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映画「裸のランチ」について

さて、昨夜、親友と話していて、話題に上がったのが、
ウィリアム・S・バロウズ!!!
バロウズといえば、「裸のランチ」。

(以下、久々に、「裸のランチ」の話題が出てテンションが上がったので長文注意)

彼の「カットアップ」の表現はある意味、
純粋文学に対するあらたな芸術的表現への挑戦。

映像の分野でも
一度組み立てた、映像の順番を変えることによって、
その意味が変わるモンタージュ理論が確立されているように、
文学においても、ただ、字面を追い、その文章の意味をそのまま感じるだけでなく、
新たな表現に挑戦し、そして、これまで感じることのなかった感覚を感じられる文章表現への挑戦というものは、いろいろ試してみるべきだと思う。

実験映像というものがあるように実験文学というものはあるのかな。

そもそも、
文章表現というものは、あまりにも、その歴史の古さから、先駆者によって表現(というか、正解とされるもの)が固まってしまっており、なかなか新しいことに挑戦しづらい分野だ。

余談ではあるが、
そういう意味では、映像表現は、まだまだ、発展途上、先駆者も文章表現に比べれば、少ないので、開拓、発展の余地を見出しやすい。

とはいえ、
「カットアップ」による表現は、
論理的文脈から外れるんだから、訳がわからんことには変わりないけれどね。
その訳の分からん文章から、どのような感情を抱くか。まだまだ、理解されていない人間の感覚への実験みたいなところもあるかな。

ふと思い出したけれど、
10年前に日本ケータイ小説大賞受賞を受賞した、
「あたし彼女」
も、新しい挑戦だったなぁ。

当然、新しいことをしようとすると、賛否両論はあがるけれど、
特に、日本のように、
がっつり島国、保守的な価値観と、共感、和の精神の強い国では、新しいことをしようとすると、頭にカビの生えた古い人たちが、あれは文学じゃない、とか、あれは音楽じゃない、とか、まあ言い出すから面倒くさい。
表現を開拓していこうとする人々にとっては、本当に面倒くさい話だ。

もともと、表現欲求があって → 文法、技法、正解
のはずなのに、
大人になると、そこが逆になっている人がたくさんいる。
いつの間にか、目的と手段が逆転している人てんこ盛り。
基本に立ち返ることの大切さとは、結局のところ、そこに帰結するんだと思う。

で、
「裸のランチ」
の話に戻ると、
あの論理的文脈から外れた、訳がわからん原作を、
バロウズの思考を理解して、映画化した、クローネンバーグ監督の手腕が、とにかく凄い。

いわゆる文学における抽象表現を、実際の映像の中で具現化しようと挑戦している作品。

正直、最初見た時は、訳が分からなかった。

けれど、今では、最高に大好きな作品の一つ。
もう何度みたかわからない。

頭の中で、うんうん唸っていても、進まないけれど、
とにかくペンや筆を走らせる事で、創作物が形作られていく感覚というのは、創作活動をしている人ならあるのではないかとおもう。
それが、
裸のランチでは、タイプライターなんだけれど
もう、その道具が著者に命令して文章を組み立てていく感覚。
その感覚が、変態的な描写(というか、人間の本能的な欲求の描写)になっている。

クローネンバーグ監督の作者、人間に対する理解
その後のクローネンバーグ監督作品を見てもわかるように、ただの変態監督ではない、というか、変態であることも、世間一般で正常といわれる状態の延長線上に存在していること、しっかりと理解している。
人間というものを描く最高の監督。

まあ、とはいえ、バロウズは、天才だけれど、キチガイだな。
David Cronenberg監督作品

https://youtu.be/koCZ-o50EHY

#DavidCronenberg
#裸のランチ
#あたし彼女

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