大塚さんが死んだ

大塚さんが2週間前に亡くなっていたことを知った。

大塚さんは早稲田の音楽サークルの4つ上の先輩で、自分は大塚さんの人生の中でも多分、一番可愛がってもらった後輩だと思っている。

今朝、起きてベッドでiPhoneを起動すると、「大塚明彦の母です」という件名のメールが来ていて、妙な胸騒ぎとともに開いたその中には「明彦が1月16日未明に命を落としました」と書かれていた。

吉祥寺 火事 1/16 で検索すると、その記事はすぐに出てきた。http://www.sankei.com/affairs/news/180116/afr1801160011-n1.html

持ち物もほとんどすべて焼けてしまい、わずかに残っていた書類の中にあったアドレスを頼りにメールしたということだった。

聞くと、ほかに連絡できた人は誰も居ないという。もし、自分のアドレスが発見されなかったら、大塚さんの死を知ることが出来たんだろうか。


火事で焼けてしまったマンションの一室、つまり大塚さんの住居に、大塚さんの次に長く居た人間は、自分だろうと思う。多分。

大塚さんは、アルコール中毒で、ニートだった。大塚さんはニートは認めてなかったけどね。

たぶん44歳、かな、で亡くなる先月まで、ご両親の残したマンションとお金で生活していたと思う(これ、ニートだろう)。お父さんはクラシックの音楽評論家で、小澤征爾と付き合いがあって、個人的な手紙を見せてもらったことがある。お父さんが亡くなったことも大塚さんから聞いて、部屋にあるお骨の前で飲んだこともある。今朝メールを頂いたお母さんは、大学教授だと聞いていた。

その頃の大塚さんの「生活」と言っても、昼頃起きて、吉祥寺サンロードのSEIYUに買い物に行って、夕方から家で安い焼酎を飲み始めて、朝方寝る、というサイクルを延々と繰り返すというものだった。

大塚さんはその生活を「都会で山籠り」と名付けていた。大塚さんにとっては、その生活は修行であり、哲学だった。

と言っても、わけわかんないか。

大塚さんは何もしなかった。仕事はしない。本ももう読めないと言っていたし、映画も観なかった。ほかの趣味もなかった。お酒を飲むことと、なにかを考えることだけしかしなかった。

早稲田の音楽サークルに居た頃から、楽器も弾けないし、音楽もほかの先輩ほど全然知らないし、ヴォーカリストとしての才能もなかった。

それでも、大塚さんが大好きだから、卒業後に、自分がバンドメンバーを集めて、やる気のない大塚さんを口説いてヴォーカルをやってもらったりした。ああ、楽しかったな。大塚さんの好きな、浅川マキやルー・リードのカバーを選曲した。スタジオのあとは、必ず朝まで飲んだ。年末の浅川マキさんのピットインのライブには、二人で一緒に毎年行っていた。

大塚さんは社会的に見れば、ご両親が裕福なことを除けば、最底辺だろう。

でも大塚さんは、むちゃくちゃおもしろかった。誰より世界を見渡していて、誰より人間というものを愛していて、誰より本質だけを追求していた。と、少なくとも自分は、そう思っていた。

大塚さんが大好きだった。こんな人、どこにもほかに絶対に居ない。酒を飲もうと誘われるのが、うれしくて仕方なかった。(場合によっては、とってもめんどくさかったが)

ある時期は、毎週のようにこのマンションに通って、酔っ払い、大塚さんの語りを聞き、説教され、笑い、眠った。朝起きると、またすぐに大塚さんの語りは始まった(さすがに朝からこれはしんどかった)。

誰も飲み相手が居ないときは、壁に向かって喋ってる、と言ってたな。

仕事のある平日に泊まることもあった。朝起きて激しい二日酔いのなか仕事に向かおうとしていると、目覚めた大塚さんがこう言った。

「矢川、仕事か。大変だな。でもな、仕事がないっていう人生も大変なんだ」

大塚さんは世間をバカにしているわけでもなかった。たぶん、本物の社会不適合者であることと、それでもこの世に生きている自分を、試練のように考えていた。ああ、そんなつまんないこと言ったら大塚さんに怒られそうだけど。

大塚さんが「自分がいつかする仕事は、文章を書く、という仕事になると思っている」と言ったことを覚えている。読みたい。でも、何年も、ほんの少しも、なにも書いてる様子はなかった。その構想だけはさんざん聞かされていた。タイトルは決まっていた。毎日、二日酔いで毎日お腹を壊してトイレでものを考える、「下痢の思想」というものだった。

大塚さんはどんな人生を送るんだろう。と思っている間に、自分の仕事やなんやらも忙しくなり、疎遠になってしまっていた。


そんな大塚さんと、よく知っている吉祥寺のあの部屋が、全部焼けてしまった。

自分のアドレスだけが残っていて、それを知らされた。なんだか、とても深い縁のようなものを感じざるを得なかった。

疎遠になってしまった大塚さんから「おい矢川、俺、死んだぞ」と言われてるみたいだった。


1年前くらい前だろうか、Netflixドラマ「火花」の神谷を見て、大塚さんを強烈に思い出していた。純粋さと過激さゆえに、周囲に理解されず、落ちていく神谷と、それでも神谷についていく徳永が、一時期の大塚さんと自分に、少しだけ重なった。

ドラマの舞台も吉祥寺だった。神谷と徳永が二人でよく行く店「美舟」は、学生の頃、初めて大塚さんに連れていってもらった店だった。

「火花」で徳永は神谷さんの伝記を書く。俺が大塚さんの伝記書いていればよかったな、と思った。

大塚さんが死んだことを知った今日、大塚さんのことをいろいろ考えていて、気がついたらこれを書き始めていた。

(気が向いたらつづく)





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