ライナーノーツ・記録011に代えて

 帰省してから3日目の朝、風邪をひいた。原因は明らかで、前日の夜に髪を乾かすのをてきとうにしたから。地元は寒いし、うちは古いので、朝なんかはとくに、首から上がびっくりするくらい冷えている。最初はいよいよ花粉症かと思っていたけど、夜に顔が赤いことを指摘されたので熱を計って、風邪だと分かった。一夜明けてもたいして変わらなかったが、どうしても風呂に入りたかったので家風呂を使っていいか聞かれたら反対された。送ってやるから総湯へ行くように言われた。1時間後に出ることになったが、30分後に気が向いたので向かった。家から5分のところへ、車で向かう。スマホも置いて行った。降ろされるとき、傘を持たされた。大人440円の券を買って、番台に置こうとする寸前におばあちゃんが誰かによばれて中へ入って行ってしまったので、しばらく待った。用が終わってゆっくり戻ってくるところに、お願いしますといって台に置いていく。はいはいとかどうもねとかいってらっしゃいとかそんなことを言われながら、ゆっくり引き戸を閉めた。

 久しぶりの総湯は、記憶の中とほんの少し違っていた。何年か前に改修をしてから、来たことがあったかどうか、記憶が定かじゃなかった。向かって右に空間が広がっていたが、こんなに狭かっただろうか。小さな子どもが裸ではしゃぎまわっていたり、おばあちゃんたちが、お先にい、おやすみい、と言い合ったり、時間がとてもゆっくりと過ぎている。帰ってきたなと思うほどの感覚もなく、さしとて居心地が悪いということもなく、ともかく服をパッと脱いで、奥の右手にある扉に、なぜか遠回りしながら向って、開けた。

 すごい湯気、と思った。空間の中は真っ白だった。眼鏡もかけていないし、人型はわかるが、おばあちゃんかそれとももう少し若いか、そのくらいしか判別できなかった。掛湯をするとき、温度調節のための二つのプールが「温泉」「井戸水」と書かれているのが少し面白かった。それぞれを少しずつ手桶に掬って手で温度を確かめたら、ごく自然にしゃがんでいた。あ、と思った。わたしは昔、ここに来ていた、と強く思った。立って掛湯を浴びるのは温泉のマナーではない。それから、身体を洗う。洗い場も、こんなに少なかっただろうか。椅子と洗面器をもって、てきとうなところに置く。髪や体をいつもどおり洗ったつもりだが、いつもよりゆっくりしていたと思う。湯気がたちこめて、熱い湯が沸いているこの場所は、ずっとシャワーを浴びていなくても寒くない。内風呂は、記憶にないかたちだった。ゆっくり、一段ずつ階段を使って入った。

 記憶より、全然熱くなかった。昔ほど熱くない、と母も常々いっていたが、本当にその通りだった。数年前に入った時は、ぜんぜん浸かっていられないと思ったはずだったが、ちょうどいいところより少し熱めの、銭湯に張ってあるような「温めた水道水」ではない、まさに温泉、に違いない肌あたりだった。ゆっくりすすんで、腰掛のような段差にすわると、肩までちょうど浸かった。

 水面は、ゆらゆらとさざめいていた。海のように、しかし海ではありえない形で。小波のようなものが無限にあった。誰かが常に出たり入ったり湯の中を進んだり、機械で循環していたりするので、湯はひとときもしんと張られていることがない。瑠璃のような深い色で、あくせくと動き続けている。ひとつひとつのゆらぎはとても小さく、波もない。何より熱い。けれど身体全体を伸ばしても全然足りないところに身を沈めているという点では、もはや海に浸かっているのと変わらないのではとすら思った。中央には小さなファウンテンがあって、ゆっくりと温泉をはきだしつづけている。あとから入ってきた誰かが、そこで顔を洗った。なるほど、と思ったがそこを動かず、しばらくじっとしていた。自分の腕が、どんなふうに水の中にあるのか、とても気になって、しばらく動かさずにいた。面白いことに私の腕は、ひじ掛けを使っているときのようなかたちで曲がっていた。しばらく自由にしていたが、いっこうに動く気配はなかった。なのでゆっくりと、身体を動かしてみた。手を開く、閉じる。足を伸ばす、たたむ。背を丸める。あついなあ、と気づいたところで、隣の泡風呂にも行こうと思った。泡風呂といっても、坐れるくらいに浅くなった一面からずっと泡がでているだけの、シンプルな構造である。二つはつながっていて、ざぶざぶと湯をかき分けて、そして、床にゆっくりと腰を下ろした。

 あ、と再び思った。
 私は、この泡風呂の音がとても好きだった。いや、今でも。
 私は泡の音が異常なほどに好きだ。水の音や波の音もそうだが、ごぼごぼと深くから響く泡の音が一番好きだ。その原点は、ここなのか、と気づいた。しばらく、膝を抱えながら、そう思って、ゆっくり、身体を伸ばしてみた。それから、戯曲を書くなら、今だ、と思って、その夜のうちから少しずつ始めた。二週間ほどかかって、筆が止まりきるまで、飽きがこないうちに、やめにした。戯曲の書き方などまるで知らないが、曲を書いているような気もちだった。音楽を作っているときのような。譜面に、音と、詩をつけるような気もちでいた。気の向くときに、気の向いてる間だけ進めていた。それに、今日、やっと終止符をつけた。つけることができてよかったと思う。

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