に負けてるよ。悔しい~」
「はははっ。俺、元々色白だからね」
 皐月は日焼けをしても一カ月くらいで元の白い肌に戻ってしまう。冬になるとさらに白くなる。
「あっ、そうか。だから明日美は俺に色白だから日焼けしたら勿体ないって言ったのか……」
「そうだよ。色の白いは七難隠すって言うからね。このことわざは色白の女性について言ったものだけど、男の子もイケメンになると思うよ」
「ふ~ん。俺はてっきり日焼けした肌の方が格好いいと思ってた。じゃあさ、冬でも半袖半ズボンの男子って女子から見たらどうなの?」
「えっ……さすがにそれはないでしょ。見てるだけで寒そうじゃない。それにバカっぽい」
「ガーン! バカっぽかったのか……。俺、冬でも半袖半ズボンって格好いいと思って、千智に自慢しちゃったよ。」
「あ~あ、やっちゃった。千智ちゃん、引いてたでしょ」
「『それって変ですよ』って言われた。一緒にいたら恥ずかしいとか、冬になったら私に寄ってくるなとか、もう散々な言われようだった」
「皐月って美的感覚がズレてるよね」

 皐月は自分の部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ。いつもなら寝る前に音楽を聴いているが、今日は何も聴きたくならなかった。
 今こそ明日美と初めてキスをしたことの余韻に浸れるかと思ったが、今日は色々なことがあり過ぎた。今じゃなくてもいい雑多なことが次々と思い出され、追憶にふける邪魔をする。ただ明日美のことを思い出したいだけなのに、そんな簡単なことがなかなかうまくいかない。
 千智からメッセージが来た。中身は他愛もない話だった。いつもなら嬉しいのに、今日は明日美のことを想いたいから今一つ気持ちが乗らない。そのことを悟られたくないので、皐月は丁寧に返信をした。
 こんな日に限って珍しく真理からもメッセージが届いた。勉強の調子が悪いみたいだ。今日は凛姐さんも家にいて、そのせいで勉強のペースが乱されるらしい。また家に遊びに来てほしいと書かれていた。少し前の皐月なら、こっそり家を抜け出して、すぐにでも真理に会いに行っていた。
 3カ月ぶりくらいに筒井美耶つついみやからもメッセージが届いた。教室の席が隣同士になったことがきっかけでアカウントを交換したが、その日の夜にメッセージの嵐が来たので、もう送ってくるなと怒ったことがあった。それ以来、一度もメッセージが来たことがなかったので、今日のメッセージは遠慮がちな内容だった。修学旅行実行委員の話題だったので、これも丁寧に答えた。
 女の子たちのカットインのせいで明日美との記憶がどんどん過去の物へと追いやられてしまう。みんなからのメッセージを鬱陶しいとは思わないが、今だけはそっとしておいてほしいと思いながらも、彼女たちとしばらくやり取りを続けていた。

 メッセージの返信が重なって少し疲れた。皐月はベッドに横になり、目を閉じて目に映る世界を遮断した。
 検番けんばんを出て明日美と別れる時、皐月は明日美からメッセージアプリのアカウントを教えてもらっていた。自分から明日美にメッセージを送れば明日美と二人の世界に入れたのかもしれない。だが、皐月にはそれができなかった。
 高嶺の花に手が届いたのは確かなことだ。だが、それを摘み取るにはまだ至っていない。
 だが慌てなくてもいいのかもしれない。今日あった出来事はすべて幻ではなく現実なのだから。皐月はこのぼんやりした不安を解消するために、明日美とキスをしたことを何度も思い返した。その時の感覚を何度も繰り返し思い出していると、自分の身体が変化した。記憶だけでなく全身で明日美を感じると、ようやく安心することができた。急に眠気が襲ってきた。
 眠る直前になり、やっと皐月の脳裏に明日美の姿が鮮明に甦ってきた。目に見えないはずなのに、皐月には明日美の美しさ、温かさ、柔らかさが、現実で体験した時よりもずっと研ぎ澄まされて感じられた。
 夢と現実の狭間なのかもしれないが、やっと明日美に逢えた。だが眠い。このまま眠りたくない……必死で抗おうとしたが抵抗むなしく、目を閉じなければ入れないもう一つの世界へと皐月は沈んで行った。


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